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芥川龍之介の『歯車』をどう読むか⑫ そう単純な話ではない

そう単純な話ではない

 たとえば『歯車』には物語性がないというとき、評者は具体的にはどういった点をさしているのだろうか。たとえば「ふり」と「おち」があったらどうなのだろうか。「も」の強調によって現れる「書かれていないこと」をどう見るのだろうか。主人公が次第に追い詰められていく流れをどう見るのだろうか。
 
 いやしかし一方では『歯車』が『罪と罰』という表紙に綴じ間違えられた『カラマーゾフの兄弟』といったあからさまないかがわしさで染められ、何かちぐはぐなものを振りまいていることは紛れもない事実だ。一言で言えば的を絞らせない。

 ここで小穴隆一が暴露した芥川龍之介の死の真相のほか、

 芥川龍之介の自殺の原因に十ほど心当りがあるという話を宇野浩二氏からおききしたことがあったが、当然ありそうなことで、また文学者のような複雑な精神生活を持たない人々でも、これ一つという剰余なしのハッキリした理由だけで自殺することの方が却って稀なことではないだろうか。(坂口安吾『文章の一形式』)

 今こそ、自分は芥川君の自殺について、一つの判然たる推論を下すことができるのだ。もちろん理由は、さまざまの事情にからみついてる。けれども私の信ずる所によれば、彼の自殺における「漠然たる不安」の一つは、近く來らんとする彼自身の心境的革命にまで、名状しがたき不安の困憊を感じたのである。實に芥川君の文學的生涯は、死を賭したる「彼自身への戰ひ」だつた。彼は自由を欲求してゐた。むしろディオニソス的なる、奔放不羈の自由を欲求してゐた。しかもその自由は、悲しいかな彼自身の教養に屬しなかつた。彼自身の教養は、あらゆる點に於て理智的であり、常識的であり、禮節的であり、そして二二が四的の透明さだつた。(萩原朔太郎『芥川龍之介の死』)

 ……と芥川龍之介の自殺について様々に言われる。言われ過ぎる。小穴隆一が暴露した通り単純なものではなかろうと思いたいという人には、小穴の暴露は永遠にさして意味を持たない。しかし「告白」ではない小説『歯車』が遠慮なくミスリードを仕掛けていることは間違いないのだ。

 ここに書いた通り芥川龍之介がハンサムで、有名人で、女にもてて、女好きで、守備範囲が広く、ホテルでは「仕事」していたことまではもう隠すまでもないことだった。しかし『歯車』の主人公はおかしなことを言い出す。「僕はあらゆる罪悪を犯していることを信じていた」として、的を絞らせないのだ。「政治、実業、芸術、科学」も嘘だという。「十年前の僕も幸福ではなかった。しかし少くとも平和だった」としながら、平和ではなくなった理由の的を絞らせない。「絶えず僕をつけ狙っている復讐の神を感じ」ながら、復讐の髪が何ゆえ主人公を狙うのか、そこのところを曖昧にしている。

 たとえば、

「マダム・ボヴァリイ」を手にとった時さえ、畢竟僕自身も中産階級のムッシウ・ボヴァリイに外ならないのを感じた。……(芥川龍之介『歯車』)

 こう書いてあるのを読めば、「不倫と経済的困窮」が思い浮かぶ。そうかと思えばこのように、

 日の暮に近い丸善の二階には僕の外に客もないらしかった。僕は電燈の光の中に書棚の間をさまよって行った。それから「宗教」と云う札を掲げた書棚の前に足を休め、緑いろの表紙をした一冊の本へ目を通した。この本は目次の第何章かに「恐しい四つの敵、――疑惑、恐怖、驕慢、官能的欲望」と云う言葉を並べていた。僕はこう云う言葉を見るが早いか、一層反抗的精神の起るのを感じた。それ等の敵と呼ばれるものは少くとも僕には感受性や理智の異名に外ならなかった。が、伝統的精神もやはり近代的精神のようにやはり僕を不幸にするのは愈僕にはたまらなかった。(芥川龍之介『歯車』)

 と「官能的欲望」を否定する「伝統的精神」に抗うそぶりも見せる。「不倫は文化」だとでも言い出しそうだ。あるいは、

 僕は又「韓非子」の中の屠竜の技の話を思い出し、展覧室へ通りぬけずに幅の広い階段を下って行った。
 僕はもう夜になった日本橋通りを歩きながら、屠竜と云う言葉を考えつづけた。それは又僕の持っている硯の銘にも違いなかった。この硯を僕に贈ったのは或若い事業家だった。彼はいろいろの事業に失敗した揚句、とうとう去年の暮に破産してしまった。(芥川龍之介『歯車』)

 この「屠竜の技」「破産」当たりの話は「韓非子」ではなく「荘子」のエピソードらしいが、そもそも龍之介に屠竜の銘の硯を贈る人はどうかしている。そもそも屠竜の技とは苦労して身につけた無駄な技術のことで、この期に及んで「も」のレトリックや認知バイアスを利用した幻惑などを縦横に振り回す『歯車』の作者からは最も遠い言葉だ。

 僕はこの年をとった女に何か見覚えのあるように感じた。のみならず彼女と話していることに或愉快な興奮を感じた。そこへ汽車は煙をあげながら、静かにプラットフォオムへ横づけになった。僕はひとりこの汽車に乗り、両側に白い布を垂らした寝台の間を歩いて行った。すると或寝台の上にミイラに近い裸体の女が一人こちらを向いて横になっていた。それは又僕の復讐の神、――或狂人の娘に違いなかった。……(芥川龍之介『歯車』)

 或狂人の娘に復讐される、……この言葉を作者のプロフィールと付け合わせてしまえば、復讐とは母親から与えられた狂人の資質ということになってしまう。そのアイデアが、

「君はちっとも書かないようだね。『点鬼簿』と云うのは読んだけれども。……あれは君の自叙伝かい?」
「うん、僕の自叙伝だ」(芥川龍之介『歯車』)

 このように固められようとしたとき、ふとこんな言葉が思い出される。

「可愛いわね、先生は。可愛い目をしていらっしゃるわね」
 彼等は僕には女生徒よりも一人前の女と云う感じを与えた。林檎を皮ごと噛っていたり、キャラメルの紙を剥いていることを除けば。……しかし年かさらしい女生徒の一人は僕の側を通る時に誰かの足を踏んだと見え、「御免なさいまし」と声をかけた。彼女だけは彼等よりもませているだけに反かえって僕には女生徒らしかった。僕は巻煙草を啣えたまま、この矛盾を感じた僕自身を冷笑しない訣には行かなかった。(芥川龍之介『歯車』)

 女生徒とは振舞から精々中学生だろうか。中学生を捕まえて「一人前の女」とは矛盾は矛盾でも聊か剣呑な矛盾だ。母親から与えられた狂人の資質は「官能的欲望」のストライクゾーンを広げただけではなく、中学生を捕まえて「一人前の女」と思わせたのではないかと。しかし人間というものはそんなに単純なものではない。

「妙に人間離れをしているかと思えば、人間的欲望もずいぶん烈しいし、……」
「善人かと思えば、悪人でもあるしさ」
「いや、善悪と云うよりも何かもっと反対なものが、……」
「じゃ大人の中に子供もあるのだろう」
「そうでもない。僕にははっきりと言えないけれど、……電気の両極に似ているのかな。何しろ反対なものを一しょに持っている」(芥川龍之介『歯車』)

 この自身による見立ては、萩原朔太郎の見立てと実によく似ている。

 芥川龍之介は、いよいよ私にとつて不可解の謎、むしろ神祕的な人物にさへなつてきた。彼は「思ひやり」と友情とに充ちた、愛すべく慕はしき人のやうでもあり、反對に冷酷で意地惡き人のやうにも感じられた。何よりも不可解なのは、一面極めて冷靜なる理智の人でありながら、一面狂氣じみた情熱に内燃してゐる人のやうであつた。彼は常識的な人物でありながら、どこにか驚くべく超常識的な、アナアキスチックの本能感をかくしてゐる。常に彼の作品は、二二が四で割り切れる所の、あまりに常識的な理智的合理物でありながら、しかも言語の或るかくれたる影に於て、ふしぎに神祕的な「鬼」を感じさせる。(萩原朔太郎『芥川龍之介の死』)

 狂人の息子の異常な告白に見せかけながら、日本近代詩の父と呼ばれる萩原朔太郎の批評眼と遜色ないほど自分が見えていることも示す。そんな精神異常者はあるまい。いや完全に真面でもないが、完全な異常者ではない。まさにあまりに常識的な理智的合理物でありながら、しかも言語の或るかくれたる影に於て、ふしぎに神祕的な「鬼」なのだ。萩原朔太郎という人は、なかなか批評家としても達者だ。神祕的な「鬼」という表現は『点鬼簿』から採ったものかもしれない。点鬼簿は過去帳の意味で、死者の姓名を書き記した帳面のことだ。ここで「鬼」は中国語の鬼の意味で「死者」を指す。拝鬼というば墓参りという意味になる。萩原朔太郎の神祕的な「鬼」とは人間を超越した特殊能力の持ち主である『鬼滅の刃』的な「鬼」だろう。芥川は確かにそういう意味の鬼だった。単なる死者ではない。単なる死者にしてしまった人は、間違っている。萩原朔太郎はなかなかだ。

 そして芥川龍之介の小説も達者だ。こんな小説がわずか十二回ばかりのnoteの記事で片付けられる筈もない。どうしても十三回は必要だ。



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