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芥川龍之介の『歯車』をどう読むか⑪ なにが恐ろしいのか

なにが恐ろしいのか

 これまで繰り返し書いてきたように、文章読解の基本は書いてあることを読み、書いていないことを勝手に付け足さないことだ。しかし多くの人がこの逆をやってしまう。それが誤読の原因となる。この『歯車』も無残な誤読によって全く別の話にされてきたようなところがある。

 何故人は誤読し、その誤読を広めたがるのか?

 これまで私はこのような外側からの解釈、作品そのものを殆ど読んだともいえない解釈を批判してきた。こうした解釈は後の芥川龍之介の自殺、本人の異常な精神状態の告白を重視しすぎて、作品の中で主人公が直面する状況を捉えきれていない「基本的な帰属の誤り」という認知バイアスの無残な成果でしかない。全く同じことが太宰治の『人間失格』に関する一般的な解釈についても言える。

 芥川龍之介はただ自分の認知のバイアスに振り回される様子を「告白」しているわけではなく、主人公をさまざまな認知バイアスに陥らせながら、明確に「世界が言語化されるということはどういうことか」「言語が意味を持つとはどういうことか」という問題を意識に上らせている。また『歯車』の主人公はこの言葉遊びの連想の中で捨象するように、目の前の現実を放置する。それが病的であるかないかという心配は医者がすべきことであり、素人が口を出す必要はない。また作品から病名を診断することが文学であるわけもない。

 読者はロゴスが実体化する(するかのように思える)世界に主人公がいることを見なくてはならない。芥川が認知バイアスを弄んでいるのに、それを異常だ、病気だと冷やかして何が面白いのか。

 読者は「やっと運命の僕に教えた「オオル・ライト」と云う言葉を了解しながら」と「僕はいまもそのホテルの部屋に前の短篇を書きつづけている」という記述の間にどういうことが起こったか、その「状況」を説明できなくてはならない。

 読者は『歯車』が認識のグラデーションの実に微妙なところを突いていることを見なくてはならない。わかりそうなことと、錯誤の区別の曖昧さを見なくてはならない。

 読者は言葉に影響されやすい主人公がフレーミング効果による認知のバイアスに陥りながら「も」という係助詞の役割にスポットライトを当てていること、異常な割に妙にレトリカルで小器用なところを見なくてはならない。

 読者は『歯車』の結びは作者の心の声などではなく、小説としての結びであることを見なくてはならない。結びは「自殺したい」ではなく「殺してくれないか」になっているが、実際には芥川は二年前から死に場所や方法について考えてきており、『或る阿呆の一生』を書いた時点で「薬品」は既に手に入れてあったと考えられるからだ。

 読者は「セピア色のインク」に苦笑しなくてはならない。

 読者は主人公がホテルで仕事以外に何をしていたのか考えなくてはならない。そしてたまには織田作之助を読まなくてはならない。そしてのり弁より安い私の本を買わなくてはならない。谷崎の生誕の地ではのり弁が千円で売られていることを知らなくてはならない。

 そして読者は屋根裏の隠者の醜い性欲に気が付かなくてはならない。変な宗教に嵌らないように気を付けなくてはならない。

 読者は主人公の人生の歯車が狂ったことを見なくてはならない。

 そして、主人公が妻から「お父さん」と呼ばれることを見なくてはならない。妻からすれば、今にも死にそうな「お父さん」は、自分の息子の父親なのだ。この心細さはいかほどだろうか。そしてその妻を裏切り、何やら罪を犯し、復讐でもされそうな主人公の救いの無さはいかほどだろうか。妻と子を残し自殺することは二年前から決めていた。方法と場所を考え続けて生きて来た。妻には感づかれていた。そして苦しめていた。そうあらためて気づかされた瞬間をとらえた言葉が「僕の一生の中でも最も恐しい経験」だった。

 この「恐しい」とは何がどう恐ろしいのだろうか。二年前から自殺することを決めていたなら、恐怖の対象は自分の死そのものではない筈ではないか。いやしかし作品中のどこにも二年前から自殺することを決めていたなどとは書いていないのだ。この恐怖は、二年前から自殺することを考えていた男のものではなく、ただ何ものかに復讐されることに怯えた日々を生きて来た男が、

「どうもした訣ではないのですけれどもね、唯何だかお父さんが死んでしまいそうな気がしたものですから。……」

 という妻の一言に「死刑宣告」を受けた恐怖であろう。この一言で自分の死は確定したかのように思えた、ということなのだろう。つまり『歯車』は「告白」などではなく小説である。当たり前すぎて誰もそう書かないのではなく、きちんと読めている自信がないからそうは書けなかったのだ。

 きちんと読む、そのためには ↓





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