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知らなかったとは言わせない 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む53

 

何故『英霊の声』なのか


 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を俯瞰した時、その作品論の主たる対象となる作品が小説に偏り、『わが友ヒットラー』や『サド侯爵夫人』などのわずかな例外を除いて三島由紀夫の最も得意としたところであり一般的にも一部では小説よりも評価の高い戯曲に言及されず、戦前戦中の作品が無視され、そして『仮面の告白』『金閣寺』『豊饒の海』といった堂々たる長編作品に混じって『英霊の声』という短編小説が四部構成の第三部を引き受けている理由については、序論で十分に説明しきれているとは言えない。

 この『仮面の告白』-『禁色』、『金閣寺』-『鏡子の家』という二系統の併置を以て三島の戦後の思想の基礎とし、第二期及び第三期に当たる彼の三十代を検討した後、第四期への転換のきっかけとなった『英霊の声』を論じる。この作品によって、三島は第一期の少年時代(戦中)へと回帰し、神格化された天皇を掲げた政治思想運動を開始するが、同時に、「いきなければならぬ」という意志は、死なねばならぬという当為へと転換されることとなる。 

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 ここに書かれている内容で唯一正直なところがあるとすれば、それは平野の三島由紀夫論の掲載が「『英霊の声』論」から始まっているという事実が示すように、平野啓一郎が『英霊の声』こそは短編小説でありながら三島由紀夫の思想上の転換期を示す重要な作品だと見做している点だけである。

 たとえば「この作品によって、三島は第一期の少年時代(戦中)へと回帰し」と本気で考えていれば平野は『英霊の声』と『みのもの月』や『花ざかりの森』などの初期作品との関係、その思想性の一致を比較検証しなければならなかったはずだ。

 そして「神格化された天皇を掲げた政治思想運動を開始する」のに十分な思想性が『みのもの月』や『花ざかりの森』に見られることを証明しなくてはならなかった。しかし平野は『英霊の声』の思想性だけを掘り下げ、『みのもの月』や『花ざかりの森』を隠蔽した。無論『みのもの月』や『花ざかりの森』などの初期作品と『英霊の声』には思想性の一致などというものはどこを探ししても見つからない

 ないものはない。こじつけ名人が聖書の暗号のように探すしかない。

 平野啓一郎は『みのもの月』や『花ざかりの森』などの初期作品を一切読まなかったわけでは無かろう。読めばそこに『英霊の声』との思想性の一致などというものはどこを探ししても見つからないことが理解できたはずだ。理解できなければ単なる馬鹿だが平野啓一郎は馬鹿ではない。平野啓一郎はそこに「神格化された天皇を掲げた政治思想運動を開始する」のに十分な思想性がないことを知っていた筈だ。これはとても理解できませんでした、気がつきませんでしたと言い逃れできるような話ではない。

 自由主義、民主主義には懐疑的で、少なくとも三十代の間は、ほとんど"ノンポリ"に近かった。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 こう述べられているのが「Ⅲ 『英霊の声』論 1 三十代後半の三島」でのことである。天皇崇拝者が終戦とともに変節してノンポリになり、急にまた天皇崇拝者に「帰郷」するという言い分はどうだろう。

 繰り返すが十代の三島由紀夫、平岡公威は天皇を「天ちゃん」と呼んでいた。軍国主義者でも右翼でもない。むしろやや左よりな反発も見せていた。

 一部の軍人の罪悪の一班ははつきりとした事実なので、そんなものにおつかなびつくりで「御意御意」と頭を下げてゐるのは卑しい沙汰です。これは我々文人としても常に学ぶべき態度です。

(昭和十八年、七月廿九日、東健あての書簡/『三島由紀夫 十代書簡集』/新潮社/1999年/p.171)

 平野啓一郎は三島由紀夫の書簡は読んでいないのだろうか?

 おそらくそんなことはあるまい。

 読みながらセレクトしているのだ。それは殆ど資料の改竄と言えるのではないか。自説に都合のいい手紙だけを摘まめば自説が破綻なく出来上がる。そんな論文にどんな価値があるというのであろうか。

さし出がましいやうで恐縮ですが、貴下もどうか堀氏の御心構でやつていたゞきたうございます。そしてその究極に花咲く文学こそ、真に日本をして日本たらしめる、真の日本文学であらうことを信じぬわけにはまゐりません。

(昭和十八年、九月十四日、東健あての書簡/『三島由紀夫 十代書簡集』/新潮社/1999年/p.181)

 どうも十代の三島は天皇崇拝者ではなくひ弱な文学青年である。

父の愛読書は「フランス敗れたり」であり「ヨオロツパの七つの謎」であり、「ナチス」「ナチス」「ナチス」一点張りです。……

(昭和十六年、二月二十四日、東健あての書簡/『三島由紀夫 十代書簡集』/新潮社/1999年/p.27)

 一番身近に反面教師がいては素直に天皇崇拝などは出来まい。

アメリカと戦争をするらしいですが、もう時期は遅いでせう。独逸はもうぢきへたばりますし、英国と講和を結ぶかもしれません。まさか兵隊にとられないと思ひますが、とられたらどうしませう。いつそワーツと戦争があつて、一年ぐらゐで終わつてくれるといゝのですが。

(昭和十六年、十一月十日、東健あての書簡/『三島由紀夫 十代書簡集』/新潮社/1999年/p.75)

 あの威勢のいい遺書に関わらず、本音はこんなものである。まるで子供である。言ってみれば戦争というのは迷惑なもので、他人事である。国体の本義も解っていない。ここに戻って、どうして天皇を掲げた政治思想運動を開始できるというのか。(繰り返し書いているように外見上の右傾化は『風流夢譚』の影響で、そこにはねじれがある。)

 無論私はここで三島由紀夫の批判をしている訳ではない。素朴に作法として、三島由紀夫論の構造を批判しているのだ。

 やはり、三島作品は以下のように分けられ論じられるべきではなかろうか。

日本浪漫派時代  『酸模』、『花ざかりの森』、『みのもの月』
第二次戦後派時代 『盗賊』、『仮面の告白』、『潮騒』
人気作家時代   『金閣寺』、『永すぎた春』、『美徳のよろめき』
武士時代     『憂国』、『太陽と鉄』、『F104』 
総決算      『豊饒の海』 

 蓮田氏の説へのお話、面白く拝見いたしました。しかし結局私は詩人の魂を信じます。すなはち蓮田氏よりも佐藤春夫氏を。蓮田氏は日本文学を思想といふ立場で考へることを極力さけてゐられるにしても評論などになると、やはり常識が出てこられるのでせう。尤も「日本の伝統」について蓮田氏が語られたのをきゝましたが常に「先に立てる」といふことをいはれる。その「立てるもの」に神をみることにより、極端にいへば、例の路傍の石ころも、一匹の鼠も、「仏」といふ名の赤児も皆仏になるやうに、荷風が江戸文学を、佐藤氏が漱石等を常に「前に立ててゐる」ことに、詩人の血脈を信じつゝ大きな意味をおいてゐられるやうです。かういふ議論からすれば、とにかく今の文壇には、「前に立てるもの」をもたぬといふ点で、徒らに万葉に走つたりする浮薄さの点で、つまらぬ人々もたくさんゐるのではありますまいか。

(昭和十八年、五月二十二日、東健あての書簡/『三島由紀夫 十代書簡集』/新潮社/1999年/p.162)

 十代の三島はただの詩人だった。そこに天皇崇拝の思想などない。

平岡公威
一、 御父上様
御母上様
恩師清水先生ハジメ
学習院並ニ東京帝国大学
在学中薫陶ヲ受ケタル
諸先生方ノ
御鴻恩ヲ謝シ奉ル
一、 学習院同級及諸先輩ノ
友情マタ忘ジ難キモノ有リ
諸子ノ光栄アル前途ヲ祈ル
一、 妹美津子、弟千之ハ兄ニ代リ
御父上、御母上ニ孝養ヲ尽シ
殊ニ千之ハ兄ニ続キ一日モ早ク
皇軍ノ貔貅トナリ
皇恩ノ万一ニ報ゼヨ
天皇陛下万歳

(『私の遺書』/『生きる意味を問う -私の人生観』/三島由紀夫著/小川和佑編/大和出版/1984年/p.6~7)

 遺書が嘘かどうかなど論じてもつまらない。それはもう、「こう」としか書きようのないものだった。それは一つの形式であり、ここに思想性などないだろう。手紙と引き比べてみて、どちらが本当の平岡公威なのかは明らかだ。

 平野は帰郷すべき十代の三島由紀夫の思想性のなさを覆い隠すために『英霊の声』を利用したに過ぎない。未成年者思想偽造罪である。この罪は重い。刑は一年未満のおやつ抜きか、三十回以下のお尻ぺんぺんである。

[余談]

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