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国は家の周り 三島由紀夫の『憂国』をどう読むか②

 結局この『憂国』というタイトルの意味を平野啓一郎は誤解しているのだと思う。

 風呂に入って酒を飲み、寝室で麗子を待つ間、武山中尉はこんなことを思ってみる。  

 自分が憂へる国は、この家のまはりに大きく雑然とひろがつてゐる。自分はそのために身を捧げるのである。しかし自分が身を滅ぼしてまで諫めようとするその巨大な国は、果たしてこの死に一瞥を与へてくれるかどうかわからない。それでいいのである。ここは華々しくない戦場、誰にも勲しを示すことのできぬ戦場であり、魂の最前線だつた。

(三島由紀夫『憂国』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 ここには三島独特の、いかにも理解不可能な屁理屈はない。

①国は家の周りである

 ……家という共同体の最小単位があり、そこで日々の暮らしが営まれている。風呂に入り、飯を食い、酒を飲んで、情交する。その暮らしの場が家なら、その家に水や米や嫁を持ち込むのが地域社会で、そのもっと遠くには言語や文化や経済の一区切りとしての国家という枠組みがあるけれど、その真ん中にはやはり家がある。この感覚は難解でも奇異でもない。
 ここで「個人」ではなく家とした意味は後で検討するとして、国を家の周りと捉えることにはまず納得できるところである。

②自分は国のために命を捧げるのである

 ……ここで武山信二中尉は「そのために」として明確に「国」を指示している。天皇のために、ではない。

③自分は自らの死を以て国を諫めようとしている

 ……諫めようとしている相手は国である。では何をどう諫めようとしているのか。それは二・二六事件の首謀者たちと同じ思想を指してはいないだろう。なんなら後で反乱軍に参加することもできたわけであるから。ここは狭く解釈すれば討伐の勅令に反対していると見做すこともできるが、広く解釈すれば討伐の勅令を出させる国を批判していることになる。あくまでも天皇、および天皇制の批判にはしていない。国の問題としてどうなんだと言っているだけで、ここには天皇はいない。

④国が自分の死に一瞥を与えるかどうかわからない

 ……国は自分の死を無視するかもしれない。あくまで意識しているのは国であり、天皇ではない。

⑤自分が死ぬこの場は魂の戦場である

 ……武山中尉は逃げたわけではない。しかし反乱軍に参加するつもりもなかった。そちら側で戦うのではなく、自己犠牲による国家体制の批判を試みる戦闘に加わった。

 こう整理してみるとこの切腹には天皇というものが一切必要ないことが明らかであろう。そしてあくまで書かれていない理屈に目を向ければ、

⑥加納、本間、山口らの応援もできない

 ……ということも解る。討伐隊には加わりたくない。しかし反乱軍にも参加したくないという状況下で、腹を切る、と決めたわけなので、武山中尉は皇道派ではないことが解る。つまり天皇を担ぎ天皇と軍隊を直結させることには賛成していないのだ。

 この点は後の『文化防衛論』や三島憲法とはずれているところなので、平野啓一郎はあえて積極的に無視したところなのではなかろうか。(※1)三島由紀夫は最後まで『憂国』を否定しなかったようだし、二・二六事件の首謀者たちにシンパシーを示してる。その結果としてはここには、無視できないもう一つの天皇観が現れてしまっているのである。

 ところで小説としての『憂国』は解りやすいけれども後の三島由紀夫の言動と付け合わせると解らなくなる憂国の志しを示した後、もう一つの謎に向かう前の最後の営みというものを丹念に描いていく。

 二人は裸で接吻し、まずは武山中尉が麗子の体を見る。乳首を唇に含む。麗子も、

「見せて……私にもお名残りによく見せて」

(三島由紀夫『憂国』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 と、夫の体を見る。乳首に接吻をして腋を嗅ぐ。そして間もなく裂かれるであろう腹に接吻して泣く。そこから下にはいかない。残念ながら。

麗子は叫んだ。高みから奈落へ落ち、奈落から翼を得て、又目くるめく高みへまで天翔つた。中尉は長駆する聯隊旗手のやうに喘いだ。……そして、一トめぐりがをはると又たちまち情意に溢れて、二人はふたたび相携へて、疲れるけしきもなく、一息に頂きへ登つて行つた。

(三島由紀夫『憂国』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 二人が最後の晩餐ではなく情交を選び、そして三島由紀夫が丹念にその場面を描写しているのは何故なのであろうか。何故二人は鍋焼きうどんを食べ、モエ・エ・シャンドンを呑まないのか。それは鍋焼きうどんが村上春樹の予定された最後の晩餐であり、モエ・エ・シャンドンがアントン・パーヴロヴィチ・チェーホフの末期の水だからだ。……いやそういうことではないのだ。単に二人はセックスがしたくてしたくてたまらなかったのだ。死を覚悟して最後に臨むセックス、それほど燃えるものはなかろうと三島由紀夫は考えたのだ。
 しかし三島由紀夫は最後の晩餐に新橋の「末(すえ)げん」の鳥鍋を選んだ。このずれはどこから来るのか。

 三島由紀夫はこの時点では神風連のことを調べておらず、神風連が決行前に平気で飲み食いしていたことを知らなかったからであろう。

 しかし晩飯を食わなかったおかげで二人のセックスは食後の運動と言った匂いを帯びることもなく、禁欲的な(?)感じさえする折り目正しいものになった。そしてそこには何の神秘もなく、祈りのようなものもない。あくまでも現実的なセックスだ。村上春樹で言えば『国境の南、太陽の西』のセックスであり、『1Q84』のセックスではない。

 おなかが空いて、その後お寿司を食べれば、それはただのセックスである。武山信二、麗子夫妻の情交は抽象的には書かれていても装飾を一切排除したセックスに留まる。したいからする。それだけだ。

 その後二人はてきぱきと準備をして、武山は短い遺書をしたためる。

「皇軍万歳 陸軍歩兵中尉武山信二」

(三島由紀夫『憂国』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 三島由紀夫の二十歳の遺書が「天皇陛下万歳」であるのに対して、ここでは「皇軍万歳」とされる。この皇軍は討伐隊のことではなく、皇道派の反乱者、間もなく死にゆくだろうと武山が考えている加納、本間、山口らのことであろう。君らとは行動を共には出来ないけれども、君らの栄誉をたたえて俺は死ぬよと言うことか。
 そして武山は切腹する。

 切腹というものは不思議なもので成功した人は死んでしまうので成功体験を聴くことはできない。しかしこういうものだという作法は伝わっていて、

全體切腹の作法として、其席に就き、肩衣を撥ねて、肌を脫ぎ、而る後ち前に在る三方を推戴き、短刀を把つて、腹に擬する其利那に、介錯人後から首を討落すが定例である。


元禄快挙録 下篇
福本日南 著岩波書店 1940年

 森鴎外の『堺事件』にあるように介錯なしの切腹ではなかなか死ねない。三島由紀夫はなかなか困難な切腹を描いて見せる。まあよく意識が飛ばないなと言う切腹である。実際三島はこの切腹の場面を描くために乃木大将の切腹の記録も含めさまざまな資料に当たったことだろう。そしてなかなかあのようには死ねないのではなかと考えたはずだ。従って武山の切腹は、まず腹を横一文字に切り裂き刀を抜く、腿を試し切りして切れ味を確認する、左脇腹を刀にのしかかるようにして刺す、腹膜を抜く、引き回そうとして刀が腸に絡まる……となかなか壮絶なものだった。

 しかし不思議なことにそれだけ切腹の困難さを描きながら、三島由紀夫は乃木大将の殉死を全く疑う様子がない。

 彼はいきなり刃へ向かつて体を投げかけ、刀はその項をつらぬいて、おびただしい血の迸りと共に、電灯の下に、冷静な青々とした刃先をそば立てて静まつた。

(三島由紀夫『憂国』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 三島由紀夫は明らかに介錯なしの切腹の困難さを描いている。問題は精神力ではなく、意識の維持である。散々調べた挙句、なかなか乃木将軍のようにきれいには死ねないというところまでは三島は確認していた筈である。

 苦しんでゐる良人の顔には、はじめて見る不可解なものがあつた。

(三島由紀夫『憂国』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 しかしこれは乃木希典の自死に対する疑義では無かろう。

 麗子は喉を突いた。刃を横に引いた。

 これも乃木静子の自死に対する疑義では無かろう。

 麗子は刃先を喉の奥に刺し通す。森鴎外の『高瀬舟』を読めば、やはりそれぐらいはせざるを得ないのだろう。冒頭で説明されたとおり二人は死んだ。このセックスからの自死の描写には屁理屈は出てこない。ただ行為があるだけだ。セックスをしたからセックスをする。腹を切ると言ったから腹を切る。極限まで単純化された行為のみがある。何か徹底的に余計なものを排除した必死な感じというものがある。

事件発生以来親友が叛乱軍に加入せることに対し懊悩を重ね、皇軍相撃の事態必死となりたる情勢に痛憤して

(三島由紀夫『憂国』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 そう総括された二人の死は、「鬼神をして哭かしむ」と評せられていた。鬼神とは自ら近衛師団を率いて鎮圧するも辞さず、と云う態度を示した昭和天皇のことでは無かろう。『憂国』に天皇は不在である。

 武山中尉の切腹の判断の唐突さは、切腹のシーンの強烈さによってもみ消され、同時に国を「諫めよう」という身勝手な願望を切実なものに見せてしまっている。第二章でやや滑稽に描かれた肉欲そのもののような情交は誠実であり、「お供」してしまう麗子の判断も美しいものに見えてしまう。

 ここには夫唱婦随という古めかしい倫理観が聳え立っていて、麗子の考え方は断じて容認できないと、まるで隣国からミサイルが飛んできたような批評を加えることは可能なのであろうが、勿論これは一つ古い時代の夫婦のありかたであったわけでさえないのだ。どの時代にもなく、乃木夫妻殉死という滑稽な神話が小説として再現されたようなもので、二・二六事件の首謀者たちの家族が罰せられたわけでもないのだ。

 麗子の死はいささか特殊なものである。三島由紀夫が個人と国ではなく、家と国の関係を捉えたのは、「ひとり者なら切腹の前にオナニーくらいしかできないのか。なんだつまらん」と考えたからではなかろうが、やはり明確にセックスと国家をぶつけ合う意図があったからであろう。

 小説としての『憂国』は、夫婦󠄁相和シなのに、なんで皇軍が分裂しとんねんの話と言ってみてもいいだろうか。

 しかし繰り返すが『憂国』のなかで麗子は腹を切る良人に付き従うだけの無思想な女として描かれている。彼女の前には国家も何もない。この当時でさえこんな女がいるのかなと考えさせられるような書き方だ。言ってみればあまりにもリアルではない。これが何の仕掛けなのかという点は良く解らない。

 この書き方は何か乃木静子の死を称賛する謎の勢力に無批判に同調するものに見えなくもない。三島由紀夫に乃木静子の死のいかがわしさが見えていなかったことは本当に謎である。


※1 平野啓一郎の『三島由紀夫論』「28 自刃」には『憂国』に触れられた箇所がない。「26 『奔馬』」から読み直してみたが、言及されているのは、

 因みに、三島が作品中で美化して書いた「行動」と、実際の縦の会の「行動」とで、やはり大きく異なっているもう一つの点は、『憂国』のように、或いは「神風連史話」のように、三島が瑤子夫人に——況してや子供たちに——殉死を求めなかった点である。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 こう指摘する「35 「何ものかに恥じた」」の記述のみである。つまり『憂国』に関する自刃の意味に触れることは避けて、飯沼勲と武山信二の自刃を比較することをあえて避けているように見えるのだ。

 そしてたとえば「39 「武士道精神」と国防」の章でも『憂国』には触れない。つまり平野啓一郎は一瞬は『憂国』のことを思い浮かべてみても、そこには武士道精神も軍の在り方に関する問題意識も、これという形では見出すことが出来なかったのだ、と見做すことが出来るように思う。これは決して思いがけない言いがかりでは無かろう。

 平野啓一郎は『憂国』をそっと脇に寄せて『三島由紀夫論』を書いている。これが無意識に行われたとは到底信じられない。

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