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『彼岸過迄』を読む 4372 イメージギャップから見えて來るもの

 夏目漱石のほかの作品と比べても『彼岸過迄』は特に解り難い、捉えきれない作品であると思います。その理由はこれまで見てきたように、

・主人公・田川敬太郎が物語から疎外されるという特殊な構造を持ち、二層目三層目の意識に潜らないといけないから

……という点にまずはあると云ってい良いかと思います。

 ただそれだけではありませんね。文学の第二の目的を「幻惑」とする漱石は、パズルを提示して考えて見ろと要求します。

 あるいは、そもそも書かないで済まします。

 書かないので気が付かない人もいると思います。しかし気が付いていないとわからないことがでてきます。

 しかし一番読者を混乱させるのは、割と本線の部分での人物の不一致、特に探偵される女と、田口千代子の「イメージの重ならなさ」なのではないでしょうか。
 ここにはいくつかの原因があると思います。
 まずは田川敬太郎が異常な関心で彼女に引き付けられているにも関わらず、「マドンナ」「池の女」のようなキーワードを拵えなかったことが挙げられます。容姿の描写だけではどうも曖昧なのですね。松本恒三は後に彼女を大蟇と呼び、田川敬太郎もまたその特徴を捉えていました。しかし、

 敬太郎は女の笑い顔をこの時始めて見た。唇の薄い割に口の大きいのをその特徴の一つとして彼は最初から眺めていた、美くしい歯を露き出しに現わして、潤沢の饒かな黒い大きな眼を、上下の睫の触れ合うほど、共に寄せた時は、この女から夢にも予期しなかった印象が新たに彼の頭に刻まれた。

(夏目漱石『彼岸過迄』)

 この逆接の「が」によって「唇の薄い割に口の大きい」から「潤沢の饒かな黒い大きな眼」に意識がシフトされてしまい、後で松本が大蟇を出してきたときに、あれ、そうだっけ? となるくらいです。何故かというと、この前に千代子の容姿についてはこうあるからです。

 女の容貌は始めから大したものではなかった。真向に見るとそれほどでもないが、横から眺めた鼻つきは誰の目にも少し低過ぎた。その代り色が白くて、晴々しい心持のする眸を有っていた。宝石商の電灯は今硝子越に彼女の鼻と、豊ふっくらした頬の一部分と額とを照らして、斜かけに立っている敬太郎の眼に、光と陰とから成る一種妙な輪廓を与えた。

(夏目漱石『彼岸過迄』)

 田川敬太郎は「唇の薄い割に口の大きいのをその特徴の一つとして彼は最初から眺めていた」と云いながら最初は唇に関しては何とも感想を述べていないのです。ここでも「鼻つきは誰の目にも少し低過ぎた」その代わり「晴々しい心持のする眸を有っていた」と意識は目にシフトされます。これは「馬鹿だけどいい人」「いい人だけど馬鹿」と、語順によって意味が変わるのと同じで、どうしても後ろが強調されてしまうわけですよね。
 また探偵の場面では田口千代子は一言で言えば豊満な体を持つ甘え上手の女であり、まるでまさに高等淫売でもあるかのように描かれています。しかし後半、「雨の降る日」や「須永の話」の中の田口千代子は、特にその発達した肉体を誇示することなく、甲斐甲斐しくもあり、いじらしくもある処女であるかのように描かれていて、読み返してさえやはりイメージのギャップがぬぐい切れないわけです。

 このギャップのあるキャラクター設定は他の登場人物にも施されていて、剽軽者とされていた田口要作が軍人のようになり、高等遊民の筈の松本恒三が非論理的だったりします。

 そう気が付いてみると昨日考えた「おさん」の件は、やはり作が嫁に行って新しく別の飯焚が雇われていたのではなく、飽くまで作のイメージギャップが「おさん」だったのではないかと思えてきます。

 そうそう。イメージギャップと云えば若旦那の須永市蔵の内面や、須永市蔵の母が案外悪いんじゃないかという話が悪ふざけではなくなります。

 これはある意味漱石の達観、英雄や偶像を認めず人間というものを冷徹に眺める感覚から来る設定でしょう。完全な善人も完全な悪人もいないかもしれないけれど、人間にはそういうところがあるのだ、と書かれているように思います。

「おれは御前の叔父だよ。どこの国に甥を憎む叔父があるかい」

(夏目漱石『彼岸過迄』)

 こんな正論もやがて『こころ』では「憎まないまでも利用しようとする叔父はいるでしょう」と反論されることになります。

 こうして見て行くとイメージギャップの落差において最も大きい須永市蔵の母の暗黒面がこの作品の肝であり、田川敬太郎が、浪漫的性質を持ちながら大した小説を持ち得なかったという賺しと「対」が出来ているように思えてきます。

 ただし、

 須永市蔵の文鎮に驚かない田川敬太郎の正体は、飽くまで謎ではある。

[余談]

 毎年この時期には、どこかの出版社であの日に合わせて三島由紀夫に関する新しい本が印刷・製本されてるんだろうなと思う。都度新たな情報が出て來るわけではないけれど、何か新しい情報が出て来てますます三島由紀夫が解らなくなるんじゃないかという気がする。
 しかしそういうことよりも「コペルニスク」みたいな単純ミスを最終的にどうするのか、そろそろ考えて行くべき時期なんじゃないかなと思う。人間としての三島に関心が集中していて、むしろその作品がないがしろにされている感じがないとは言えないように思う。




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