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江藤淳の漱石論について① 漱石作品の変容について

 漱石作品の変容について

 自分自身がやればできたかもしれないことをやらなかったという深い反省の意味を込めて、いま改めて江藤淳の漱石論について考えてみたい。

 明治四十二年の晩夏に、『それから』の筆を置いた時、漱石の前半生は終わる。文明批評的典型代助の問題は、半ば時代の問題であった。しかし今後の彼にとって救済すべきは自己であって、社会や時代などではない。漱石は『それから』以後の作品で、より少なく文化論者的に、より多く救済すべき自らに焦慮する人間として、ぼくらの前に現れる。そのような傾向が明らかになるのは、少なくとも『心』以後の作品に於いてである。(江藤淳『夏目漱石』/『中央公論特別編集 江藤淳 1960』所収「変節について」より孫引き)

 自ら自著を引用し、論を建てる時、引かれた引用文は、揺るがぬ自分のロジックであるべきだろう。長い時間をかけて繰り返し主張しているのだから、そのロジックには自信があるべきだ。しかしこの江藤淳の漱石論はいささか乱暴なものではなかろうか。

 明治四十二年の晩夏に、『それから』の筆を置いた時、漱石の前半生は終わる。

 朝日新聞に『それから』掲載されるのは明治四十二年の六月から十月にかけてのことである。十月は晩夏ではない。日記には確かに八月十四日に『それから』を書き終わったとあるが、新聞小説はそのまま責任校了とはならない。ある程度書き溜めしたものを先に渡してはいたとして、その後ゲラの直しもあろうことから「明治四十二年の晩夏に、『それから』の筆を置いた」とはいささか正確さに欠けるのではなかろうか。無論「『髭の男』を読んで」が掲載されるのが明治四二年九月五日のことなので、そこに「『それから』を脱稿したから」とあるので、直しがなければ初秋でも良い。また「漱石の前半生は終わる。」とは作家人生を二分の一に分けたものかと思われるも、作家人生が明治三十八年の一月『吾輩は猫である』より始まると捉えたとき、大正五年十二月に没することから計算すれば、『門』で区切るのが妥当ではなかろうか。無論『三四郎』『それから』『門』が「前期三部作」と呼ばれていることなどどうでもいい。そもそも「前期三部作」の前に『吾輩は猫である』『坊ちゃん』『趣味の遺伝』など多くの作品が書かれているからだ。『三四郎』からギヤチェンジしたかのように「小説が上手くなっている」ように見えるのは確かだが、それ以前の作品を贔屓に挙げる人も少なくない。そういう意味では「前期三部作」といった括りそのものこそ見直されるべきかもしれない。しかし夏目漱石作品が『それから』以前以後でその性質をはっきりと変化させると見るならば、そこには十分な検討が必要であろう。「終わる」とは一体何が終わったのか、そして何が始まったのか見極める必要がある。これも「胃に打撃を受けた。」と「『髭の男』を読んで」にあることからの着想かもしれない。

文明批評的典型代助の問題は、半ば時代の問題であった。

 郊外に広がる小さな家から麺麭のために働く人、日本外交、不正会計、幸徳秋水に振り回される警官まで批評する代助は、まさに『三四郎』において広田が準えられた批評家である。

 三四郎はこの時ふと汽車で水蜜桃をくれた男が、あぶないあぶない、気をつけないとあぶない、と言ったことを思い出した。あぶないあぶないと言いながら、あの男はいやにおちついていた。つまりあぶないあぶないと言いうるほどに、自分はあぶなくない地位に立っていれば、あんな男にもなれるだろう。世の中にいて、世の中を傍観している人はここに面白味があるかもしれない。どうもあの水蜜桃の食いぐあいから、青木堂で茶を飲んでは煙草を吸い、煙草を吸っては茶を飲んで、じっと正面を見ていた様子は、まさにこの種の人物である。――批評家である。――三四郎は妙な意味に批評家という字を使ってみた。使ってみて自分でうまいと感心した。のみならず自分も批評家として、未来に存在しようかとまで考えだした。あのすごい死顔を見るとこんな気も起こる。(夏目漱石『三四郎』)

 しかし文明批評は『吾輩は猫である』から切れ目なく続いており、『三四郎』にも広田のこんな発言がある。

その時広田さんは急にうんと言って、何か思い出したようである。
「うん、まだある。この二十世紀になってから妙なのが流行る。利他本位の内容を利己本位でみたすというむずかしいやり口なんだが、君そんな人に出会ったですか」
「どんなのです」
「ほかの言葉でいうと、偽善を行うに露悪をもってする。まだわからないだろうな。ちと説明し方が悪いようだ。――昔の偽善家はね、なんでも人によく思われたいが先に立つんでしょう。ところがその反対で、人の感触を害するために、わざわざ偽善をやる。横から見ても縦から見ても、相手には偽善としか思われないようにしむけてゆく。相手はむろんいやな心持ちがする。そこで本人の目的は達せられる。偽善を偽善そのままで先方に通用させようとする正直なところが露悪家の特色で、しかも表面上の行為言語はあくまでも善に違いないから、――そら、二位一体というようなことになる。この方法を巧妙に用いる者が近来だいぶふえてきたようだ。きわめて神経の鋭敏になった文明人種が、もっとも優美に露悪家になろうとすると、これがいちばんいい方法になる。血を出さなければ人が殺せないというのはずいぶん野蛮な話だからな君、だんだん流行らなくなる」(夏目漱石『三四郎』)

 どうも『それから』で漱石作品を区切るのは不自然なことに思われる。しかし江藤淳はわざわざこう述べているのである。

 しかし今後の彼にとって救済すべきは自己であって、社会や時代などではない。漱石は『それから』以後の作品で、より少なく文化論者的に、より多く救済すべき自らに焦慮する人間として、ぼくらの前に現れる。

 ここでは程度が問題にされている。『それから』以後の作品では救済すべき自らに焦慮する人間の方によりフォーカスされるという程度に理解すればいいのだろうか。では次の一文はどう理解すればいいのだろうか。

 そのような傾向が明らかになるのは、少なくとも『心』以後の作品に於いてである。

『それから』で「ぼくらの前に現れ」ていながら、そのような傾向が明らかになるのは、少なくとも『心』以後の作品? 現れていながら明らかではない? では一体『門』『彼岸過迄』『行人』はどういう作品だったのだろうか。そしてもし江藤淳が『心』を救済すべき自らに焦慮する人間を描いたと見做しているとしたら、その読解には大きな陥穽がある。無論江藤淳一人の陥穽ではない。『心』の読みにおいて、見逃されがちなことは

①「私」の父親を明治天皇と同じ病気に仕立てて生々しく浣腸すること

②明治天皇の病気に伴う自粛を描いたこと

③御大喪の日に乃木大将夫妻が殉死するという不可思議な事態を批判したこと

…などである。詳しくは別記事を参照されたい。

 いくら考えても先生の自殺の方法が解らないように、乃木大将の妻・静子が何故、どのように殺されたのか解らない。

 先生は大正天皇万歳とは言わない。明治という時代が終わり、何が始まったとは書かない。しかし急ごしらえの明治政府が最後の最後に乃木大将夫妻殉死という珍妙な芝居を仕掛けて迄成し遂げようとした近代化に対して、「静を生かす」という痛切な皮肉をぶつけたことは認めてもよいだろう。

 どうも『それから』以降次第に漱石作品はユーモアを無くし、深刻なものに向かっていくという柄谷行人のストーリーは、『それから』で区切りをつけようという江藤淳の見立てに寄り添うものかもしれない。しかしやはりそこに区切りはなかろう。文明批判は登場人物の演説、例えば、

「すると、同じようなわるい事を明日やる。それでも成功しない。すると、明後日になって、また同じ事をやる。成功するまでは毎日毎日同じ事をやる。三百六十五日でも七百五十日でも、わるい事を同じように重ねて行く。重ねてさえ行けば、わるい事が、ひっくり返って、いい事になると思ってる。言語道断だ」
「言語道断だ」
「そんなものを成功させたら、社会はめちゃくちゃだ。おいそうだろう」
「社会はめちゃくちゃだ」
「我々が世の中に生活している第一の目的は、こう云う文明の怪獣を打ち殺して、金も力もない、平民に幾分でも安慰を与えるのにあるだろう」
「ある。うん。あるよ」
「あると思うなら、僕といっしょにやれ」
「うん。やる」
「きっとやるだろうね。いいか」
「きっとやる」(夏目漱石『二百十日』)

 こうしたスタイルから次第に登場人物の環境の濃やかな設定にシフトする。例えば『明暗』では勤め人の津田が指輪を買って痔瘻の手術をしただけで借金しなくてはならなくなる。三四郎が汽車で乗り合わせた爺さんのように戦争批判はしないが、『門』の宗助も役所勤めなのに、弟一人を大学に通わせる甲斐性がない。そこで昔と今の物価の話が出る。漱石が目にしていたのは土地や債券を持った資産家が楽に暮らし、ただ働くだけではたちまち困窮に陥りかねないまだ未完成な近代資本主義であり、日清日露戦争後の莫大な戦費捻出のために疲弊した日本である。

 漱石は明治三十八年(一九〇五)九月の日露戦争講和反対運動を書かない。日比谷騒動を書かない。明確な言論統制は大正五年以降のことだが、『それから』にも表れる幸徳秋水の大逆事件の明治四十三年以降、次第次第に「空気」として感じられるものであったのではなかろうか。

  1911年〈明治44年〉1月24日幸徳秋水は処刑される。『門』の連載が1910年3月 - 6月。修善寺の大患の後、つまり幸徳秋水の死後、『彼岸過迄』が朝日新聞に連載されるのが、1912年1月 - 4月。作家としての漱石の人生をあえて二つに区切るならここだろうし、漱石作品にもし変容が見られるとして、それは必ずしも自発的、内省的なものではなく、大いに環境要因、あるいは時代の影響もあるのではなかろうか。本当に幸徳秋水が殺されてしまったこと、この一点においてもその前後で時代の空気が変わったことを認めざるを得なかったのではないか。そのため一見夏目漱石作品は変容したように見えるかもしれない。しかし本質的には変容していない。より慎重に言葉が選ばれ、文明の怪獣を打ち殺すためにパズルのような仕掛けが工夫されるようになったのだ。『こころ』の先生の死ぬ理由は解りっこないと柄谷行人は書いているが、では静子が殉死した理由は解っているのだろうか。ここにパズルがあることに気が付かないで夏目漱石論を書くのは無茶である。それは十二個のヤクルトをパックごと飲むくらい無茶なのである。




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