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「共感」とは、同じだと錯覚すること

「共感」は、ときには温かく、ときには残酷になると思う。

東京都現代美術館で開催されている、「あ、共感とかじゃなくて。」展
タイトルを読んだときの、疑問というか、言語化できないモヤモヤというか、妙な魅力に惹かれて、足を運んできました。

ここでは、感じたことをつらつらとお伝えできればと思います。

共感展について

東京都現代美術館で開催されている、「あ、共感とかじゃなくて。」展に行ってきた。

(このタイトルが好きすぎるのに、スタッフさんたちが「共感展」と略されてていて、若干複雑な気持ちになった。)


「共感はいつでも正しくて優しいのか?」という問いかけがテーマになっており、10代をメインターゲットにしている。

共感展では、5人のアーティストの作品が各エリアごとに紹介されている。

そして、これらの作品を見て「共感」ができなくても、すぐに好き・嫌いを決めずに、「この人は何を考えているのか」「何をしているのか」を考え続ける面白さを知ってほしい、という狙いがある。


「手話」は、「話す」と「書く」の中間にあるのか?

大体の企画展は、チケットを渡して中に入ったすぐのところに「ごあいさつ」が展開されている。

共感展の「ごあいさつ」


ここでは「開催した経緯」「どんな作品があるのか」「伝えたいテーマ」といったことが書かれていることが多い。

共感展では壁の「ごあいさつ」に加えて、「手話」で説明している動画が展示されていた。

「手話」による動画が流れている


壁に書いてある文章と同じかな?と思いきや、じっくり動画を見ると、どうやら微妙に文言が違う。
「こういう場面があるよね」「こういう気持ちにもなるよね」といった、具体の表現が多い。

このときに、「手話」って、書き言葉 と 話し言葉の中間なのではないか、と思ったのだ。

話し言葉はきちんとまとまった文章ではなく、適宜単語が追加されたり、話が脱線したりする。
一方書き言葉は、文量が多くならないように余分な言葉が削られ、密度が濃く簡潔な表現が多い。

では、「手話」は、どちらに近いのだろう?

「手話」は意味に対応した動きを行ってコミュニケーションを行う言語であり、話し言葉と比較するとダラダラと続くことは少なく感じる。
(日常的に手話でコミュニケーションをとっている方々は、私が認識している話し言葉と近いのでは…?とも思うが、分からない。)

一方で書き言葉とは違い、具体の挿入が多かったりや表情・動きの強弱もある。

では、手話という言語は、どの位置にあるのだろう?

この辺りは、もう少し言語学を勉強して、考えてみたいなと思った。
「言語の本質」が途中になっているので、読み進めよう…。
(途中までですが、どんな条件が当てはまれば「言語」になるのか?ということが体系的に書かれており、読んでいてとてもたのしいです。)


私のあの期間は「引きこもり」だったのか

展示室3では、渡辺篤さんの「セルフポートレート」「ドア」「アイムヒア プロジェクト」が紹介されていた。

渡辺篤さんは引きこもりの経験があり、孤立している人の存在を多くの人に想像してもらおうと活動しているアーティストである。

「セルフポートレート」は、引きこもっていた当時の渡辺さんが、部屋を出ると決意したときの自撮り写真を使った作品。

金継ぎのような手法でヒビが修復されていた。


この作品を見たときに、なんだか優しい気持ちになったと同時に、作品から強い力を感じた。

一度割れてしまったという過去は戻せない、でも「金継ぎ」という手法を通して、また新しい価値が生まれる。

むしろ、割れる前よりも、高く評価される場合もある。

「過去」に戻ってやり直したい、と思うことはないが、たまに自信を無くすことがある。
そんなときに、勇気をもらえる作品だと思った。


そして、渡辺さんの最大のテーマである「引きこもり」。


地面に置いてあるクッションに座って鑑賞できる



引きこもりの定義はとても曖昧であると知り、私が過ごしたあの薄暗い時間も「引きこもり」だったのでは、と感じた。

窓の外の世界は動いていくのに、「アイムヒア」の声が届かない。

このまま、誰にも、何にも届くことはないんじゃないか。


そんな感覚を思い出して少し苦しくなったが、「アイムヒアプロジェクト」の月の写真を見て、気持ちが少しほぐれていく感じがした。

様々な人が撮った「月」の写真

「セルフポートレート」も、「アイムヒアプロジェクト」も、やわらかくて、決して触られてはいないのに、包み込まれているような作品だった。すてきだ。



「共感」とは、同じだと錯覚すること

第6エリアの「空を眺める野原」では、空色の紙に、「共感」という言葉からイメージする意味や思いが書かれ、壁一面に貼られていた。

壁一面の「共感」

残念ながら紙が無かったので書けなかったが、自分が思う「共感」を考えてみた。
が、これが結構むずかしく、帰りの電車や翌日の通勤でも考えていた。

そうして出した結論としては、
「共感」とは、同じだと錯覚すること だと思う。

最初は、自分の円と他人の円が交わる部分が「共感」だと思った。

円を交わらせるかどうかで快か不快かが決まり、同意なく勝手に円を近づけてると不快だし、自分が近づけたいときは相手に許可をもらって近づけるような、そんなイメージ。

でも、この交わっている部分は、本当に「同じ」なのだろうか?と疑った。

どこまでも私たちは自分の世界しか生きていなくて、自分の目で見て、自分の頭で考えるしかできない。

だから、「共感」するということも、自分の中にあるものから似たものを引っ張りだしてきて、そこに類似性や共通点を見出して、「分かった」錯覚を起こしているのではないか。
そんな風に思うのだ。

錯覚というとあまり良くないイメージがあるが、使い方次第だと思う。

よくX(旧Twitter)で見かける「みんなそんなこと解って楽しんでんだよ」というコラ画像があるのだが、錯覚だとわかりきったうえで共感し、共感を求めるのは、完全に悪とは言い切れないんじゃないか。

大切なのは、「錯覚」だということを完全に忘れないようにすること。
同じ思いかどうかなんて、自分にも、相手にも、誰にも分からない。

「共感」を扱うとき、そんなことを意識していきたいと思った。


まとめ

「共感」という部分から外れているような、そうでもないような、気づきがたくさんある企画展だった。

10代向けの企画展ではあるが、現代アートが苦手な方にぜひ行ってみてほしい。

触れ合って、知らない自分の気持ちに気づいたり、美術とは別の部分と繋がったり。
解釈を押し付けられることなく、受け入れたり、受け入れなくてもよかったり。
自由に考えを巡らせられるのが、現代アートの好きなところだ。

そういった私の「好き」が、いろんな人に伝わりやすい企画展なのかなと感じた。

11/5(日)まで開催されているので、機会があれば、ぜひ足を運んでみてほしい。


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