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なんで公共の場で下ネタを叫んではいけないの?

こんばんは!

「30日間note毎日投稿を目指します!」
とか言いながら、さらっとそれを達成できなかった小針です。
量より質を重視したくて、今日から毎日投稿をやめます。

だからと言って、釣りタイトルに走ったわけではありません。
先日小学6年生の男子から、そのような質問をされました。
質問をしたくせにこちらの答えを一切聞かずにドッジボールのあそびに戻る彼を見ながら、「なんて答えるべきだったか」と悩んでいました。

ことの発端は、小学6年生の男子たちが、児童館という公共の場所で下ネタを連発していることに対して僕が注意したことから始まります。
我々大人がある程度共通で持っている「倫理観」をしっかり彼らに言語化して伝えるのには時間がかかる。

彼らはあそびの中でテンションが上がり、その場のノリで叫んでいるだけですから、「なんで公共の場で下ネタを叫んではいけないのか?」という質問に対してちゃんと向き合う気などさらさらありません。

こちらが食い下がれば、頭のいい彼らはさらに屁理屈をこねるでしょう。
そして最終的に「ダメなものはダメ!」
と言ってしまえば、こちらの負けです。
彼らと心を通わせることができずに終了。

流動的な教育の現場において、「子どもと向き合うこと」の難しさを実感する日々です。

■子どもの「なぜ?」にトコトン付き合う

最近学校におけるワークショップで、「哲学対話」というプログラムをやったという話を聞きました。

ファシリテーターと生徒たちが車座(円)になり1つの「疑問」をただ掘り下げていく。
その「疑問」からどんどん派生していっても構わない。
ただし、喋れる人は「棒」を持つ人だけ。
1本の「棒」は円の中心に置かれており、誰でも喋りたい時にそれを手に取ることができる。
それを持っている人以外は、喋っている人の話を黙って聞く。
もちろん、頷きや「うんうん」と言ったリアクションは構わない。

実施した人の話では、「なんで下校する時には転がっている石を蹴りたくなるんだろう?」という疑問が生徒から出たそうです。
それについて、みんな思い思いに意見を言いながら、話を深めていきます。

僕はこの話を聞いて、面白いなと思いました。
子どもだけじゃなくて、大人も積極的にやっていきたいプログラムだと思います。

実際に児童館で働いていると、子どもから「素朴な疑問」を毎日のように質問されます。

「なんでマスクをしなくちゃいけないの?」
「なんでこの場所(立ち入り禁止の部屋)は入っちゃい
 けないの?」
「なんでおやつの時間に喋っちゃいけないの?」
「なんで下ネタを言ってはいけないの?」

などなど、挙げればキリがありません。

これらの問いに、みなさんはなんて答えますか?

実際に現場に出られている方なら分かると思いますが、忙しい時は、これらの質問にきちんと向き合ってイチから丁寧に説明することが難しい場合があります。

「なんでこの場所(立ち入り禁止の部屋)は入っちゃい
 けないの?」

「いや、だって入っちゃいけないルールだから」

そんな感じで、ついつい理由になっていない説明で誤魔化そうとしてしまうことがあります。
僕が子どもだったらきっと、そんな返答にトコトン「なぜなぜ攻撃」します。

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「いや、僕が聞いているのはその理由なんです。『なんで』入ってはいけないのですか?」

「それは、この部屋が中高生専用の部屋だからだよ」

「中高生専用の部屋だったら、なんで小学生は入っちゃいけないんですか?」

「小学生も入れたら、その部屋は『中高生専用』ではないでしょう」

「実際に、小学生が入ることで何かデメリットはあるんですか?なんのためにそんなルールがあるんですか?」

「この児童館は小学生だけじゃなくて、0歳児の乳児さんから18歳の高校生まで幅広く利用できる児童館なんだ。そして人間は体や心の成長具合によって、必要となるあそびのコンテンツが変わってくる。それは各年齢における発達段階とか、筋力量などを根拠にして分けられている。各年齢に応じたあそびを最大限楽しめる環境を整えるために、この児童館ではそのような決まりにしているんだ」

「それって、職員が勝手に分けてるだけじゃん」

「そうか。そうかもしれないね。だったら今度、子ども議会などにかけて、ルールを見直せないか打診してみたら?」

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現状の僕の知識では、こういう答えになるでしょうか。
最も、「子ども議会」なるものがそもそも存在しない場合だって大いにありますが。
そうなると彼らの「訴え」が現実に反映されることはあるのでしょうか。
「中高生専用の部屋にある楽器を触りたい」
彼らのその純粋な欲求を、我々が叶えてあげられる意思決定の場は設けられているのでしょうか。


大人であれば、「なぜなぜ攻撃」をする前に「察する」ことができます。
その「ルール」の背景にある「様々な事情」を「察して」、「わかりました」と了承することができます。

でも、よくよく考えたら、世の中には理不尽なことばかりです。

■「理不尽」がまかり通る社会

そもそもなんで、そのルールなのか?
そのルールの根拠に正当性があるのか?
誰も説明ができないルールって、必要なのか?
それを、しっかりと見直す機会を作っているのか?

子どもからしたら、「大人の事情」なんて知ったこっちゃありません。

「だって館長が決めたことだし......」

そんなことを子どもに言ったら、きっとこう返されるでしょう。

「いや、じゃあアナタはそれに異を唱えたのか?僕たち小学生は、『館長が決めた』という謎理論によって、全く合理性のない『ルール』を押し付けられている。その説明責任は、アナタにはないのか?僕たちの『健全育成』はそんな理由で妨げられているのか?そもそも僕たちの意見に対して議論できる場所は用意されているのか?」

大人だったら、会社内の力関係を「察して」くれるでしょう。
じゃあそもそも、「力関係」ってなんでしょう?
10人中10人が正しいと思っていることでも、「力関係」という理由によってそれが捻じ曲がってしまう、そんな「社会」ってなんなのでしょう?

アメリカの古いテレビドラマで『十二人の怒れる男』という作品があります。
裁判員制度で選ばれた陪審員12人の話で、父親殺しの罪に問われた少年の判決を話し合う12人の男たちの議論の様子が描かれた作品です。
12人中11人は有罪を主張しましたが、ただ1人が無罪を主張し、「議論の後の各人の予定」のために「議論を早く切り上げること」ばかり考えていないで、再度しっかり検証しようという彼の言葉から、次第に議論が深まっていくという内容です。

この作品で描かれているように、どうやら現実世界は、「正しさ」だけが純粋に追求される社会ではないようです。

その社会を、子どもにも押し付ける。
「そういう決まりだから」を何度も刷り込み、「なぜ」の根本を深めていく「哲学的な姿勢」を子どもから奪っていく。
そうして彼らが大人になれば、「察する」ことが出来る立派な人間が完成するというわけである。

そんな社会で、「投票率」が低いのは必然な気がするのは僕だけでしょうか。
文科省の掲げる「生きる力」をつける教育、「自殺率」を減らす、自分らしく生きられる多様性のある社会。

これらの目標は、日本の抱える根本的な「病理」をどうにかしないと、実際には難しいでしょう。
「一人一人が当事者になろうとする努力」を奪う、そのような仕組みをどうにかしなければならない。

もちろん、今までの内容は子どもだけに限った話でないことは言うまでもありません。
この病理を治すには、一人一人の意識から改革していくしかなさそうです。

■一人一人が哲学的態度をもつ

我々教育に携わる人間は問われています。
子どもに質問された時、その質問と、その子どもとどう向き合うか。
このテーマは、個人的にすごく掘り下げたいテーマでもあります。
これからも、「note」を通じてみなさんと考えていきたいと思います。

「なんで公共の場で下ネタを叫んではいけないの?」

子どもからのその質問に、アナタならなんて答えますか?

本日も読んで頂きありがとうございました!

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