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SF小説飛浩隆『ラギッド・ガール 廃園の天使Ⅱ』とVR体験を読んで内と外の境界って何だろう?と思う

アバターを変えることはVRで現実に可能になっています。もし、内面も同じように変える事ができたらどうでしょうか?表題の小説を読みながら考えてしまいます。同じものを見てAと感じる自分と、Bと感じる自分を切り替える。でもそれは空想の話ばかりでなくVR体験でアバターによる感受性の変化に触れられています。すると境界ってなんなんでしょう?なんだか曖昧なものに思えてきました。


・VR睡眠
・VR感覚(ファントムセンス)
・アバターと肉体の乖離現象
・アバターによって身長や外見が変わると心境や考え方等内面にまで変化を及ぼす

 すごいレポを読んでしまいました。なかなか刺激的な概念がたくさんあって、資料としても興味深いです。ここから気づいたことは仮想的な境界であるアバターは変えることができるという事です。物質でしかない私の身体は細胞が少しずつ入れ替わるちょっとした変化の連続、その中のある時点の状態でしかありません。アバターはその変化の流れから外れた状態です。境界を自由に変えられる事が子供の頃から当たり前な時代はどうなるのかワクワクしてしまいます。受ける刺激は全く別物になり、きっと今の価値観とはだいぶ変わってくるのでしょう。

一方、飛浩隆『ラギッド・ガール 廃園の天使Ⅱ』では情報的似姿というものが出ます。これは内的な体験のカートリッジです。自分の“個性“を写したAIに仮想空間で様々な体験をさせ生活してもらいます。現実世界の自分はAIが感じた事をビデオを再生する様に追体験するサービスを受ける事ができます。こちらは境界そのものに大きな意味がある訳でなく、個性を写したAIが何を感じ、それに対してどう反応し、どう行動していくのか、現実ではありえない刺激で内面の変化をシミュレートできるという設定です。刺激に対する内的な反応そのものを追体験できるのでアバターは現実の肉体とかけ離れていなければいいというレベルです。

 見たり感じたりするためには内と外の境界が必要です。外のいろいろな刺激を表面で受け、その刺激に感受性をもつ内の世界があります。でもその表面ってなんなんでしょう?人だったら皮膚や身体の器官が表面となり意識とか言われるものが内となるでしょう。ですが違う境界を通して同じ事象を感じたとき、内面へ伝わる刺激は別のものになるでしょう。肉体の連続性という前提を崩すと境界とは何かと急に曖昧になってしまいました。

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