チェンジ
三月も後半ということで、「卒業」をテーマにした短編です。
新たな環境に身を投じることはとても勇気がいりますが、
だからこそ尊く映るのだとも思います。
私は今日、「私」をやめる。
マイクを握る最後の日に、私は柄にもなく今までのことを振り返っていた。小さな体育館のステージから始まった私の夢。テレビで見たあの華やかな姿に憧れて、幼いながらにみんなの前で踊った。どんどん舞台は大きくなって、今や世界有数のライブ会場の真ん中に立っている。クラスメイトに笑われて泣いてたあの頃が、オーディションに合格して母と抱き合ったあの頃が、同期の子たちと切磋琢磨していたあの頃が、とてもとても遠い。
激しい競争を生き残り、信頼と実績を積み重ね、私を見てくれる人も世界中にいる。これ以上の幸せなんてどこにもない。そう思えるくらいに満たされていた。だからこそ、この物語に幕を引く。みんなの記憶に残る最後の「私」は、一番華やかな「私」にしたいから。
最後の一曲を歌い上げて、客席をぐるりと見渡す。声が出るほど泣いている人。寂しそうな笑顔を浮かべている人。優しく見守ってくれている人。一人一人の顔をしっかりと焼き付けて、短く息を吸う。みんなに、「私」に、別れを告げるために。
わたしは今日、「わたし」ではなくなる。
希望が消え去るその日に、わたしはただ茫然としていた。物心ついた時から、ずっと心の支えにしてきた。だからこそ湧いてくる喪失感。わたしはどうすればいいの。「わたし」は何者になればいいの。あなたが光を見せてくれたから、わたしはここに立っているのに。
ラストライブが終わってからも、「わたし」は彼女に連れて行かれたままだった。抜け殻のようになったわたしを心配してくれる人もいた。馬鹿にしてくる人もいた。だけど、心が潤うことも乾くこともない。何もかもどうでもよくなっていた。
出演していた番組の録画を焼き切れるほどに見返す。どの瞬間も可愛くて、他の人にはないオーラがある。こんな人はもう二度と出てこない。そう思いながら画面の中の女神を見ていると、彼女への密着取材が始まった。その内容に、わたしは久しぶりに心が動いた。なぜこの世界の頂点を目指そうと思ったのか。その動機を、彼女は静かに語っていた――。
表舞台から姿を消してから、もうそれなりの時間が経った。
それなりに蓄えをしていたおかげで、悠々自適な生活を送れている。「その後」を見せないことは、「私」を汚さない何よりの在り方。そう考えて、私は海を渡った。
ここにはビル街も不夜城もないけど、代わりにのどかな緑が広がっている。少し足を運べば町もあるので買い物にも事欠かない。あの頃私を包んでいた歓声は、鳥の歌声とそよ風になって静けさを演出している。
鮮やかな青空を窓から眺めながら、机の上のPCを開く。連絡にしか使っていないため、一日に一度通知の有無を確認するだけだ。未読の報せがないことを確認し、電源を落とそうとしたその時のこと。画面端のニュースフィードに、とある文字列を見つけた。
『――がワールドツアー開催。予定地の中には世界最大規模のライブ会場である……』
「私」の最盛期にして、終着点。その舞台となった場所の名前があった。日本人によるワールドツアーとのことだったが、一体何者なのだろうか。芸能界からは長らく距離を置いていたが……もう少しだけ詳しく調べてみよう。
あれから、あっという間に時は過ぎた。部屋の隅でうずくまっていたわたしは、世界最高峰のステージに立って歌い踊っている。わたしが追いかけていた彼女は、テレビの中の偶像に憧れてその道を志したと語っていた。自分もああなりたいと思う感情は、誰であっても持ちうるものなのかもしれない。
わたしはようやく本心に気づけた。あんな風に誰かを照らせる存在になりたいと。誰よりも輝く存在になりたいと。その想いを形にするのはとても難しかったけれど、それでも叶えたい夢ができたからここまで来られた。
これが、あなたの見ていた景色。壮大で華やかな独壇場。「わたし」が生まれ、「わたし」が終わり、また新たな「わたし」が生まれた。あなたも、そうだったのかな。人知れず心が折れて、また立ち上がって。ひたすらそれを繰り返してここまで来られた。
なれたよ、わたし。誰より輝くアイドルに。
ネット上の記事を読み終えたとき、私は思わず天を仰いだ。そうか。自分がかつてそうであったように、夢や憧れは受け継がれていくものなんだ。それならば、今その舞台に立とうとしている彼女を、私は全力で応援したい。見届けていきたい。
テレビの前から私たちを眺めるみんなも、同じような感想を抱いていたんだろうか。自分を重ね、理想を見出し、ああなりたいと夢想する。そこには様々な感情が含まれていて、時に彼ら自身の価値観をも映し出す。
あなたは、「私」の続きを見せてくれるのかな。それとも、もっと遠い未来まで照らしてみせるのかな。あなたが幕を引くその日まで、私はきっと目が離せない。まさか引退してから、ここまでアイドルにかじりつく日が来るなんてね。
私は、誰よりも熱烈なあなたのファンになる。
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