見出し画像

信州上田にある大日孁神社の御祭神は饒速日命

始めに


信州上田市芳田字大日木690 にある大変珍しい名前の神社の御祭神がよくわからず、非常に長い間考えてきました。それは大日孁(オヒルメ)神社です。私は上田市内の神社仏閣約200を全て訪ねて回りましたが、ここには10年以上も前に訪ねて行きました。大変珍しい名前の神社で、最初は、孁という漢字が特殊すぎて読めず、その時は、ご祭神がなんだかよくわかりませんでした。しかしながら、この神社は、上田地域、ひいては日本の古代史の真実を考えるうえで大きなヒントになることが最近、わかりました。長い考察の上得た結論は、ここに限らず日本全国にある大日孁(オオヒルメ)神社の御祭神は、天照大神でも卑弥呼でもなく、饒速日命(ニギハヤヒニミコト)であるという、今までにないものです。多くの皆さんに日本の隠れた歴史を考えるきっかけになると思います。ぜひご一読頂ければ幸いです。

[I] 大日孁=天照大神=卑弥呼なのか

数年前に、友人から勧められて貸してもらった原田常冶著「記紀以前の資料による 古代日本正史」という本[1]は、いろいろ批判はありますが、とにかく、非常に、面白く、大変刺激になりました。私も、手元に置いておきたいと思って、アマゾンで検索すると、もう絶版で、中古品がものすごく高価な値段で出ていました。誰もが、価値のある本だと評価している証拠だと思いました。この本によると、天照大神は、ヒミコ(卑弥呼)だとしています。さらに、この本では、卑弥呼は九州宮崎県の西都原(さいとばる)の古墳に眠っており、この卑弥呼こそが天照大神だといっています。1) つまり、この本によると、天照大神=卑弥呼となります。
また別の本も読んだのですが、上田正昭著「日本神話」という本です。2) この本でも、天照大神について、よく似たことが書かれています。天照大神の名称は、もともと、オオヒルメムチノミコト(大日孁貴命)と言われ、皇祖神(天皇家の祖先神)ではなく、地方の祖先神だった。その時の名前が、オオヒルメムチノミコトと言った。ヒルメ(孁)は、ヒミコ(卑弥呼)あり、日に仕える巫女のことである。つまり、この本によると、天照大神=大日孁貴命=卑弥呼となります。
この2つの本から考えると、信州上田市芳田の大日孁(オヒルメ)神社は、卑弥呼=天照大神を祭っているということになります。しかしながら、こうなると信州の古代史から大問題が起こります。
上田地区の約200の神社仏閣をすべて回っていて気づくことは、古代において信州全域とりわけ上田地域には、ほとんど天照系の神社はなく、出雲系と諏訪系の神社が大半だということです。天照系は、現在国道18号線沿いにある上田大宮さんで、これは、明治に王政復古してから、時勢に沿うように建てられたもので、極めて新しいものです。古代にはこの地域には、天照系はないのです。
したがって、私は、古代の信州上田は、出雲と諏訪系の支配地だったことを実感しました。出雲の国は天照系に滅ぼされ、タケミナカタが出雲から科野(=信濃)に逃げてきて、亡命政権として信濃の国を建国しました。つまり、タケミナカタが信濃の国を開闢した時、天皇家の大和朝廷から見れば全く別の独立国だったのです。したがって上田市常田2-22に太古の昔からある科野國鎮護総社「科野大宮」には、祖国の出雲系の神様、大国主命(父)と事代主(息子)が祭られているのです。もし上田市にある大日孁(オヒルメ)神社が、天照大神を祭る神社なら、古代出雲系の支配地にこの神社が建つはずがないからです。つまり出雲の勢力が、祖国を滅ぼした敵の天照系の神社をこの地に建てて祭るわけがないのです。したがって、この大日孁(オヒルメ)神社は、天皇家の祖先の天照大神ではないご祭神を祭っていると考えられます。
つまり、大日孁貴命≠天照大神とならないとおかしいです。

1) 原田常冶、「記紀以前の資料による 古代日本正史」、同志社(東京)、昭和51年(1976年): ISBN4-574-70016-5 C0021.
2) 上田正昭著、「日本神話」、岩波新書D88
令和元年(2019年)7月26日随筆
令和3年(2021年)2月20日加筆

[II] 天照大神=卑弥呼は正しいのか
卑弥呼は普通名詞

第I項で引用した原田氏、上田氏の本からは、天照大神=卑弥呼となってしまいますが、これは正しいのでしょうか。8世紀の後半に、「古事記」と「日本書紀」が編纂されますが、これら記紀の中には卑弥呼は出てきません。それで、卑弥呼について考えてみます。

私は、最近、日本人のほとんど全員が知っている「卑弥呼(ひみこ)」は、固有名詞ではなく単なる普通名詞である、と考えるようになりました。
 先日、日本書紀を市立図書館で借りて読み通しました。大変面白い内容で、なぜこれが現在、日本の歴史教科書の中で殆ど取り上げられていないのか不思議でした。日本書紀は全部うその書物だと戦前言った津田宇佐吉という歴史学者がいたとの事で、それが今も災いしているのだそうです。確かに、継体天皇以前の天皇は年齢が130歳で亡くなったとか常識で考えられないほどの長生きな人がいたりするので、疑わしいと思われるのでしょう。しかし、神代の時代というか、暦も中国から入っていない時期の語り部の話を、古代王朝の書記を務めた漢文が書ける和人や渡来人の漢人が、苦労して年代を後から付けたので矛盾があるのでしょう。従って、年代は余り信用できないが、語り部が語った何代も何代も前の「おおきみ(天皇)」にまつわるエピソードは、人々の記憶に残っていた真実が含まれていたと見るべきでしょう。
 さて、日本書紀を読んでいると、「おおきみ(天皇)」に王子や王女が何人あったとかいう記事が何度も出てきます。「おおきみ」の子は男であれば、西洋流だと王子(prince)ですが、日本書紀には「みこ(御子・皇子)」と書かれています。では、王女(princess)であれば何と書かれているでしょうか。それは「ひめみこ(皇女)」と書かれています。つまり、「おおきみ」の子は女であれば、女の御子という意味で「ひめみこ」と言うのです。現在使われていなくても、現代人にも直ぐ納得がいく言葉です。日本書紀には一貫して何代にもわたり、どの「おおきみ」には何人の「みこ」と何人の「ひめみこ」が生れ、その方の名を何それというと書かれ、成長して誰と結婚して次の「おおきみ」のだれだれをもうけたと続きます。日本書紀は天皇家の系図としての意味もあるから、当然でしょう。
 ここで、私は「ひめみこ」という言葉が、「卑弥呼(ひみこ)」とそっくりなことに気がつきました。卑弥呼は日本人ならだれ一人知らぬものはいない、歴史上に出て来る有名な邪馬台国の女王です。私達は、卑弥呼を、西暦239年に魏に使いを送り親魏倭王に封じられ金印紫綬を受けた、古代の女王と習っています。つまり卑弥呼はある特定の人を指す固有名詞という認識です。しかし、「ひみこ」は「ひめみこ」ではないか。つまり、「卑弥呼」と当時の中国語で音韻を写した名前は、単に「おおきみ」の娘の「ひめみこ」のことではないかと気が付いたのです。よく御存知のように、中国の歴史書「三国志」(「東夷伝」の章の「魏志倭人伝」の項)に、紀元後二世紀当時の倭国は乱れて収まらず、三世紀頃邪馬台国の男の国王の後を継いだその娘の王女は、神に仕えまじないによって政治を行ったところ収まった。その王女の名は卑弥呼というと書かれています。この国王の娘であるという記述は、「おおきみ」の娘のことを「ひめみこ」という古代の風習が読み取れる日本書紀の記述と合います。従って、中国側の書記が普通名詞の「ひめみこ」を、固有名詞の「卑弥呼」と誤解したのであろうと推測されます。日本側の使節団は、女王の名を直接呼ぶことは憚れたので、単にあの「ひめみこ」という意味で使っていたのではないでしょうか。今だって、天皇の名前を人前で「ひろひと」とか「あきひと」とか呼ばないのと同じだと思います。
 以上の考察から、「卑弥呼」は固有名詞ではなく、王女(princess)という意味の「ひめみこ」という単なる普通名詞だったと考えられます。
したがって、卑弥呼≠天照大神となります。
2003年9月7日  
2003年9月22日加筆
2004年5月25日加筆
2021年2月20日加筆


画像1

[III] 大日孁貴命=饒速日命

上のように、大日孁貴命≠ 天照大神 ≠ 卑弥呼となることがわかります。
そうなると、上田市にあるおひるめ神社の御祭神は、どなたでしょうということになります。

そこで、日本全国にある主なオオヒルメ神社に当ってみます。

徳島県三好市山城町光兼字光兼558 大日孁(おおひるめ)神社
兵庫県神戸市東灘区西岡本4-8-6大日女(おおひめ)神社
兵庫県篠山市寺内  大賣(おおひるめ)神社
長野県上田市芳田字大日木690 大日孁(おひるめ)神社
秋田県鹿角市八幡平堂の上16 大日霊貴神社(おおひるめむちじんじゃ)
岩手県一関市萩荘字箱清水133番地 神社名は駒形根神社だが、ご祭神は大日靈貴命(おおひるめむち)

このリストを見てわかることは、四国から東北に至るまで日本全国に、オオヒルメ神社は広くあることがわかります。
そして、これら全国のオオヒルメ神社の由緒から見ると、現在、そのご祭神はおおむね「天照大神」となっているようです。したがって、現在では、大日孁(おおひるめ)神は天照(あまてらす)大神と同一、つまり、現在は、大日孁神=天照大神、ということになっているようです。しかし、第I項と第II項の考察から、これは、大変疑わしいです。
どうも、オオヒルメ神社の御祭神が、いつからか天照大神に入れ替えらえたと考えられます。このようなことは、特に古い神社では、よくあることです。ご祭神が、時の政治勢力の信仰する神様に置き換えられるのです。そして、長い間月日が経つと、置き換えらえたことさえ人々は忘れてしまいます。

オオヒルメ神社のもともとの御祭神は、天照大神とよく似た名前の
天照国照彦天火明尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりのみこと)、
別名の
天照御魂神(あまてるみたまのかみ)、
天照皇御魂大神(あまてらすすめみたまのおおかみ)
そのまた別名を
饒速日尊(にぎはやにのみこと)
であると考えられます。

ここでは、混乱を避けるために以後統一的に「饒速日命(にぎはやひのみこと)」とします。
ここでの私の結論は、「全国のオオヒルメ神社の御祭神の饒速日尊が、いつからか天照大神に、意図的か勘違いにより、入れ替えらえた」です。
2020年12月26日

[IV] 饒速日命について、建国記念日から考える

今日(2021.02.11)は建国記念日で、和暦(皇紀)で今年は紀元2681年になりました。

私の長兄は昭和15年年生まれで、丁度紀元2600年生まれでした。それで、紀元何年かというのを、私は、長兄の年+2600年で計算しています。

紀元2600年にゼロ戦ができました。今は知らない人が増えましたが、戦闘機の年式は紀元の年数の最後の数字を取って、99式とか、0式とか言っていました。それで、ゼロ戦は紀元2600年製という意味だっだのです。

昭和15年生まれの方にゼロ戦ですね!と言ったら、知らない人もいてぽかんとされて、こちらがびっくりしたこともあります。

今信州の歴史がどのように始まったか調べていますが、いまだ縄文時代にあった信州で、稲作や製鉄、養蚕の技術が出雲から伝わり弥生時代が始まりました。信州では、丁度2000年前くらいのようです。

しかし近畿地方では、神武東征よりもさらに前に、饒速日命(にぎはやひのみこと)が天孫降臨して、稲作や製鉄、養蚕を伝えて弥生時代が始まったといわれています。これがどうも今から2700年くらい前のようです。だから、私は、和暦の紀元は、日本で弥生時代が始まってから何年だというのを表していると、考えています。
大阪には、饒速日命をちゃんとご祭神として祭っている石切神社というのがあります。
https://ja.wikipedia.org/.../%E3%83%8B%E3%82%AE%E3%83%8F...
このURLには饒速日命の事跡がちゃんと、石切神社の由緒として載っています。大変興味深いです。この石切神社の由緒や、全国にある饒速日をご祭神と明示して祭った神社を無視しない限り、天孫降臨は、日本では実は2回あったことになります。

若干、私の意見を以下に述べたいと思います。

戦前戦後の、皇紀に対する考えについての考え方の変遷については、私もよく存じております。日本書紀に事績が書かれていない天皇は欠史8代と言われ、欠史8代は戦前から嘘ではないかと言われていたこともあり、また戦後の歴史学会に左翼系の歴史観が蔓延していることもあり、現在80歳以降の日本人に、自国の歴史に不信感と自信のなさが広まっています。これが自虐史観といわれるゆえんです。

皇紀に対する私の意見を以下に述べます。皇紀は日本が縄文時代から弥生時代に移行した年をおおむね表していると考えられます。とすれば、皇紀2681年は大体あっています。嘘ではありませんし、1年を2年と数えていたとして130歳ではなく本当は65歳だったとかいう春秋2年説をとらなくてもよくなります。理由は以下の通りです。

(IV-1) 信州にいつから神社や鳥居ができたのかというのを調べていますが、縄文時代には鳥居も神社もありません。弥生時代が始まるとともに神社や鳥居が作られています。信州では出雲から、稲作、製鉄、養蚕のハイテク技術がもたらされて、縄文時代から弥生時代に移行しました。これがちょうど2000年くらい前のようです。最近、饒速日のことを調べていて、大阪にある饒速日を祭っている「石切神社」の由緒に出会いました。その由緒に目を見張りました。この由緒には、饒速日がこの地に天孫降臨して、稲作、製鉄、養蚕のハイテク技術を、縄文の生活をしていたナガスネヒコが率いる鳥見族に教えたので、近畿地方が縄文時代から弥生時代に移行したと明確に書かれていました。信州と全く同じです、時期は600年ほど違いますが。近畿地方が、縄文時代から弥生時代に移行したのは、稲作、製鉄、養蚕のハイテク技術がもたらされたこの時で約2600年前のようです。
最近、弥生時代が始まったのは、2500年前から3000年前だということが、科学的な年代測定からわかるようになってきました。私たちが、子供のころに習った弥生時代の始まりが500年から1000年もさかのぼるのです。この近畿地方では、弥生時代に入ったのが2600年ほど前だったということが、嘘ではないことが、石切神社の由緒と科学的年代測定がほぼ一致していることからわかります。私は、この石切神社の由緒は、近畿地方で本当にあった縄文と弥生の文化の出会いを示しているのだと思います。
(IV-2) 中国の歴史は、易姓革命の思想から、前の王朝を完全否定して、自らの王朝の正当性を嘘の歴史で固めているため、中国、韓国の歴史は、嘘を前提に書かれているとして、何が正しいか自分でよく吟味しないといけないと石平さんが言っておられます。したがって、日本が、古事記や日本書紀を書いた8世紀後半には、既にこの中国の易姓革命の思想に毒されていると考えた方がいいです。
(IV-3) 私は、天孫降臨が2回あったのではなく、実は、饒速日の王朝がすでに、日本を近畿から東北までの広大な範囲にあって、この王朝を倒して今の天皇家の先祖が次の王朝をたてたのではないかと、考えています。それでは、自分の王朝の正当性が実は、なくなってしまうので、中国と同じように、前の王朝の天命が尽きたので、我が王朝ができたといわなければなりません。しかし、日本では、国民に易姓革命を信じているものがいないので、前の王朝(饒速日大王の国)が、次の王朝(神武朝)に禅譲したとしなければ、国民が納得しなかったものと思います。だから、天孫降臨は実は饒速日のときの1回しかなかったのだと思います。古事記も、日本書紀も読んでいると、地方の異民族の言い伝えをすべて、取り込んで、一つの王朝に結び付けているため、なんだか矛盾がいっぱいあります。たとえば、山幸、海幸の話や、わにが海辺の小屋で子を産んだというのは、南方の異民族の話です。これを、天皇家の祖先と関係があるように書いてあります。このように、すべての種族や民族の歴史を簒奪し、天皇家の宗族になるように取り込んで歴史書を作とうとしたのでしょう。そのなかで、最も困ったのが饒速日の天孫降臨の歴史です。
(IV-4) ここでは、饒速日の天孫降臨の言い伝えを、神武朝は自分の歴史に取り入れて、正当性を権威づけているのではないでしょうか。なので、近畿地方に最初に来た饒速日と後から来た神武の間の600年間を埋めるために、取り繕ったために、歴史に矛盾があるのだというのが、私の今考えていることです。中国から易姓革命の思想が8世紀には日本にすでに入ってきていて、古事記や日本書紀を書いたので、おそらく天皇家のいわゆる欠史8代は、饒速日の王朝の歴史の600年間をそのまま取り込んだか何か創作があったと考えれば、納得がいくのではないでしょうか。
以上の考え方は、右翼の皇国史観や左翼の自虐史観の学校教育の両方から、解き離れない限り、見えてこないように思います。戦前の皇国史観の中で、今の天皇家の先祖が前の王朝の歴史を簒奪したなどと言えるわけがありません。また、戦後の、ソ連や中国から赤化思想が入ってきた歴史観では、天皇制そのものを否定しているので、このような話もまともに取り合われなかったのだと思います。
(IV-5) 言葉も言い伝えや神話も違う異民族や部族が盤踞していた縄文時代を、弥生時代にして国家を最初に統一したのは饒速日大王ですが、それから600年後の神武天皇のときに、王朝交代があった。しかしながら、饒速日の祖先も、神武天皇の祖先も、元をたどれば北九州か任那日本府のあたりから、稲作、製鉄、養蚕のハイテク技術を持ってきたことは、間違いなさそうですので、日本の建国は弥生時代が始まった2600-2700年前というのは正しいと私は信じています。
よって皇紀2681年は、日本が縄文時代から弥生時代になってから2681年ということを表しているというのが私の結論です。

[V] 結論


以上第I項から第IV項までの考察から、「日本全国にある大日孁(オオヒルメ)神社の御祭神は、天照大神でも卑弥呼でもなく、饒速日命である」となります。

2021年2月16-20日
信州上田之住人和親

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?