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この空気の中で

私は、あの人と湖のほとりにいる。
ここ、何度来ただろう。もう思い出すことができない。
じっとしているだけで汗ばむ陽気、湖を見ながら私たちは話をしている。

私たちはよく、手をつないでこの湖を歩いた。目的もなくただ歩いていた。あの人と歩く時、私はこっそり湖を見ていた。湖の水面はいつでもゆらゆらと揺れていた。それを見ていると、その瞬間が現実である事を忘れてしまいそうだった。

私たちはよく、森の喫茶店に行った。その店はいつ行っても静かだった。やたらと大きいフルーツタルトを、一つずつ頼んだ。あの人は、毎回一つを食べきることが出来ず、私が残りを食べた。その味も、今となっては曖昧である。ただ、とても甘かったことは覚えている。

森の中にハンモックを見つけた事があった。
慣れない運転で疲れていた私が休むことを提案し、ハンモックで横になって揺られることにした。ハンモックの揺れは不思議なもので、初めはとても不安定な揺れ方をする。しかし、自分の身を任せると、揺れが安定する。自分がハンモックの事を信じないと、ハンモックも安心してリズムを刻んではくれない。
安定したリズムに身を任せていると、私はいつの間にか眠っていた。
目が覚めると、あの人の姿がなかった。ひどく不安な気持ちになったが、少し離れた所で煙草を吸っていたようだ。
その日以来、私は眠りから覚める時、あの人が消えてしまわないか、怖がるようになった。

私たちは、そんな話を何回もしている。これは何度目だろう。同じ話ばかりしている。

私は夕暮れになったら、あの人にある事を言おうと思っている。今日言わなくてはいけないことがある。どんな風に切り出せば良いのか、どこで切り出せば良いのか、そんなことを考えながら揺れる水面を見ている。
ただ、この季節はとても不思議だ。太陽の光は私たちを強く長く照らすのに、夕暮れがやって来ない。あるのは昼と夜だけだ。夕暮れが来ないから、私はあの人に大切な事を言うことができない。

夜になり、私たちは宿にいる。
昼間とは違い、街灯の明かりによって湖はキラキラと光り、白と黒の差分が美しい。その奥には、大きな山がぼおっと見える。あの山は、日本で一番大きいらしい。
風景画のような景色を私たちは見ている。どちらかが会話を切り出すことはない。ただビールを飲み、それが温くなるのを待っている。
こんなに閉塞的な、暗い夜の想いも、朝になって太陽の光を見れば忘れてしまうのだろうか。

「こっちに来ちゃ、だめだよ。」

あの人が口を開く。
あの人は、いつも余計なことを言わない。
余計なことを言わないから、その言葉が全て真実として降ってくる。
(「こっちに来ちゃ、だめだよ」か)
いかにもあの人が言いそうなことだ。私は、少しあきれた気持ちになる。

あの人は、「さよなら」が口癖だった。
一緒に過ごしてお別れをする時も、夜に眠る時も、いつも「さよなら」という挨拶をしていた。そんな悲しい言い方をしなくても良いのに。
「さよなら」と言っても、また会う事もできたし、朝起きると隣にいてくれた。たまに煙草を吸いに外にいる時はあったが。
何を考えて、「さよなら」と言うんだろう。いつか来るその時のことを、あの人は考えていたのかもしれない。

新しいビールを取り出し、私はそれに口をつける。

「こっちに来ちゃ、だめだよ」
まるで部屋の中でリピートの記号でも見つけたかのように、あの人はさっきと同じことを言う。
私は、それを受け止めなくてはいけないことを知っている。
次の朝が来れば、受け止められるかもしれない。
私は、美しく光る湖の揺れを見て、ただ考えている。これは現実なのか、違うのか。


太陽の光は今日も逞しく、私を現実に引き戻そうとしていた。
かなり温くなり、気も抜けてしまったビールを一口含む。湖の揺れは、心なしか穏やかである。
着替えをすまし、髪形を整え、昨日の事を思い出す。
(「こっちに来ちゃ、だめだよ」か)


「君が、自分からそっちに行ったんじゃないか。」


私は鏡に向かってつぶやく。あの人にずっと言わなくてはいけなかった言葉だ。あの人は、自らそっちを選んだ。

「僕は、こっちの世界を選ぶよ」
がらんとした部屋に一言残し、私は部屋を出る。
一人分の宿泊代を払って、私は現実の世界に戻ることにする。

湖のほとりで、この空気を吸い込む。ここには、もう来ることはないだろう。

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Fishmansの『ゆらめき IN THE AIR』から着想を得て、短編にしてみました。
最近ヘビーローテーションしております。
名曲を駄文にしてしまい、スミマセン!