今日の哲学

狂気について

人間の内部には狂気があるという前提で大江健三郎は芸術論を論じていたわけだが、村上龍氏の論説はもっと凄い。母体から離れ幼少期からの神経的苛立ちこれが体積して狂気が生まれ、極端にいうと大の大人になってから抑うつの反動で犯罪者になる人がいる。だから早い時期から神経にメンテナンスを入れ場合によっては暴れる必要があると唱えた。抑圧とかいじめとか不条理とかあるからね。子供には希望が絶対的に必要なのになぜか将来のために生きないと悪い。だから子供に限ってとんでもない悪事を平気でやったりするわけだ。んで少し成長して社会の矛盾に気づいた青年がギターかき鳴らしたりするのは平和に暴力を行使しているのだ。だからその中に特に意味はない。ホントは音楽にオリジナリティなんてないと中上健次氏は指摘している。まあある程度の年齢になると気づくのは当たり前だけどね…

だからバイオレンス願望とかエログロ衝動とか遅咲きの青年にはあるわけどこれは救いようがない願望でもある。確実にその先に救いはない。快感はあるが欲望を満たすこと事態が病と呼ばれるものをごまかしているに過ぎないからだ。まあそれでも人は生きていけるのが、はっきり言って生きづらいってかどっかで破滅するんじゃないかと思っている。

人間には神経構図があるから、病を根本的に分析すると、自我意識の問題になる。そこを発見したのは、いつも書いている限界状況を発見した、ドイツの精神科医ヤスパースだ。

いくら薬やアートや性などで神経系意図的に操作したところで自我意識の問題は解決しないということである。

神経系の意図的操作なんか現代なら誰でもやれる。だから風俗業者とかもヤクザ系なのに摘発されない限りなくならない。

しかし自我意識の問題になると俺がいつも言っている哲学のテリトリーになってしまうわけだ。

自我意識正常までいくと、生活しやすい上に、心身が乖離したりしなくなる。妄想もなくなるけど、空想とかはできるからつまらなくはならない。空想はあっても問題ないそうだ。

若い頃小説なんか書こうとすると自己内部妄想みたいな感じで自閉症児文学になる。村上春樹レベルまで洗練させるのはあの人ぐらいしかできないからとても人に見せられるものではない。しかし傷ややるせない寂しさを処理したりするのに自己満で小説を書くということはありという説も出ている。
何が言いたいかと言うと単純に希望がなくなれば人間はどんなことでもやりえると俺は思っているし、希望の根本は明日が今日よりよくなるという感覚、他者への働きかけとその反応であるであるという説は当たっていると思う。。

だから希望さえあればわざわざ苦しい思いしてまでスターや偉人になったりする必要はないわけだ。そもそも大金を稼ぐってことは命を削るってことだから多大なリスクを背負うし、結果がでなければ何の意味もないという世界である。

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