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無限の可能性を信じることーモンテッソーリ教育の現場で27歳の社会人が3歳の子から学んだことー

横浜市青葉区に、とある教育機関がある。

マリア・モンテッソーリ・エレメンタリースクール。「一人でできるように手伝ってください」「一人で考えられるように手伝ってください」を標語とし、モンテッソーリ教育を実践する教育機関である。
マリア・モンテッソーリ教育研究所付属で1986年から開校していた「こどもの家」を前身とし、2000年4月に幼児期をこのモンテッソーリ教育で育った卒園生の多くの父兄から、この先の学童期をモンテッソーリ教育で育てたいという熱い思いを受けて開校。現在では小学生約70名がモンテッソーリ教育の方針のもと、学び、育っている。

私がこの教育機関を知ったきっかけは、今住んでいるSHIMOKITA COLLEGEで、「教育」という切り口でスレッドがたちあがったことだ。

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※SHIMOKITA COLLEGEでは、70人の居住者同士の交流、連絡にSlackが使われている。
900番台は「club」として居住者同士の関心、興味によって自由にチャネルができあがっている。教育学を専攻する人や、教育について思いを抱えている人たちが集まっているのがeducationチャネルである。
(カレッジの話はまたどこかで書きたいと思っています。)

educationチャネルの中で、各自の教育環境についてシェアされ、その中に「モンテッソーリ教育」を実際に受けた人がいることを知る。

甥っ子(※参考画像として当記事に掲載している天使)が生まれた際にも、兄夫婦に下記の本をプレゼントしたことを思い出した。

 話を戻す。そんな幼少期、小学校高学年とモンテッソーリ教育を受けた彼女は、その教育との因果関係を抜きにしてとてもすてきな人だ。人生は素晴らしいと感じ、学びの楽しさを知っていて、自身の興味、関心を大切にし、それらを体現している。そんな彼女のルーツをもっと知りたいと感じ、彼女に話を聞いてみた。

モンテッソーリ教育に触れる

 ありがたいことに、彼女の取り計らいと受け入れ側の好意により、実際に見学させていただくことが実現した。
 彼女が受けてきたモンテッソーリ教育がどういうものか。結論から述べるとやはり現場で感じるものは別物であった。
 ぜひ多くの人にあの素晴らしい場を知ってほしいと思い、私が肌で感じたことを少しでも伝えるべく、自分の振り返りも含めこのnoteを書いている。

 モンテッソーリ教育とはということについては、文献も溢れているため、ここでは概要だけ紹介したいと思う。

モンテッソーリ教育は、医師であり教育家であったマリア・モンテッソーリ博士が考案した教育法です。
「子どもには、自分を育てる力が備わっている」という「自己教育力」の存在がモンテッソーリ教育の前提となっています。歩くことを教えなくても、歩こうとしたり、積極的に環境に関わりながら様々な事柄を吸収していったりする姿は、子ども自身が自立に向かって、成長・発達していこうとする姿のあらわれといえます。この内在する力が存分に発揮できる環境と、自由が保障された中で、子どもは自発的に活動を繰り返しながら成長していきます。ー高根学園HPより
注:下記より見学レポートとなりますが、学園側の意向ではなく、私個人の見解や感想として記載しているため、実際の意図、学習カリキュラムとは異なる可能性も多々あることをご了承ください。

 午前9時。受付で案内を待っていると、ちらほらと子ども達が登校していく。総生徒数人数の規模もだが、公立の小学校とは違うそこはかとない自由さを感じる。

 案内され、校内を巡る。地下1階、地上3階建ての建物の中心にある講堂、ここでは各発表や身体活動を伴ったカリキュラムが行われるそうだ。
その正面に飾られる世界地図を模したきれいなステンドグラスが目に留まる。
 「モンテッソーリ教育では、宇宙教育が全ての根底にある。宇宙から始まり、その中の地球。その世界の日本の、その中のここ、そこにいる一人のあなた、ということを表しています」
なるほど、コスミック教育と呼ばれている部分を垣間見た。

「いまは新世紀の部分の年表をつくっています」

 この大→小を理解していく考え方は、とある教室でも見て取ることができた。小学校低学年のクラスに入ると、横10mはあろうかと思われる模造紙を床に敷き、何やら数名の子が年表をつくっている。 
新世紀の漢字に誤字がある一枚の紙を持って、2年生の彼女は見出しのセリフを言った。

 宇宙が誕生してから今までを1年にすると、地球ができたのは8月、人類が生まれたのは大晦日の21時半だという話はよく言う。
 137億年の歴史。ただその数値を理解することを、先生からの一方的な話ではなく、彼女らは長い長い年表を自分たちの手でつくりながら感じ取っていくのであろう。

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自分で学び、世界を知ることで、
いろんな視点を持ち、世界の見え方は変わっていくんだろうな

方言からはじまる発達の研究

別の教室での一コマ。
日本列島の白地図に、なにやら言葉を書き込んでいる小学校高学年の女の子。
何冊かの本を携え、熱心に各地方の方言を地図に書き込んでいた。彼女が興味をもった経緯については生憎聞くことが叶わなかったが、彼女はどこかで日本語なのに違う表現をする方言というものに興味を持った。その違いはどんなものか。どんな歴史があるのか。方言という切り口だけでも学べるものは多そうだ。

少し時間がたち、教室に戻ると彼女がパワーポイントを作っていたので見させてもらった。

赤ちゃんがいつ言葉を覚えるか、話すようになるかという内容だった。
ほかのページもちらっと見たが、立派な発達について・言語についての研究成果が準備されている。
だが、彼女は最初から発達について調べようなどとは思ってはおらず、スタートはきっと方言なのであろう。
そこから関心は拡がり、言葉というものに興味をもち、そこから言語を獲得することについて調べるというプロセスがここまでにあったのではないかと感じた。


 ある子は、新幹線が好きで、全国の路線図を日本地図に書いたのち、結局20弱の切り口から日本の地理を解析し尽くした。路線を記した白地図の横には、地形、気候、海域と、自分で調べ、記したたくさんの日本地図が並んでいた。
彼は今日、みんなに発表するそうだ。照れくさそうに指し棒を持ちながら、自分がつくり上げた学びを振り返る彼の顔は、とても楽しそうで、きらきらしていた。

またある子は、元素周期表を黙々と作っていた。興味に沿った実験もできるそうだ。ある子は自分で作ったDNA配列のキーホルダーを見せてくれた。
「一人で作ったのー??俺も一緒につくるって言ったじゃんかー!!!」
近くにいた同じクラスの子が、愉快げに残念がっていた。
小学校は1~3年生の低学年クラス、4~6年生の高学年クラスで縦割りでわけられており、共に学び合うのもこの場所の大きな特徴なのであろう。

DNAのキーホルダーはいくつかの色を混ぜて出来上がっていたので、理由を聞いた。
ゲノムがね、で始まった彼の解説は、私立文系のわたしが一度聞いただけでは理解できない専門的なものだった。
「教えてくれてありがとう。」という言葉に対して、歳でいうと3分の1くらいの彼がいった一言、「僕のほうこそありがとうございます。復習になった。」
この視点がない大人が、どれだけ世の中に溢れてしまっているのだろう。
好きなことに関する全ては学びであり、意味のないことなんてないんだよな、と改めて感じる。

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甥っ子は、今見えるせかいの全てに興味を持ち、学び、喜び、泣き、笑う。
その笑顔は、おとなになっても曇ってはいけないんだよね


教具だけじゃない、モンテッソーリの可能性

モンテッソーリを話すうえで外せないのが、教具である。
だけじゃない、と表現したが、教具については控えめに言ってハンパない。本当によく考えられて作られている
有名な玩具としてよく見るもの、模倣されて公教育でも見るものもあるが、レパートリーと確実に学びを体感的に行えるよう設計された教具の数々。

教具:子供の自然な発達段階に沿うよう研究された科学的な教材

半日の見学では、時間が足りなすぎるものであった。
以下は教室でも見かけた、代表的な教具である。

上に挙げたもののほか、各発達段階に合わせたたくさんの教具が、教室に溢れている。

 ただ、教具を置いて終わり、ということではもちろんない
 幼稚園のクラスでは、「おしごとを見つけておいで」という先生の優しい声掛けがときおり聞こえる。
教室では、自分の興味のもとにそれぞれの「おしごと」を、教具を使ったり図鑑から調べたり、PCを駆使したりしながら取り組んでいる。

横浜・モンテッソーリ幼稚園の子どもたちは、「きょうは、なんのおしごとをしようかな…」と毎日お部屋の中にあるモンテッソーリ教具や教材を選んで、満足いくまで楽しんで取り組んでいます。

なぜ『お仕事』と子どもたちが呼ぶのかというと、活動を通して子どもたちは自分で自分を創造するという大仕事をしているため、遊びとは呼ばず、『お仕事』と呼んでいます。ー横浜・モンテッソーリ幼稚園HPより


「提供」と呼ばれる、先生から子どもへの、教具を用いた直接のレクチャーも見られた。文科省の学習指導要領上必要なカリキュラムでの学習の時間もあるが、画一的な、答えや解き方を教える教育ではなく、興味を引き出すような教育がそこには感じ取られた。

「自分の興味があることなので、自然に集中力や探求心が芽生え、さらに自分で出来るという経験を積み重ねることで喜びに満ち、自信が出来、さらには人を思いやる心の豊かさが育まれます。(横浜・モンテッソーリ幼稚園HPより引用)」とあるように、自分の得意ができることで、自己効力感がまし、結果として他の教科、学びへの関心も増していく、という思想はしっかりと根付いており、子どもたちはそれを体現していた。


学ぶって、楽しいこと

半日見て、話しを聞き、見て感じたシンプルな感想を先に述べる。
「ここの子どもたちはみんな学ぶことが楽しくてしょうがない」
この一言に尽きる。

そして、
「どれだけの学びがこれまでにこの場で起きてきて、これからどれだけの可能性がこの場・この場の先に生まれるのだろう」という期待は、今この文章を書きながらも胸の中で踊り続けている。

子どもたちはそれぞれ「自分の好きなもの」「興味があるもの」にひたすらに打ち込んでいる。そこから、関連するもっと広い世界に興味は移り、拡がっていく。それは前述した大→小という、「世界は目の前のモノ、コトだけじゃないんだよ」という思想が根底にあるからであり、より広い世界に、彼らの学びは根を拡げていく。
こんなに楽しくて、わくわくすることはないのだと思う。

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ー「日常生活の練習」の場としても、洗濯や洗い物、料理など、本物の環境が整備されている。(使いやすいよう、サイズが調整され整備されている)
※画像はうちの庭と甥っ子。真似したい年頃だよね。

無限の可能性を信じること

多くの子達の学びを見ながら、自分の過去を振り返っていた。
 ・ラグビーをやらされ、辞め、また始めてかれこれ20年なこと
 ・勉強しろということを、今まで誰からも強制されなかったこと
 ・社会人になって、学ぶことの楽しさに気づいたこと
 ・そしていま、学びたいと思っているたくさんのこと
美化している部分もきっとあるが、今こんなに学ぶことが楽しく、学びたいことばかりであること、世界は可能性にあふれていると心から思えることは、自身が自分の興味と関心のもとに生きてこれたからなのではないかと思う。

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3歳直前の自分。人見知りだったけど、世界の興味は強かったそう。
(自分の過去についても別途どこかに書きたいと思う。)

今自分は、人と地域に関わっている(と言いたい)。
その中で感じることは、ヒト、まちがもつ可能性は無限であるということ。

会社には、たくさんの尊敬できる先輩、同期、後輩がいて、同様に身の回りの社会にも溢れている。
この人達が組み合わさったら、一体何が起こるんだろう
この人がこんな事ができるようになったら、きっと誰にもできないことが出来るかもしれない
そんなことを、日々感じている。
まちも同様である。
住んでいる下北沢には、びっくりするくらい大きなエネルギーが渦巻いている。関われば関わるほど、すてきな人たち、お店、風景が溢れている。

子どもたちの可能性は発達の観点から鑑みても、さらに無限だ。
その可能性を最大化させるモンテッソーリ教育というものに、その理念を信じ、こどもを信じ今日も学びの場を創り上げているあの場所、先生たちに、私は社会の可能性をみた。

またあの場所へ足を運びたいと思う。大きな感謝とともに。


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