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心の可視化

突然であるが、私は気持ちや感情を可視化=文字化しがちである。


昔からそうだったわけではないのだが、社会で働くようになってから、早8年、家族、友達、職場、趣味、自分を取り巻く様々な要素の中で生きていく中で、人間関係というものの重要さと恐ろしさを体感した。

そこで経験したこと、溢れる気持ちや感情をその場ですぐに向き合い、処理することができないのだ。

そらみんなそうやと言わればぐうの音も出ないのだが、向き合うことをしない代わりに自分の心と頭の中には漠然とした不安と靄が立ち込める。
その感覚に慣れてしまった節もある。

それを払拭したいがために、自分で自分の心を紙やスマホのメモ帳に書き出すことを実行した。

それにより、まあなんとも言えない、取り止めのない文章を書く才能だけがモリモリと育ってしまった。

シンプルに考えたいが故に、己の心から何かを見つけ出すためにそれを行ったわけだが、どうにもスッキリしない。

スッキリどころかむしろ前よりひどくなっている節すらある。

まあしかし、とりとめのない文ではあるが、それは自分から出てきた言葉であるわけだから、自分で読む分にはものすごく理解ができる。

理解ができるということは、自分の心を見つめる解像度が高くなっているということだ。

これにより、ガラケーの携帯カメラからiphone14のカメラくらいまでは自分の心を見つめる解像度が高くなった。

がしかし、それにより見えたものは、自分自身の醜く、悪い部分だけであった。しかも、ものすごい解像度で。

自分の肛門を8K大画面テレビの高画質で見ているような気分である。

心底落胆した。

そこからまた頑張ろう!自分は自分!などという感情は1ミリも湧いてこない。こなかった。だって肛門ですし。

結局のところ、自分で解析してもそれは自分のものさしであって、それがどれだけ解像度が高くても、自分よがりでしかないのである。

他者と言葉を交わす前に答えに行き着いてしまったら、そこに会話のキャッチボールは生まれない。

地球上に自分ひとりしかいないのなら、その先を見つける、というか見つけざる得ないと思うのだが、ここは日本、星の数ほどの人が生活を営む人の世である。

どうあがいても他者との関わりは生まれるのだ。

客観的に見えすぎて、主観がなくなってしまっては人間元も子もない。紙と画面の中だけで、心が生きるはずがないのだ。

・・・と言いつつもこういったうだうだした文章をたしなめている訳であるが、それは従来よりも少しだけ、他者と関わりを持つ中でそこに生まれる感情や言葉に自身が「生かされて」いる感覚があるからである。

友人・家族・恋人、本当に少しづつではあるが、生きることがなんたるかを教えてもらっている気がしている。

文をたしなめつつも誰かと共に生きれば、その言霊にも意味は宿るのではないかと思い始めた。

今は自分の肛門を高画質で見ているような気分にはならない。

まあ、といいつつもまたそんな気分になる時がくるのだろうけど。

この経験を経て、私はエヴァンゲリオンの碇シンジの気持ちを心底理解した。
ATフィールドも展開したくなるよ、そりゃ。

文字化する行為が、その行為自体がが自分の真ん中に居座ることがないように、自分ではない”誰か”と、可能なら面と向かって、言葉と思いをかわすこれからでありたい。


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