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勘違いは本当に勘違いなのか。

それは脳が勘違いしたのか、あえて勘違いさせているのか。

少し理由があり、改名しました。
明立 真惠子(あだち まえこ)と言います。これから改めて、どうぞよろしくお願いいたします。

光る君へ、を珍しく見ています。
実は、大河ドラマというものをきちんと見るのは本当に初めてで、鎌倉殿の13人は年末のダイジェストで追っかけるくらいのものでした。
なんか小さいころに見たイメージ(言葉がわからない、誰かよくわからない、人が多くて覚えられない、そして1年間と長い)があって全然見る気がなかったのですが、今回は初めから「みたいな~」とみており。
先週、五節の舞姫だったんですよね。でも4人で。
昔、何かの漫画で読んだときは五節の舞姫って5人で描かれていた気がして、なんで4人なんだろう?とおもったのです。
(よく調べると平時は4名、御代替わりは5名ということで、あながち間違いではなかったらしい)

そして今日はあるイベントに参加してきました。節分の話と、節句の話を聞いて帰ってきたのですが、まさしく節句は「五節句」。
それを聞いて、もしかして五節句と五節と間違えていた?と思った次第でして。
脳は都合のいいようにしか、人の話や文章を理解しません。
これは自分自身も痛感しているところです。なぜならここ何年か、そのことが大きく発現していたから自分でよくわかります。

どんな現象として発現したかというと、
人の話を聞く→理解した気になる(実際に字面では理解できる=頭では言葉の意味はわかる)→『要するに・・・』とか、自分の言葉で説明すると、内容がズレる
という流れです。はい。
ここで「違うよ」と相手が言ってくれればいいのですが、あらかたの話は「まあその程度の理解のずれなら誤差だから大丈夫だろう」みたいな感じで流されるんですよね。普段はそう大きなことも起こらないので、見逃されがち。

でも、勉強になると話は別、先生からきちんと指導が入るわけです。
最初は酷かったです、だって自分は理解しているつもりだから、同じことを言っているつもりなんです。
でも違う。言われたらわかったりする。でも次に自分の言葉にすると違う。

この繰り返しでした。
そしてここで重要なのは、相手が指摘してくれた時は本当は認知を見直すチャンスなのに、そういう指摘は『言われたくないこと』として処理してしまうこと。
そりゃそうですよね、気づきたくないから認知をゆがめて気づかないようにしているんだもの。
これ、自分ではなかなか気づかないし、向き合って解決しにくいところですが、指摘が入った時に感情に振り回されず「なぜその感情が出てきたか」や「なぜ聞いたらわかるのに、理解できていなかったのか」を考えると少し治りやすいです。
とはいえ、こういう場合は自分一人でやってもなかなか次にいかないことが多いので、できれば信頼できる人に全てぶっちゃけて話してみるといいかもしれません。

自分の脳の見えない壁は、他人から見たらバレバレなことが多いです。
スコトーマを破るには、他人の脳を借りるのが一番です。

そうだな、そのうちこれもメニュー化しようと思います。
そうなってくるとMirrorさんではなく、別のサイトで公開することとなると思いますが、また準備ができたら告知させていただきますね。

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