#2

「あんた、仕事選んでないで早く決めなさいよ」
電話口でそう母親に言われた。

私の新卒就活は失敗に終わった。
業界全て受けて全て落ちた。
卒業年になってバイトも辞め、卒論の提出締切と車校の予約で詰め詰めになっている1月末になんとか引っかかった企業は、大学サークルの延長で作ったような適当な会社だった。
卒業までは研修に参加させられ、脚が悪いと申告しているにも関わらず片道2時間ママチャリを漕いで営業に行かされた。
もう無理です事務に変えてください私は事務で採用されたはずですと懇願し、収まったのはテレアポ課の営業事務。
体育会系のそこはインセンティブ欲しさに空受注を上げてくる主任、その尻拭いを入社2週間の私に押し付けてくる場所だった。
モラルに欠ける仕事内容に、他人を騙す仕事をしているような感覚になり私は何も食べられなくなった。
大学時代のバイト先の店長はメールでそのことを知ったらすぐにゼリーの詰め合わせを「就職祝い」と言って送ってくれた。

就活時代から不眠症でお世話になっていたメンタルクリニックに言って点滴を打つばかり、もう無理だと思ったが、親には言い出せずにいた。
兄が天下のT大法学部を卒業した後フリーターになっている我が家で、就職での失敗者は二人と出してはいけなかったのだ。
しかし病院で点滴を打った後薬を受け取り、その帰りの階段で動けなくなった時にもう、もう無理だと分かった。
次の診察で休職が望ましいという旨の診断書を取った。

しかし年下の上長には「前例がない、気の持ちようだから」と受け取ってもらえなかった。
まさか3000円した診断書を受け取ってもらえないなんてことがこの世にあるなんて知らなかった。
人事担当に電話で直談判し、なんとか休職をもぎ取った。
その夜泣きながら親に電話し、現状こうこうこうである、取り敢えず食べられない、吐く、助けてくれと話した。

帰ってこい。

取り敢えず私は実家に帰って療養することとなった。
結局その会社は7月に電話で退職したい旨伝えて去ったのだが、その7月に自分で会社に電話できるようになるまでは一日中寝て脳の回復を待つだけの日々を過ごした。

しかし私の仕事してない歴はこの後どんどん伸びていくことになる。
精神の病というものを舐めていた訳では無い。
今思えば幼少期からの家庭環境から、私は自己肯定感が低く、褒められることもあまり無く、頭の良い兄と弟とは違う知能、そして、思春期の頃の、おそらくは小児鬱。
それがあまりに大きかったのだと、今では思う。

リストカットを繰り返す日々。
薄く切るだけの、皮膚を割くだけの衝動。
赤い線を引いては母親を泣かせていた。

#私小説 #小説 #エッセイ #文学

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