#3

会社を電話で辞めてから抗うつ剤の効果か、寝てばかり過ごして、実家の祖父母の喧嘩と父母の決定的な透明な溝と、弟の一家の栄光のような学歴に、田舎の周りの目に、苦しくなって私はまた一人暮らしの部屋に戻った。
帰る場所が二つあるとはなんと便利なのだろうと思っていた。

あの頃の記憶はすごくまばらだ。
寝てばかり居たからだろう。
実家では持って帰ったWILLCOMが圏外だった。当時はまだ私はスマフォではなかった為、恋人とのWILLCOMとSoftBankの10分だけの無料通話、切ってはかけ、切ってはかけ、それを繰り返しても絆は繋がり続けはしなかった。

会計士の息子だった彼は私と同じ会社を私よりはだいぶ早く辞めて中華屋でバイトをしながら実家暮らししていた。
一度彼の住む京都に遊びに行った。
帰り道がわからないからと案内してもらったらまんまとラブホテルに連れてこられ、観念した私はコンタクトの保存液をドラッグストアで買ってホテルに入ったはずだ。
強烈だったのは翌朝。
母親から鬼電の嵐、あと起きるのが1時間遅かったなら私の一人暮らしの部屋は母の通報によって管理人さんによって鍵が開けられていたところだった。
そうか、心身を患った者は簡単に死にそうなのか。改めて自分の危うさを知った。

彼とは私の誕生日のある年の暮れに別れた。
私を大事にしてくれなさすがだからだ。
数年後、唐突に「君の部屋の近くの幼稚園で実習してる。元気にしてる?」とメールが入ったが、おセンチにもならずに近況報告を交わし2〜3通のメールのやり取りで終わった。

メンクリに通い、リワークを進められ、週に何日か通うようになり、ひきこもり専用のブログを始め、自立支援医療を申請していなかった私はリワーク代がかさんで母親に電話でお金を使いすぎとイヤミを言われ。
律儀に家計簿をつけていた私は円グラフ凡そ3分の1を占める医療費・リワーク代のスクリーンショットを母親に送り付け「(生きてて)ごめんなさい」と告げた。母は謝ってきた。
消えたかった。生きたかった。

その頃にはもう慣れなくもiPhone5Sを使い始めていた。
登録した転職サイトで応募したブライダル系のカウンターセールス業の説明会にハーフアップで気合を入れて、新卒の時のスーツにナチュビで買ったコートを着て説明会兼選考会に出かけた。

一次面接はブライダル系専門学校を出たばかりだという若い子との合同面接だった。
面接慣れしていない彼女と比較してよ!と言わんばかりに私はにこやかに饒舌に愛嬌良く自分の自己紹介をした、そして志望理由を素直に伝えた。
そしたらなんと一次選考を通過した。
それは彼女を踏み台にしたという事だろう。
新卒の時には、確かに私が踏み台にされていた。
なんて皮肉なんだろう。

友達の結婚二次会が近いからとマツエクを予約した頃に二次面接の日程が決まった。
バリキャリの女課長との1:1の第二面接。
私は女とは相性が悪い、おっちゃんとは相性が良い。ただのキャバクラの女かよと自虐的に友達に愚痴っていたこともあった。
それでも、「あなたならこの仕事で何がいちばん大切だと思いますか?」の問いに、素で「……共感ですかね」「なぜですか?」「共感してくれない人に自分の結婚式の相談ってしたくないなぁって思って……」と答えた。
後で聞いたら、それが二次面接通過の決め手だったらしい。

残る最終面接は朝の9時、黒髪ロングをまたハーフアップにして、ナチュビのコートをエレベーター内で脱いでフロアに降りた。
部長との最終面接は店舗での面接だった。
問われた内容は、あなたの働く女性のロールモデルは誰か。というもの。

私は「母親」と答えた。
部長は「優等生の回答だね」と言った。
小学校の教諭がどれほど忙しく大変な仕事か分からないでそんなことを言うか!と私は怒りそうになったが「でも本当なんです」とにこやかに言った。
「いつから出られる?」
「すぐにでも、あ、来月の11日はマンションの消防設備点検があるので出られないかもしれないんですが」
「調整します、では来週からよろしく」
合格の意味だった。

私はその会社も1年で辞めてしまうのだが、色んなことを学んだ会社でもあったと思う。

#私小説 #エッセイ #小説 #文学

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