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【音楽】鈴木大介『シューベルトを讃えて』

 クリスマスソングの定番『きよしこの夜』が、オーストリア人作曲家、フランツ・グルーバーによるもので、その作詞者ヨーゼフ・モールのギター伴奏で初演されたということは、鈴木大介さんの新譜『シューベルトを讃えて』の愛情あふれるライナーノートで初めて知った。1818年のことだそうだ。
 同じく生粋のオーストリア人であるシューベルトはその時21歳。作曲家としての現役真っただ中である。

 シューベルトのギター愛は昔から語られてきたものの、そのことの信憑性は問われるところとされる。けれど、個人に語りかけてくるようなシューベルトの音楽とギターという楽器の組み合わせは、不思議と違和感なく受け止められるのもまた確かなことだ。

鈴木大介①

 グルーバーもシューベルトも、同じフランツという名前を持つのはただの偶然。ただ、数あるクリスマスソングの中でも、もっとも敬虔で親密な印象のある『きよしこの夜』がギター伴奏で作られた曲だと聞くと、これもまた不思議と違和感なく納得できてしまう。
 そういえば、サイモン&ガーファンクルも、アルバム『パセリ・セイジ・ローズマリー・アンド・タイム』の中で、あの囁きかけるような歌声で、『きよしこの夜』を歌っていることも、その印象を裏付けるように思う。
 
 一方、シューベルトもまさに親密な、個人に語りかけてくるような音楽を作る人で、そのせいかその音楽が映画で使わるとき、多くの場合で人の心の奥底、それも孤独感を表そうとしている。

 陰鬱ながら極美の『アルペジョーネ・ソナタ』の旋律と共に、恋に悩むジェラール・ドパルデューが「なぜシューベルトはこんなに哀しいのか」と慟哭する、ベルトラン・ブリエ監督の『美しすぎて』(1989)。
 『弦楽五重奏曲ハ長調』が、人と関わることの困難を伴奏するアラン・コルノー監督『インド夜想曲』(1989)。

 アレックス・ガーランド監督『エクス・マキナ』(2015)では、サイボーグだけがいる密室空間で、ピアノソナタ21番が失われた人間性の亡霊のように、美しく鳴り響く。
 スティーブン・スピルバーグ監督『マイノリティ・リポート』(2002)では、いかにも孤独なトム・クルーズの犯罪予知作業の中で、『未完成』交響曲が流れ出す。

 シューベルトの音楽は、シューベルティアーデと呼ばれる、親しい仲間たちの気さくな宴で興じられたとされる。そうした場でも、大ホールでの演奏に向かない、ギターという音量の小さな楽器がよく似合いそうだ。
(とはいえギターのために書かれたシューベルトのオリジナル曲はなく、唯一知られるフルート、ヴァイオリン、チェロとギターのための四重奏曲も、マティークの原曲を編曲したものだ)

ユリウス・シュミット『ウィーンの邸宅で開かれたシューベルトの夜会(シューベルティアーデ)』(1897)ウィーン・ミュージアム蔵

鈴木大介③

 鈴木大介さんの『シューベルトを讃えて』は、そんなシューベルトをギターで弾くことによって、いかにして聴き手に音楽を手渡すかを、探求しているように感じられる。
 収録曲は『楽興の時』2番と3番の他、ポンセがシューベルトに捧げた『ソナタ・ロマンティカ』、シューベルトと直接の親交のあったランツ『2つのロンディーノ』と、そしてメルツによる編曲版『6つの歌曲』。
 冒頭2曲の『楽興の時』も、他者の編曲をさらに鈴木さんがリバイズしたものだという。だからこのアルバムは、単にギター編曲版を収録したのではなく、まさにシューベルトを愛したたくさんの人が、シューベルトの音楽を個人的に探求し、その心に深く立ち入ろうとした作業の結果なのだ。

 シューベルトの音楽にひかれる理由を、鈴木さんはこう書く。

非常に限定された機能の中で、無幻のニュアンスや色彩と空間の広がりを音楽に息づかせることを最重要なテーマとし続ける“クラシック・ギター”という楽器とその役割の神髄へと、僕を導いてくれそうな気がするためである。(『シューベルトを讃えて』ライナーノートより

 思うに、鈴木さんが長く追求し続ける武満徹もまた、決して声高には語らぬインティメートな作曲家のように思うし、自ら作曲した『12のエチュード』も、多様な楽想の曲を集めてさまざまな心模様を描いた、今から思うとシューベルトの歌曲のような作品ではなかったろうか。

鈴木大介②

 ギター音楽というのは弾き手と聴き手の1対1の音楽だと思う。
 その点、ギターという小さな声の楽器が、やがて電気を通すことで大音響を獲得し、ロックミュージックのメインパートになったことは興味深い。しかし動員力と音楽の中身は別物である。ロックという音楽は、観衆こそ万単位を目指しても、発進する内容は極度に個人的なものだという点に、その名残があるような気もする。

 ベートーヴェンやブラームスのように、全人類を背負ったかのような巨人の音楽でも、バッハのように世界の終末までも見通したような聖者の音楽でもなく、1対1の対面で語り合うシューベルトの音楽。
 ギターという楽器を通してシューベルトと向き合うことは、ステイホームで外部との接触が遮断された2020年の春、自分自身との出会いの場を提供してくれることでもあるように思う。シューベルトを知ることは、自らを知ることに似る。
 鈴木大介さんの細やかなギターの音色を聴きながら、シューベルトを通して、いつしか自分を見、自分を聴いている。

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