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【読書感想文】ホテル・アイリス / 小川洋子

小川洋子 / ホテル・アイリス

📚説明(amazon 商品ページより)
染みだらけの彼の背中を、私はなめる。腹の皺の間に、汗で湿った脇に、足の裏に、舌を這わせる。私の仕える肉体は醜ければ醜いほどいい。乱暴に操られるただの肉の塊となった時、ようやくその奥から純粋な快感がしみ出してくる…。少女と老人が共有したのは滑稽で淫靡な暗闇の密室そのものだった―芥川賞作家が描く究極のエロティシズム。

📚読書感想文
彼らの関係も、行われる嗜虐的な情事も、そして彼らの人間性さえも、常軌を逸したものであることは明らかだ。けれど食い入るように読みすすめてしまうのは、小川洋子さんの巧妙な書き口があるからだろう。また、読者の卑しい部分を満たしていくからだろうとも思う。
マリのことを考えれば、常識を鑑みれば、はやく終息しなければならない関係。それは決して恋愛のそれではない。
本来なら安心しなければならないはずの終焉に、ひとつの喪失感を覚えたのはなぜだろうか。
この、なんとも言えない後味は同者の著書「琥珀のまたたき(個人的にめちゃめちゃ好きな作品です)」でも得ることができる。

(以下、ネタバレを含みます)

言葉を選ばずに感想を述べるなら、「とんでもない変態爺とあたまの弱いお嬢さんだな!」である。
えぐい性癖を拗らせたやばい爺と、反抗期を迎えた箱入り娘が乳繰りあう(お嬢さんが一方的に乳繰られる)物語。
これは作品の大半を官能小説的なものが占めていると思う。けれど、それらを妖しくもうつくしい秘めごとに昇華させているのはやっぱり作者のワードセンスによるものだろう。小川洋子さんという小説家は、ひとつの真実に対して いくつも並べた語彙の中から、もっともふさわしいものを選び取ることができる。大量の同義語のなかから、もっともひっそりとした語彙。息を潜めているそれを見逃すことなく物語に嵌め込んでいく。
だからいつも、物語は不思議な静けさにつつまれている。比喩表現に関しても同じことが言える。
わたしはその、不安定に完成された世界観がたまらなく好きだ。

薄汚れた現代を生きるわたしは、うつくしい語彙に隠された彼らの衷心を勘繰ってしまう。
ロシア語翻訳を生業とし、いつも暑苦しい背広に身を包む老人。遊覧船でしか往来できない孤島にひとりで住んでいる。
彼が主人公の働くホテルを利用するところから物語は始まる。想像できうるもっとも安っぽい出で立ちの情婦と揉める老人。そのときに放つたった一言の命令に主人公は魅了される。
ということはつまり、すくなからず彼女にも異常性癖が存在してたのだろう。
街なかで偶然再会をするふたり。主人公は老人の跡をつける。老人は気付いている。そして遂に声を掛ける。世間話をかわし、彼が翻訳家であることもわかる。遊覧船を見送る。数日後、翻訳家から手紙が届く。
その手紙は紛れもない恋文で、文末には「マリ様」と宛名が書かれている。翻訳家が調べたらしい。
この時点で、この爺はまともじゃなかったのだ。文明に恵まれた現代ならともかく、コンピューターも電話もない住まいで、どうやって調べたというのだろう。彼女の働くホテルの事業主だって、電話帳に載る世帯主だって、母親のはずだ。翻訳家の粘着性が明らかになる。マリは気が付かない。気味悪がるどころか手紙を心待ちにする始末だ。
逢瀬の申込みにもほいほい応じてしまう。17歳なんて、少女とはいえ女の勘もそこそこある年ごろだと思う。たぶん彼女は気づいている。辱められる期待もあったように思える。
翻訳家にしても、いい鴨がみつかったと思ったのではないか。金銭を払わずに、自身の性癖と肉欲を満たす娘が見つかった と思ったのではないか。さいごまでマリを、ばかな少女だと思っていたのではないか。だから終盤、マリの裏切りが許せなかったのではないか(自身を激高さる彼女に悦びを覚えたかもしれない という考え方もあるけれど)。
そして常軌を逸した営みがはじまる。想像すれば吐き気を催すような情事が、選びぬかれた言葉たちで描写される。彼らは没頭する。

マリの母親は厳しい。イマドキコトバでいうところの毒親である。娘を厳しく躾け、美しさを讃え、異常な執着をもってマリの髪を結う。
従順に生きてきた少女は17歳を迎え、反発心が生まれないとは思いにくい。
珠のように過保護に育ててきた母親が、いちばん悲しむこと。憤ること。マリはそれを熟知していた。
辱められ、痛めつけられ、髪は乱れる。存在するもっとも醜い姿を強いられる。汚い爺に犯される。マリの母親に限らずからのすべての母親たちがぞっとするだろう。
とてつもなくパンクな犯行であり、マリはそれに陶酔していた。ここがマリを"あたまの弱いお嬢さん"と評する由来である。なんて世間知らずなんだろう。
子どもをかわいいと思うあまり雁字搦めにする親に、救いようのないやり方で反発してやろうと思う気持ちはよくわかる。
「わるいことをしている」ことに酔う気持ちもわかる。いまなら、その愚かさもわかる。

マリはそれだけでは終わらない。彼女は自分を溺愛する翻訳家をも傷付けたかった。歪んだ思春期の為す業だろうか。それとも、その先にある痛みと快楽を求めたのか(彼を怒らせ、痛めつける理由を提供する自身に悦に入っていたという考え方もある。)。
マリが甥と寝たことを知った翻訳家は、激高する。甥を誑かしたと憤る。そして母親が溺愛したマリの髪をどうしようもなく痛めつける。もう元通りにはならない。傷や痕のように隠すこともできない。マリにとっていちばんの罰を与えた。これが終焉の信号だったのだろう。

嵐で遊覧船が欠航し、髪が後戻りできなくなった翌朝、彼らの儀式が明るみに出る。マリは保護され、翻訳家は海に飛び込んで死ぬ。花がらのスカーフはいつも死に際を見ている。
さて、このあとマリはどうなっただろうか。彼女の生活には触れられているものの、心情描写は一切ない。数年後、甥は訪ねてくるだろうか。
一般常識に則っていえば、マリは救われているはずだ。まだ世間を知らぬ少女が卑しい性具にされていた。変態爺は死んだ。
けれど、彼女の胸中は暗澹たるものではないか。開けてはならない宝箱のように、彼女はその数カ月を抱えて生きるだろう。

異常な子ども時代を送り、世間的に救済される物語では、同者の著書「琥珀のまたたき」がある。個人的には大好きな作品で、読んだあとの歯がゆさがとても似ている。
琥珀の〜に関しては、異常な子供時代と並行して、救済後の彼らの描写もされている。

いずれも、小川さんのワードセンスがなければ美しく仕上がらなかった作品だと思う。

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