【読書感想文】やさしい訴え / 小川洋子
📚あらすじ(BOOKデータベースより)
夫から逃れ、山あいの別荘に隠れ住む「わたし」が出会った二人。チェンバロ作りの男とその女弟子。深い森に『やさしい訴え』のひそやかな音色が流れる。挫折したピアニスト、酷いかたちで恋人を奪われた女、不実な夫に苦しむ人妻、三者の不思議な関係が織りなす、かぎりなくやさしく、ときに残酷な愛の物語。
📚読書感想文
ありきたりな言葉だけれど、とても耽美な小説だった。小川さんの作品でたびたび感じる、うつくしさと物悲しさを併せ持った物語。潔癖性さえ感じるエロティシズム。それは「薬指の標本」「余白の恋」などでも感じることができる。
何かを失うこと、得ること、そしてまた失うこと。欲しくて欲しくて、やっと手が届いたと思ったら消えていく希望。尾を引く消失感と孤独。どこか儀式的な情事。それは決して愛の為す営みではない。
読了後、ラモーの「やさしい訴え」を聴いてみた。ピアノ版もチェンバロ版も聴いた。なぜこの物語がチェンバロで描かれているのか、理由を垣間見た気がした。
(※以下、ネタバレを含みます。)
一説によると チェンバロとは、楽器であると同時に美術品でもあるそうだ。
それはあまりにうつくしくて繊細で、わたしには彼らそのものであるようにも感じる。彼らの関係や、その場所さえもまた、ひとつのチェンバロだったのだと思う。
他所に女のいる夫から逃れるため、瑠璃子は林に覆われた別荘へ家出する。のちにこの夫が暴力を振るう男であることもわかる。
世の中から隔離されたそこで、チェンバロ作家の新田氏とその助手 薫さんに出会う。
新田氏は元ピアニストであるが人前で演奏することが出来ない。薫さんはフィアンセに先立たれた過去を持つ。このフィアンセは浮気女に殺されている。
それぞれが何かしらを抱えており、それを癒やすものが共通してチェンバロである。瑠璃子も、一目でチェンバロを愛した。
チェンバロを作るものはチェンバロを求め
チェンバロを奏でるものは演奏者を求め
チェンバロを愛したものはチェンバロになりたかった。
新田氏は完ぺきなチェンバロをつくる使命を感じていた。完ぺきでないを許すことができなかった。自身の演奏を許すことができないのと同じように。だから戻ってきた不良品を叩き壊した。
薫さんは彼らにとって唯一の演奏者だった(新田氏とふたりきりの場合を除いて)。愛することと許すことをよく知っていた。生きることと弔うこともよく知っていた。演奏することと愛することはよく似ている。食べることと生きることもまたよく似ている。薫さんは絶望の淵を見ているので、すべてを許すことができる。慈しみを音に変えられる。
瑠璃子は不完全なチェンバロだった。完ぺきなチェンバロが既存することを重々知っていた。それでもチェンバロになりたかった。求められる役割を全うできないのに。完ぺきでないは抹殺される。だから彼女は破壊された。あまりにも穏やかな方法で。でもきっと、一部分を担うんだろうと思う。デザインしたカリグラフィのように。
林に覆われたそこは、無骨な外見に秘められる壮大な芸術品のようでもある。
時間からもわずらわしい現実からもひっそりと隔離された、四季の趣と音楽に満ちた王国。きちんと天国への通り道もある。
不完全なチェンバロは闖入者だった。ただしい鍵盤を叩けなかった。求めた音は鳴らなかった。瑠璃子はすこしずつそれを理解した。
離婚の手続きを行ない、就職を決め、別荘は売却された。現実は確実に迫ってくる。彼女のチェンバロは破壊されたのだ。