僕の「生」(ヒタ・リーを聴きながら)

僕の「生」(ヒタ・リーを聴きながら)

  年をとる、そして突然ある逆行が起る。非常に荒々しい悲嘆というものが自分を待ちかまえているかも知れぬと、Kちゃんよ、きみは思うことがないか? ※1

僕は以前、『死にゆく父へ』『死なない方法フューチャリング母』というふたつのエッセイを書いた。それは近い将来やってくる両親の死、そして本人たちが漏らした、ある「悲嘆」の体験を描いたものだった。
「自分の人生とはいったい何だったのだろう」という後悔の念、それは僕がこれまでの短い人生の中で何度も感じてきた青臭い「くだらなさ」と似通っていた。しかし現実的な死と、そのぶん積み重ねてきた生の上に立っている両親の言葉には、僕のような若者とは違う切実さがあったのである。
 むしろ、だからこそ僕はその「くだらなさ」に向き合いたいと思った。そして『死なない方法』においては母にひとつの提言をした。それは、これまでの人生において当たり前だったこと、そしてこれからも当たり前にあり、でも当たり前でない日常の「ありきたりさ」に目を向けてみる、ということだった。
 二四歳の青二才が六〇を過ぎた母に人生訓を語るなど、周りから見れば虚しく映ったかもしれない。けれども、その提言に後悔はなかったし、その日の出来事を改めて書いてみて、やはりあのとき言わずにはいられなかったのだろうとも思った。なぜならその言葉は、僕自身にも向けられていたものだったから。
 僕は両親を通したそのふたつのエッセイによって「死」と「生」に対するひとつの段落をつけられたと思った。
文章を書き上げ発表もした直後、大江健三郎『燃え上がる緑の木』を読み始めた。そこに引用されていたイェーツの詩。
 
  《両極の間に/道をさだめて人は走る。/たいまつが、あるいは燃える息が、/来て破壊する/昼と夜の/すべてこれらの二律背反を。/肉体はそれを死と呼び、/魂は後悔と呼ぶ。/しかしもしこう呼ぶことが正しいなら/喜びとはなになのか?》 ※2

僕はこの詩に――大江自身の訳詩も含め――深い感銘と悲哀を覚えた。それは紛れもない人生の「死」と「生」に対する「悲嘆」だった。
僕は直感的に思ったのだ。自分はまだ、書き足りていないのではないか? と。そしてそれは、僕自身のことであるはずだと。この詩の「喜びとはなになのか?」という切実な想いを受けて、僕自身の経験、喜び、哀しみ、それらを改めて書きたいと考えたのだ。
僕は若い。死、なんて言っても、ろくな内実がない。だからこそ両親の「悲嘆」を媒介に自分の「死」と「生」を書くことで、ひとつの手応えを得ようとした。その中で、さきほど書いた母に対する提言は僕にとっての切実さをも含んでいたと思う。それを僕は「生」の側面からもう一度語りなおしていきたい。何より、極端に言えば、まだ死んだことのない僕たちは「生」の側から語ることしかできないのだから。
ただ、だからといって、それが将来待ち受けている「死」に対して無意味だとは思わない。死と生、一端に触れれば反対のもう一端にも呼応する「両極の間」に、そのタイト・ロープの上に、僕たちは常にいるのだから。
いま生きている僕が持っている数少ないもののひとつ、それは若さだ。しかしそれはすぐになくなってしまう。いま僕は二四歳で、その境目に立っていると思う。いやまだ全然若いじゃん、と言われればそれまでだが、その「境目」という感覚すらなくなってしまう前に、いま一度書いておきたいと考えたのである。
そして僕はこの文章の中心に、さきほども述べた「ありきたりさ」そして「優しさ」という言葉を据え、書いていきたい。

僕は昔から人に「優しい」と言われてきた。しかし、嬉しいと思ったことはなかった。なぜなら幼かった頃の僕にとっても、その言葉は「大人しい」もしくは「臆病」の言い換えとしか聞こえなかったから。 
実際、小中高と僕の記憶には、誰かに優しくした、なんて出来事は見当たらない。極度の人見知りで、誰ともほとんど喋らず過ごしてきたのだから、それは当然と言える。何も働きかけず、いつもオドオドしていた僕に、同級生はときに優しく、ときに苛立ち説教を浴びせた。つまり優しくされたことは多々あっても、僕自身が優しい人間だったなんてことは、思いもよらなかったのである。
 二年ほどまえ、芸術大学の院生である女の子と知り合った。少しずつ話すうちに、特に音楽の趣味が合い、仲良くなった。家が近かったこともあり、展覧会やライブを一緒に見に行くようにもなったのである。
 僕は彼女と同じバイト先で知り合ったのだが、彼女は他にガールズバーでもバイトしていて、そこで多くの人脈を作っているようだった。日本画を専攻していた彼女には、つまりパトロンもすでに何人か存在していたわけだ。
 僕よりも多くの知識を持ち、また自立してもいる彼女に、僕は少しずつ惹かれ始めていたのだが、彼女にはすでに恋人がいた。僕自身、それは重々承知していたわけだが、あるとき告白をしてしまったのである。
 彼女の友人たちと、あるとき飲みに行った。それがお開きになり、帰り道が同じなので、僕はだいぶ酔っている彼女を送ることになった。駅のホームでもたれかかってきた彼女に、僕はキスをされた。それですっかりのぼせ上がってしまい、駅まででいいと言う彼女の家の前まで付いていき、迫った。その延長線上で、告白をしたのである。
 要するに僕は「やれる」と思い込んでしまったわけである。彼女は何度も「ごめん」と言っていた。結局僕は何も出来ずにひとりで帰ることになった。
 そこで終わってしまえばまだよかったのかもしれない。でも僕は諦めきれず、彼女に何度も好きだと言った。その上、僕と話す頻度が極端に少なくなった彼女の気を引くために、彼女自身やその友人たちを「ネタ」にからかい始めた。自分はこんなに面白い人間ですよとアピールしていたわけだけれど、無自覚で他虐的なからかいが、うけるはずもない。それがうまくいかずに、あまつさえ、僕は彼女を攻撃した。彼女はその間も、あの日の夜のことを謝った。でも、僕は一度も彼女に謝ることができなかった。 
 当然の結果として、彼女やその友人は僕から離れていった。自分が人を、「ネタ」という言い訳をつけて傷つけたこと。しかもそれが私欲・性欲のためであったことにようやく気づいたときには、もう誰もいなかった。そのあとにメールで謝っても、何も変わらなかった。やがてやってくる鬱屈の時間…… 僕は自分を「優しい」どころか、ろくでもない、実につまらない人間だと、このとき思い始めたのである。

 
  あの時、私は人間は他の人間を傷つけるものだ、と考えたのでした。ダンテの『神曲』に《殘忍なる魂己を身よりひき放ちて去ることあれば》とありますが、それは自殺した者のことで、暴力で自分を傷つけることとされています。それを思えば、むしろ他の人間をという条件づけは要らないかも知れません。人間は、人間を傷つけるのです。そして私は、自分はこれから人間を傷つけることをしないで生きよう、と発心したのです。 ※3

大江健三郎の作品群において中期とされる、『「雨の木」を聴く女たち』・『同時代ゲーム』に始まる作家「K」とその家族たちによる物語。『燃えあがる緑の木』はその集大成というべき作品である。
大江の作品で重要な役割を担ってきた、故郷の深く長大な歴史を持つ森、「谷間」。それを司ってきた「オーバ」が亡くなり、継承の役目を負った「ギー兄さん」は数々の奇蹟を起こす。そして『緑の木』の主人公である「サッチャン」とともに、森に教会を設立するのである。
順調に育っていた教会だったが、やがて外部との軋轢を生む。その道行きでギー兄さんは襲撃を受け、歩行も困難なほどの怪我を負ってしまうのである。その上でギー兄さんは「人間を傷つけることはしないで生きよう」と決心するのである。
しかしそれは、彼が単なる「聖者」であることを意味しない。なぜなら、彼自身もかつて行なっていた学生運動の延長線上で、対立する党派のひとりを傷つけてしまったという経験を持つのだから。
僕は去年からずっと大江を読んできた。それはとても大きな経験になったと思う。そしてこの作品、一節には自分の心情・状況を重ねるようで、胸打たれた。とくに「他の人間をという条件づけは要らないかも知れません」という箇所において。
僕は好きだった女の子との経験以来、「傷つける痛み」ということについて考え始めていた。それは人を傷つけた、という加害者としての罪悪感であり、その後に受けた「しっぺ返し」のことでもある。そして、それによって自分を傷つけること。卑屈になって何もできずにいること。つまりはあまりに身勝手な「傷」であるわけだ。
僕の経験においてそれは、端的なコミュニケーション不足からくる、「相手がどう思うか」という基本的な想像力の欠如だった。
人生経験のない若者が、恋に敗れ、鬱屈という名の自意識にまみれる。そして自分をも傷つける。世間的に見れば、特異さなどない、むしろありきたりな出来事ではあると思う。ましてやギー兄さんのように、生と死の狭間における切実さと比べれば……
しかし、僕にとってはやはり、生きてきた上での転換点であったことに変わりはない。多くの気づきを与えられ、「死なない方法」における、そしてこれから書く自分にとっての「生」を教えられたのだと。それを「成長」と呼ぶには、後ろめたさがあるにしても……

人は罪の意識を持ったとき、自分をひどく惨めに思ったとき、変わりたいと、辛かったことなど忘れて乗り越えたいと思い立つ。それは僕も同じだった。彼女たちとの縁が切れ、僕に襲ってくる鬱屈は、仕事中でも、酒をひとり飲んでいるときでもやってきた。胸が痛み、あらゆることに集中できなかった。いっそのこと全部忘れたいと、どうにかしたいと。
しかし、ようやく奮い立ったその暗闇の中で選びとる「変化」が正しい方向性を導くとは当然限らない。むしろまた同じ失敗を繰り返してしまいかねない。
そもそも、乗り越えたい・忘れたいという想いは何かが間違っていないだろうか? 僕が怖れるのは、彼女との経験を「乗り越え」たから、自分は「優しい」人間になったと思い込むことだ。だからこそこの文章の冒頭に引用した大江健三郎『懐かしい年への手紙』におけるギー兄さん――『緑の木』では「さきのギー兄さん」と称される、作家Kにとって幼年からの師匠(パトロン)であった人物――の言葉は、僕にとって大きな存在感を放っている。もう「傷」など「乗り越え」た、だから忘れよう。そう思い込み、「傷」を抑えつけながら生きる。だがそれは、またいつの日か人を傷つけ、自分をも傷つけてしまいかねないとき、大きな「逆行」、荒々しさが現れないことの保証には決してならないのである。
それを怖れるからこそ、僕は忘れない。というよりは、忘れることなどできない。身勝手な「傷」の経験によって、自分は「優しく」なったなどと、ましてそれによって、誰かより優位に立っている、なんてあまりにも傲慢だと思うから。そもそも、「忘れる」なんてことは、何より彼女への冒涜ではないか?
その上で、僕は思うのだ。忘れるのではなく、この「傷」と共に生きるべきなのだと。どうせ忘れられないなら、その「傷」を持った自分をまず受け入れてから、新しく始めなければならないと。それは何か。僕は最後に、「ありきたりさ」ということと自分の「生」を繋げた上で、この文章の結びとしたい。

その「新しく始める」こととは、筋トレや自己啓発セミナーなどではもちろんない。人が変わりうるとしたら、それは結局人との関係性の中にしかないからである。
僕はあのときの出来事を経て、これからの「生」の根幹に「ありきたりさ」という言葉を据えたいと思った。それは『死なない方法フューチャリング母』の最後でも少し書いたことで、すでに述べた通り、もう一度その部分から、自分に照らし合わせるという形で、語りなおしたいと考えたのだった。
「ありきたりさ」とはつまり、自分の「生」において、特別さ、特権性を求めないことである。
『死なない方法フューチャリング母』における母、『死にゆく父へ』での父。その両方が漏らした「悲嘆」。その本質は、こんなことで終わっていいのか、という虚無感であったように思う。“これ”と言えるものがない。自分の人生は薄っぺらい。そうやってありきたりなまま終わることへの恐怖。
それを僕ら若者に当てはめてみたらどうなるか。美女とやりたいけどモテない? 人が苦手だから自分は社会不適合者? 大した思い出もなく怠惰なまま過ぎていった青春? 要領のいい奴らへの妬み? 匿名で書き込む世界への憎しみ、妄想? どれもクソくだらない。切実さなどない。自分が「特別」だと思い込みたい、もしくはそうでないことをウジウジ嘆く、形だけの大人が多すぎる。でもそれは、いつかの僕だったはずだ。
人は自分自身に行き詰ったとき、理想像を作り上げ、その顕示を願う。「本当の自分」「本当の優しさ」「本当の愛」。それらを手に入れて変わりたい、と。
そんなものはどこにもないはずだ。けれども、人々はその理想を欲しがり“これだ”と思った人を枠に押し込めようとする。それが少しでも捻じ曲がれば「愛」も「優しさ」も、容易に憎悪へ変わりうる。そして人を、自分をまた傷つけてしまう。
だからこそ僕は都合のいい「特別さ」ではなく「ありきたりさ」を心に刻んでおきたいと思った。そしてその手がかりは、やはり『燃えあがる緑の木』にある、ギー兄さんの「一瞬よりはいくらか長く続く間」という説教において。
 不治の病を治す「ヒーリングパワー」を持つという信仰が、森の「谷間」のあいだで広がったギー兄さん。彼は実際に、数々の病を治癒してみせた。しかし、彼を信奉してきたうちのひとり、鍛冶屋の息子・カジは消えたと思った癌が再発し、ついには取り返しのつかない状態に陥る。
 死の床でカジはギー兄さんに訴える。あまりに短い年月しか生きていないのに、自分が死んだあとも、永遠に時は続いていく。それを思うと耐えられない、と。
 ギー兄さんは自身の「ヒーリングパワー」が引き起こした事態に責任を感じながら、答える。たとえ永遠に近い時間を生きた人でも、やはりカジのような悲しみを覚えるだろう。問題は、生きた時間の長さではないのだと。その上で、こう続ける。

  ……この一瞬よりはいくらか長く続く間、という言葉に私が出会ったのはね、ハイスクールの前でバスを降りて、大きい舗道を渡って山側へ行く、その信号を待つ間で…… 向こう側のバス・ストップの脇にシュガー・メイプルの大きい木が一本あったんだよ。その時、バークレイはいろんな種類のメイプルが紅葉してくる季節でさ。シュガー・メイプルの木には、紅葉時期のちがう三種類ほどの葉が混在するものなんだ。真紅といいたいほど赤いのと、黄色のと、そしてまだ明るい緑の葉と…… それらが混り合って、海から吹きあげて来る風にヒラヒラしているのを私は見ていた。そして信号は青になったのに、高校生の私が、はっきり言葉にして、それも日本語で、こう自分にいったんだよ。もう一度、赤から青になるまで待とう、その一瞬よりはいくらか長く続く間、このシュガー・メイプルの茂りを見ていることが大切だと。生まれて初めて感じるような、深ぶかした気持で、全身に決意をみなぎらせるようにしてそう思ったんだ…… ※4

 
ギー兄さんは、言う。永遠に近い時を生きた人でも、死の間際に思い浮かべるのは、やはりそんな光景だろう。それを生きた「しるし」として感じ、想うことは無駄ではない、と。また、私たちは自分の死後の時間に恐怖するが、なぜ生まれるよりも前の時間には、その想いを抱かないのか? だとしたら、私たちは怖れる必要はない、それよりも「一瞬よりはいくらか長く続く間」の中にいる「いま」を見つめてほしい……
 人を傷つけないこと、自分を傷つけないこと。それは常に両立していなければならない。僕はそのために、この「一瞬よりはいくらか長く続く間」と「ありきたりさ」を繋げてみたい。
 僕たちは感じる。信号待ちの木々のざわめきに、白く光る海の面に、洗い忘れた食器の汚れに、吐くまで飲み明かした日の夜明けに、友達と歩くいつもの道に。とてもありふれた光景の中に、哀しいほどに心に刻まれる瞬間がある。
 僕はそんな「一瞬よりはいくらか長く続く間」を日常の中から切り取って、文章として形に残すことをしていくべきだとも思う。自分の「生」のための修練として。ありきたりなことを書き留め、そこに新しい何かを見つけ出すことは、芸術が「生」にとってひとつの意味を持ちうるという実証にもなるだろうから。
 また、「ありきたりさ」を孕んだ毎日の中で、決して忘れてはならないのが、周りの人々の存在である。自分が身勝手な「傷」に打ちのめされているとき、それでも傍にいてくれたのは友だちだったし、――意識的とか無意識とかいうことは問題ではない――彼らと飲んだり歩いたり笑ったり抱き合ったりすることで「救われている」という想いが強くなっていった。それは依存とも違う。単純な、周りにいてくれる人々の大切さ。これも実にありきたりなことだ。でも僕はそのことに気づくまで、いったいどれほどのものを失った? が、繰り返すように、そんな自分が作ってしまった「傷」を、吐き捨てるのではなく、抱きしめて、また生き始めることしか僕は出来ないのである。いま僕のことを「優しい」と言ってくれる人たちの言葉を、僕は昔よりずっと素直に受け止められている気がする。
 そして最近僕は考える。「優しい」こととは、言い換えれば「人を傷つけないこと」ではないかと。つまりそれは人として、大人として当たり前のことである。もちろんそこには、人よりも前に、自分を傷つけないことが前提としてあるわけで、また「優しい」とは、何の自慢にもならないということも、当然の結論としてある。そしてそれを決して嘆く必要はない。
 僕はこの文章全体に、『燃えあがる緑の木』の、ギー兄さんの言葉を引いてきた。僕は自分の経験と考えを通して、彼の「人を傷つけることはしないで生きよう」と「一瞬よりはいくらか長く続く間」というふたつの説教に、それぞれ「優しさ」と「ありきたりさ」の言葉を当てはめて、繋げられたように思うのだ。
そしてそれを心に留め、自分が作った「傷」、あの夜を忘れずに、もうすぐ若くなくなる僕は、大人としてその当たり前な「優しさ」を深めていけたらと考えている。それが僕の周りの人々、そしていつか出会う新しい人たちと、お互い救い・救われていけるような関係になっていけば、僕の「生」は決して無価値ではないと、きっと思えるから。

※1 大江健三郎『懐かしい年への手紙』講談社文芸文庫 ,1992 ,p17
※2 大江健三郎『燃えあがる緑の木 第一部「救い主」が殴られるまで』新潮文庫 ,1998 ,p223
※3 大江健三郎『燃えあがる緑の木 第三部 大いなる日に』新潮文庫,1998 ,p305
※4 大江健三郎『燃えあがる緑の木 第一部 「救い主」が殴られるまで』新潮文庫
,1998 ,p171

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