鳴河相談室

鳴河相談室

少女が、さあ話してと言った。「なにを?」「あなたの悩みを。私たち、そのために集まったのよ」

こうして鳴川の相談室が開かれた。―― 苦脳スタンプ。悩みの種たち。嘘ばかり小説。僕はこれを聞く君たちに相談したい。僕は行くべきなんだろうか?


『鳴河相談室』

著・修平  絵・市川正晶


「小説ってのは履歴書みたいなもんだ。嘘を書きならべて、それが高度であればあるほど認められる。実体なんてもんは伴わない方が良い」

 森野熊(もりのくま)は僕の友人で、ある時は起業家、ある時はウェブデザイナー、ある時は小説家と怪人二十面相顔負けの怪人である。大言壮語を繰り返すばかりの馬鹿と侮るなかれ、高卒でありながら東芝に入社し、一週間で馘首(クビ)にさせられた経歴を持つ。

 彼は履歴書作成と面接対応が実に上手な社会不適合者で、鍍金(メッキ)を剥がしながら暴走する機関車だった。彼は今、僕の揺り椅子に座りながら携帯電話を弄っている。僕はパソコンから顔を上げて、森野熊の本当の容姿を認めんと躍起になるけど、「落ちくぼんだ眼窩(がんか)」とか「こけた頬」とか「ゴッホが描きたかった貧民の相貌」とか、生きてる人間を描写するには不向きな言葉ばかりが浮かんでくるので止めておく。そう、これは小説なのだ。森野熊が落ちくぼんだ眼窩とこけた頬と貧民の相貌をしているからって、実際に書く必要なんてぜんぜん無い。彼は月さえ嫉妬するエルフで見る者の現実感覚を剥ぎ取るような顔をしている、ってことにしてもオーケーなはずだ。少なくとも、これから語られる物語に森野熊の顔は関わってこないわけだから。

 部屋には蟻塚のように重ねられた本の塔があちこちに林立し、てっぺんにはたばこの箱やいろはすのペットボトルが象徴みたいに置かれている。本棚のない部屋なんだ。机だって無い。家具は揺り椅子とベッドとパソコンと、その充電器くらいなもので、冷蔵庫だって置いていない。四年も洗っていないカーテンはやにで変色し、老人の前歯みたいに黄ばんでいる。枕がわりのクッションは三つあって、今は二つが森野の背もたれになっている。中古で買った籐(とう)の揺り椅子は、背もたれ部の布がちぎれて綿が飛び出し、ついさっき沈没船から引き上げらればかりみたいだった。

「あと、あれだな、主人公には、なにかしら問題があったほうがいいな。こう、壮絶な問題が。ベン・ハーみたいに運命を背負ってるとか、ヴォルデモートに目をつけられてるとか……」

 訳知り顔で語っているけど、森野は映画しか見ない。彼の読む活字は競馬新聞とスポーツ新聞くらいで夏目漱石を画家だと思っていたくらいだ。でも、僕は小説の面でも彼に一目、もしかしたら二目くらい置いている。

 僕達が夕方のコンビニでバイトしているとき、彼は雑多に新聞の詰まった新聞立てを指さして、「あそこじゃ右も左も同じだな」と言った。僕はなかなか良いなって思ったんだ、その時。

 履歴書の話にしてもそうだ。もし小説が彼の言うとおり「嘘つき大会」だとするならば、森野は結構良い線をいけるなって思うんだけど、どうだろう? ただし、そう信じるにはちょっとしたコンプレックスがあるんだ。僕は根っからの私小説――つまり自分のことばっかり書く作家なタイプで、小説を書いてはいるけど九割方日記みたいになっちゃって、そのせいでカルチャー・スクールでも散々な目に遭う。でも僕はこう思うんだよ、小説が履歴書なら「これは履歴書である」っていう嘘以外、あらためて嘘を重ねる必要は無いんじゃないかってこと。

 カルチャー・スクールはその名前からはなかなか判断しづらいけど、小説講座のことだ。森野はこの学校のことを遺書講座と呼ぶ。生徒のほとんどが年金暮らしの老人で、書かれる小説はすべてタイトルを「我が人生振り返りて思ふこと」にして構わないくらいなんだ。当然、若い僕の小説は浮きまくる。

 僕はできるだけ「喋り言葉に近くて」「柔和で」「壮語しない」小説を書いている。それが一番僕の性に合った。でも、一部の人達には「冗漫(じょうまん)で」「締まりに欠け」「小説未満」と言われる。でも実際そうなのかもしれないし上手い反論は思い浮かばない。

 スクールの先生も僕の小説は困り物らしくて、「文学的示唆に貧する」と言う。文学的示唆っていったいなんだろう? それが分からないと作家とは呼べないのか? そのスクールにはもう一人、若い子がいて、あとで分かるんだけど十六歳。僕より十も下だった。高校生で、綿矢りさが好きで、そういう子だから順当に世をひねていた。彼女は僕の小説に興味を持ってくれて、スクールの後にお茶をすることになった。鳴河さんはどうしてここに入学したんですかと彼女が言った。

 早稲田の文学部を卒業した僕は新卒採用の波に乗るためのボードを用意し忘れて、ビートバンでバタ足しながら近づいたら呆気(あっけ)無く飲み込まれた。その時、上手なサーファーの操るボードの先端に頭をゴチンとぶつけちゃって、一年休養した。まったく呆気無い悲劇だった。すごろくの終盤で「振り出しに戻る」のマスへ止まっちゃったみたいだ。

 でも、そんな話を彼女は求めていないだろう。他人の過去に興味を持てるほど現代人は呑気じゃないんだ。

 僕には彼女がなにを求めているのか理解できた。どうしてそんな風に分かるのか説明できないけど、彼女は僕に強く話を聞いてもらいたがっていた。僕は大きな流れに任すことにして、君は? と聞き返した。やめとけばいいんだよ、こういうサーヴィスは。またゴチンとやられるかもしれないのに。

「私ですか」

 目が瞬いた。僕は親身に話を聞こうと思えば、いくらでも親身になることができるんだ。姿勢を前のめりにして、目を真っ直ぐ見つめて、慎重に肯(うなず)く。すると彼女は躊躇(ためら)うことをやめて女子高でのイジメの話や、半年に及ぶ保健室登校、失くなったローファーや担任の「もう辞めちゃえば?」等々を真剣に話す。僕は彼女の話を一つ一つ整理する。降ってくるブロックを積み上げていくゲームがあるだろう、そんな感じに。

「一番許せなかったのは、友達だと思ってた子が無視したことなんです」

「どうしてそんなことするんだろう」

 彼女は首を振った。

「女の子同士の友情は、難しいんです。男とは違って」

 僕は男同士の友情――彩川(さいかわ)について話そうかと思った。でも、それを言って僕の中の憤り? 悔恨? 苦しみ? そういうものが分別不能に混じり合ったなにかが癒されるとはどうしても思えないんだ。それを打ち明け終わったときなにも変わらなかったら、僕はどうすればいい?

「たしかに、男とは違うよね」

「はい。私、こんな話をするのは初めてなんです」

 でも君の小説にはそれがありありと滲み出ていたよ。

 終電で帰ってきた僕を、森野は尻で出迎えた。彼はベッドに寝転がり携帯を打っていた。こちらも見ずにまたなんかあったんだなと森野が言った。まあね、と言いながらも僕はなにがあったのかを絶対に口外しない。「言わない」と約束したからには樹の洞(うろ)に向かってでも言っちゃいけない。これは僕の唯一のポリシーと言って大過ない。森野もそれは承知しているから追求はしなかった。ただし彼は警告する。

「お前な、馬鹿みたいなことで神経すり減らす奴のことを馬鹿っていうんだぜ」

 僕は籐の揺り椅子に身を預けて目を閉じた。その通り。僕は馬鹿だ。馬鹿のおせっかい焼きだ。昔の小説を読んでいると、人と人の信頼の為には第一に自分を曝け出し、第二に相手の曝け出したものを受け容れる必要があった。しかし見回す限り、現代では第一工程は主に省かれる趣があるみたいだ。キリストよりも弟子を、孔子よりも子路を必要とし、自分の話を従順に聴く誰かを渇望している。それは互換可能な誰かであって、僕である必然性は一切無い。それは悲しいことだけど、要請されているのだから仕方ない。

「これは、ボランティアのごみ拾いみたいなもんだよ」

「履歴書に書けない時点でボランティア以下だよ」

 たしかに、そうかもしれない。でも小説には書ける。小説の良いところは、僕の話ができる点と、僕を失望させない点にある。小説はひとり語りを食べて延々膨れ上がり、なにも吐き出さぬまま終わる。

 苦悩は解消されぬまま、膨大の一途を辿る。でも、それでいいんだと思える。苦悩の風船は膨らみ続けるけれど、針一本分だけ穴が空いていて、そこから少しずつ溜まった物が流出するからだ。その穴とは即ち、彼女の存在だった。彼女が今もこの世界のどこかで生きていて、風船をひたすら――それも、彼女のには穴なんて空いていない――膨らませているのを思うと、僕は気が軽くなったように思えるんだ。

 彼女もまた文学部の生徒だった。主にギリシャ悲劇に関心を寄せエウリピデスの分厚い本をいつも持ち歩いていた。彼女が本を胸に抱えて歩くとき、十戒の石版を抱くモーセのようで不思議な印象だった。

 どういう経緯で言ってしまったのか忘れてしまったけど、ある日僕は「人間の悪」について彼女に語った。それは幼い思想で、口にだすのもはばかられるからここには詳しく書かないけれど、簡単にいえば「人間というのは根本的に悪い者だから、精一杯善いふりをしなきゃいけない」ってことだ。善いふりをすることが、人間の義務であるとさえ僕は思ってる。と、そう言ったんだ。

 さぞ気味悪がられるだろうなと覚悟したけど裏腹に、彼女はエウリピデスの本をテーブルに置いて、アイスココアの入ったコップを子どものように小さな人差し指で撫でながら、「それだと鳴河くんが辛くない?」。

 量れないほどの大きな優しさの前で「辛い」と言うことが、どうして安らぎを与えるのか、僕には説明がつかない。それを言ったっきり失語症に陥ってしまったみたいに次の話すべき言葉を忘れてしまった。

 彼女の好きな所は「自分の悩みを他人には打ち明けない点」だ。嫌いな所は「自分の悩みを他人に打ち明けない点」だ。矛盾した感情を人は恋と呼ぶ。僕もそう呼ぶ。

          *

 僕は小学生の頃から父と母に離婚の相談をされ続けた。両親が子供を味方につけるために、相手の悪口と自分の正当性を、子供にしゃべり続けた。時には、二人のぶつかり合いを僕に傍観させて、言葉が切れるたびに「お前もそう思うだろう」と言いたげな視線を僕にぶつけた。おかげで僕は無口になった。何かを喋れば必ずどちらかの一人から叱責されたからだ。

 中学二年生に上がると同時に家から父が消えた。僕はもう、誰の話も聴く必要はないんだ。他人のおぞましいエゴに触れる必要はないんだ。けれど、平穏な日は長く続かなかった。鳴河相談所が外へ開けたからだ。

 最初の相談者は僕の初恋の女の子。夕暮れの教室で彼女は十五分も泣いた。僕はてっきり末期がんにでもなったのかと危惧したけど、原因は付き合っていた男の浮気だった。彼女はサッカー部の副キャプテンと交際していたのだが、その男はマネージャーの女とできているらしい。すずらん商店街で手を繋いでいるのを見たと、彼女はハンカチで目をこすりながら言った。

今まで僕が直面していた問題からすれば、それは些事に過ぎなかった。一年経てばこんな悩みは忘れるに違いない。けれど、僕は彼女の話を聴かなければいけないと思った。最早僕に選択肢は無かった。

 家に帰ってから、僕は「苦悩スタンプカード」を作った。スタンプカード第一号は苦悩の のう の字が脳になっている。僕はそれを第三号で改めた。三号作成までそう時間はかからなかった。皆、まるで海に石を投げるみたいに僕へ悩みを打ち明けた。ただし、僕は海じゃない。道路の窪みの水たまり程度の存在だ。そんな僕が、彼らの悩みをいちいち咀嚼(そしゃく)して、同情して、有益なアドバイスを与えるなんてできるはずがないだろう。

 だから僕は書店で買った心理学の本を少しだけ齧って、悩みへの「対処法」を習得した。相談者を九つのタイプに分類して、この人が当然起こすであろう他者との摩擦を類推し、アドバイスパターンに当てはめたのだ。

 鳴河相談所の評判はうなぎ登りでほとんど毎日誰かから――時には名前も知らぬ上級生から、いじめの相談、虐待の相談、浮気の相談、自殺願望の相談等を受け付けた。皆決まって最後にこう言った。「この話は誰にも言わないで」


 小説を書いていると、森野が帰ってきた。金がないといつも騒いでいるくせに、今日は渋谷まで行ってきたらしい。電車賃あったのかとパソコンから顔も上げずに訊くと、球磨川マジックと言った。

「マジックでもなんでもないだろ。ただの無賃乗車だ」

 球磨川駅はホームの端っこが柵を隔(へだ)てて林になっており、そこさえ乗り越えれば甲州街道に出ることができる。もちろん犯罪だ。百四十円あれば、JRのどこの駅からでも帰ってくることができるので、森野はそれを「球磨川マジック」と呼ぶ。

「お前も使えよ。馬鹿だぜ、使えるもんを使わないのは」

 森野が反省するとは最初から思っていないので、僕は無視することにした。時刻は十二時を回ろうとしている。今日中にちょっとでも小説を書き進めないとカルチャー・スクールに提出する原稿が間に合わなくなりそうだ。

 森野が「バイト辞めた」と言った。

「え、なんで?」

「渋谷に転がり込める家見っけたからそこに行くことにするよ」

「あ、そうなんだ」

 ここのところ、森野は週五日も僕の部屋で眠っていたから、いざ出て行くと言われると、なんだか妙な気持ちがする。原付を買って、古い自転車を廃棄するとき同じ気持だった。自分には森野を引き止めるほどの理由はない。けれど、なんだか惜しい気持ちがしたんだ。

 僕はベッドの下から日本酒を取り出して、二つのマグカップに注いだ。つまみになりそうな物は鯖の味噌煮缶と、白アスパラガス缶しかない。けれど森野は喜んでくれた。

「さんざん世話になったくせにわりいな」

 そんなこと思うだけの心が残っていたことに僕は驚いた。宴会は二時間ほど続いた。日本酒を飲みきり、コンビニまで酒を買ってくると言って部屋を出た。いい気持ちのまま夜道を歩いた。こんなに楽しい気分は久しぶりだ。僕は電柱を蹴った。昔聞いたポップソングを歌った。六本入りのビール箱から一本取り出して、帰りながら飲んだ。森野はいなくなっていた。なんだか、そんな気はしていたんだ。小銭入れから五百円無くなっていて、ちぎられたメモ帳に「出世払い」と書いてあった。僕はその夜、あとビールを二本飲んで、残っていたたばこを五本吸いきって、床に入った。僕は森野の電話番号も知らない。

 それから一週間が経過した。森野からの連絡はない。彼は無事、渋谷の家に転がり込んだのだろう。十月の夜は美しい。窓からは大きな満月が見える。僕は小説を書き終えずにいる。

 誰でもいいから喋りたかった。誰かに向けて何かを言いたかった。小説で書かれた物がすべて嘘になるのならありたけの真実を誰かに向けて喋りたい。そういうとき、自分が二人いれば良いのになと僕は思う。

 僕が二人いたなら、僕は彼になんの煩慮(はんりょ)もせずに自分の悩みを相談できると思う。彼はきっと真面目に僕の話を聞いてくれるだろう。肯いたり、促したり、励ましたりしながら。彼は頭の中で僕を九つのパターンに分類し、風邪薬を処方するみたいに、アドバイスを言う。

 やっぱり僕は僕なんかには相談したくない。僕はそいつが嫌いだ。個人的な悩みを普遍的な悩みに置き換えて、……だから僕は他人に悩みを打ち明けられないんだ。自分の苦悩が口に出された瞬間、ありふれた悩みに収斂(しゅうれん)されることを拒んでいるから。

 でも、極個人的な悩みなんてこの世の中にはあるんだろうか。これだけの本、人が溢れかえった世界に僕だけの悩みなんてあろうはずもない。もしあるのなら、僕はそれを書くだけで芥川賞でも谷潤賞でもなんでも獲れちゃうだろう。そして「自分だけの悩みを見つけよう」とする転倒、それ自体が僕に警告を発する。僕は典型的作家志望の轍を踏みぬいていた。


 電話が鳴った。僕は慌ててそれを取る。潮(うしお)かと男が言った。

「彩川(さいかわ)?」

「ああ、良かった。番号は変っていないみたいだな。イエスかノーで答えてくれ。今から立川に来れるか? 編集者と飲んでるんだ。お前、『異邦人』で短編書いてたろ。それ、なかなか良いらしくて、話を聞きたいそうなんだ」

「ちょっとまってくれよ。今から? 立川? 銀行だって閉まってるぜ」

「イエスオアノーだ。三秒以内に返事してくれ」

 彩川の強引さは大学時代から変っていない。僕は時計を見る間もなく行くと答えた。すると彩川はルミネの前に二十分後と言って電話を切った。僕は財布に二千円だけ残っていることを確認する。もし電車賃も無かったらコンビニ強盗だって考えたくらいだ。編集者? 僕の短編に興味を持った? 僕はカーテンレールにぶら下がっていたネクタイを締める。就活のときに巻いて以来のネクタイだ。トレンチコートをひっつかみ、Suicaの入ったパスケースと財布だけ持って家を飛び出した。


 ルミネの前で待つこと二分、その編集者と彩川がやって来た。どちらも顔が赤い。一軒目、いや二軒目の移動途中といったところだろう。

 彩川は早稲田のラグビー部に入っていた、体格は作家になった今でも相変わらずだ。ただ一つ違う点と言えば、トム・フォードの眼鏡をかけていることくらいだった。編集者はトレンチコートを着た普通の壮年で、真っ赤なタイをしている。名刺にはちゃんと彩川が属する出版社の名前が書かれていて、ただの明朝フォントが金刺繍のように輝いて見える。僕は自分の名刺を持って来ていないことを強く後悔した。彩川が「名刺くらい作っておけよ」と呆れた。就活のとき作りはしたんだ。しかし、一年前に灰皿で焼いてしまった。

 ルミネからそう遠くない韓国料理屋に入った。主に彩川と編集者――佐藤さんが喋っていて、僕は上手く会話に混じれなかった。彩川が話題を振ってくれるけど、今何してるの? という簡単な質問にさえ、僕は返事に窮する始末なんだ。これは口下手だから言えないわけじゃない。僕は彩川という人間が、恐ろしい。ただの同級生であればなんてことはない。ただ、この彩川に限っては、話は別だ。

「鳴河さんはどこで執筆してらっしゃるんですか」

 佐藤さんが聞いた。僕はカルチャー・スクールの話をした。老人ばかりいる小説講座、またの名を遺書講座。僕はそこでひいひい言いながら小説を書いている。どうしてそんなところへと親身な様子で聞いた。

「周りに見せる人がいないんです。だから一番安かったカルチャー・スクールへ入りました」

「同人仲間とは?」

「彩川くん以外は連絡が取れません。『異邦人』はまだ続いているでしょうけど、もう僕とは無関係です」

 佐藤さんの持っている冊子はずいぶん古いものだった。おそらく、彩川が見せたときたまたま僕のに目が止まったんだろう。珍しいこともあるものだ。その冊子に載っている小説がなんだったのか、今となっては思い出せもしない。

「鳴河さんは今後も執筆活動を続ける気ですか?」

 僕は小説を書き続けるんだろうか。――書き続ける。それはまるで、明日も明後日も飯を食うってくらい、確実なことだった。でも、なぜだろう。どうして僕は嘘ばかり書き続けるんだろう。どうして僕は本当を喋ることをしないんだろう。

「しかし、カルチャー・スクールでは、こう言ってはなんですけど、きっと上達はしないと思いますよ。もし鳴河さんさえよければ、知り合いの講師を紹介します。信用できる人です」

 僕は急に佐藤さんの善意が恐ろしくなった。二人して僕のことをハメようとしているんじゃないか。受講料に高額を取られるとか、あるいは僕が頷いた途端に笑い出すとか……。しかし、どうして親切にするのか尋ねるほど愚鈍じゃない。同じだ。大きな波がやって来て、僕は浜辺に立つ。間もなくそれはここへ到達する。僕はそれに乗ろうとするのか、それとも巻き込まれてもみくちゃにされることを覚悟するかの二択しか無い。

 彩川が忌々しそうに僕を睨(にら)む。僕は急に怖気(おぞけ)が出てきて、それからはもう簡単だった。結構ですと首を振るだけだ。佐藤さんが不審そうになぜですかと言った。

「僕はまだカルチャー・スクールでやれることを探してみます。そこにいたら、良い遺書の書き方が分かるかもしれません」

「あなたは遺書ではなく遺作を書くべきです」

 佐藤さんは真剣そのものだった。彼には酔いを一瞬で冷却する機能が付いているのかもしれない。

 立川駅で別れるとき、彩川が今なん円持ってると言った。韓国料理屋の勘定はすべて彩川持ちだった。僕はてっきり、自分の分も彼が持ってくれたのだと思ったが、それは勘違いだったらしい。彼は僕の財布をあらためて舌打ちすると二千円抜き取って「おれ、芥川候補に推されるらしいぜ」と言った。

「そうなんだ。おめでとう」

「だから、頼むぜ」

 僕は曖昧に笑いながら言った。

「僕にも推せってこと?」

「ばか、身の程を知れよ」

 吐き捨てて、彩川は佐藤さんの元へ戻っていった。

 僕のスイカには八円しか残っていなかった。財布には百四十二円あるだけだ。ポケットをどうひっくり返しても百四十二円。これはかなりどうしようもない金額だった。間もなく最終電車が来る。僕は一番安い切符を買って構内に入り、座席に座ると球磨川マジックとつぶやいて目を閉じた。

 ――あなたは遺書ではなく遺作を書くべきです

 僕はただその一言を貰えただけで満足だった。僕の小説を良いと思ってくれる人が一人いたんだ。それで上出来だ。つまり、僕の作家人生の話。真新しい切符を四つ折りにしてポケットに突っ込み酔っ払いの一群の中で静かにほくそ笑んだ。

 窓を街の灯が流れていく。それを当てもなく眺める。灯が無くなると窓に僕の姿が映る。二十六歳で、目に光がなく、髭が伸び、歯の黄色い僕。僕は僕に向かって「よくやったよ」と言った。

「君もよくやったよ」「でも結局一つだって本当のことは言えなかった」「いや、違うぞ。あの人は君んの中の『本当』をちゃんと見てくれたはずだ」「嘘しか書けない小説に、なんで『本当』なんて見れるんだろうね」「でも、君は小説に『本当』があると思うからそれを諦めない」「上手い反論だ。僕のこれはどのパターンに分類されるのかな」

 僕は財布に入れたスタンプカードを取り出す。その時、佐藤さんの名刺がこぼれた。僕は慌ててそれを拾おうとして、手を止める。いつまでこれを引き摺っているんだ? 僕はスタンプカードと名刺と切符をまとめて四つに引き裂いて、くしゃくしゃにして、床に落として踏みつけた。その時、球磨川と車掌が言った。

 降りる人は僕だけだった。自動改札が沈黙する。

球磨川駅は置いてけぼりにされた犬の目で、電車のテールランプを見守っていた。

 僕は改札と反対方面に歩き出す。思ったより長い道だった。緑色の鉄条網があったけど、腰ほどの高さしかない。僕はそれを一足で乗り越えた。

 ずーっと昔に忘れてしまった腐葉土の感触が、スニーカー越しに伝わった。子供の頃より大きく沈む気がする。林の中は蒸発した水分の、独特の臭いで満ちていて、それは汗かきのサラリーマンのスーツと似ている。林にはしっかりと獣道ができていて、ここを森野が通ったんだ。羊歯(シダ)の歯を足でけちらしながら進む。大きな焚き火が見えてくる。

「待っていたわ」

 彼女が言った。


 巨大な焚き火だった。納屋にガソリンをかけて燃やしたような、大きな火。火の周りをたくさんの人が取り囲んでいる。綺麗な円を描いて、思い思いの体勢で座っている。膝立ちの者もあれば、正座している者、体育座り、片膝立ち、胡座(あぐら)……様々な座り方の博覧会のようだ。獣道の終には「鳴河の相談室」という立て札が埋められている。僕を導く女の子の指差す先には、太い幹をたった今チェーンソーで切ったような即席の椅子がどんと置かれていて、巨大な炎のせいで影が左右に揺らめいている。僕はそこに座った。そして集結した人々を見晴るかす。

 合計で百は数えるだろう。もしかしたら二百までいくかもしれない。恐ろしい数だった。尚恐ろしいことに、彼らは僕のスタンプカードに刻銘(こくめい)された悩みの種たちだった。僕は誰を指さされても、彼がその時なにを思いなにを悩んでいたのか思い出すことができた。彼らの悩みを九つなんかに分けずとも、その機微(きび)もちゃんと覚えていた。僕は、誇らしかった。

 少女が、さあ話してと言った。

「なにを?」

「あなたの悩みを。私たち、そのために集まったのよ」

 全員が別々のやり方で肯(うべな)うような態度を見せた。炎の爆ぜる音はまったく聞こえなかった。風の音さえしない。人々は微動だにせず僕の次の言葉を待っている。星の光る音すら聞こえそうな夜。僕の言葉を、皆が待っている。

「僕の悩み……」

「そう、あなただけの悩み」

「僕だけの」

 急き立てる様子はない。しかし、それが尚更僕を焦らせる。とにかく、観衆をこれ以上待たせてはおけない。僕は僕の人生で起こった悩みを語り始めた。子供の頃から両親に離婚の相談をされ続けて辛かったこと。初恋の女の子に浮気の相談をされて悔しかったこと。皆が僕に相談をし始めて苦しかったこと。その相談を口外してはいけないと言われて負担になったこと。別の人から漏れた秘密の話が、僕の口から漏れたことにされて遣る瀬無かったこと。友達の親から不倫の相談をされて身の丈に余ったこと。就活に失敗して行き場がなかったこと。彩川に散々馬鹿にされて引きこもったこと。カルチャー・スクールで老人と一緒に遺書のような小説を書いたこと。誰にも自分の小説が理解されなくて死にたくなったこと。森野が出ていって少し寂しく思ったこと。萎縮したせいでやっと巡ったチャンスまでみすみす手放したこと……。退屈だ。どうしてこんなに退屈なんだ。僕はありたけの悩みを百数十人の人たちに向けて発信し続けた。皆真面目に聞いている。真面目に……。けれど、それがなんだって言うんだ。それが少しでも慰みになるか。僕は本当に大切なことを、このときでも喋ろうとはしなかった。そんなこと考えもしなかった。どうしてだろう。思いつくことを言い終えて、女の子がそれだけ? と僕に言った。

「これだけなのか、僕の悩みは」

「スッキリした?」

 彼女の顔は、炎の煌きのせいか、刻々と変化しているように見えた。それは初恋の女の子のようでもあり、カルチャー・スクールの女の子のようでもあり、……僕が面識を持った全ての女の子と似ていたが、でも、誰とも違うような気がした。

 首を振った。僕は「悲しかった」「辛かった」「苦しかった」と連呼した。どうしてすべて過去形なんだろう。思えば、僕は一度だって誰かに助言したことなんてなかった。怖かったんだ、相手の求める回答を答えられなくて、叱責されることが。

 僕は大きく手を振る。

「今までのは悩みじゃない! 全部、後悔なんだ!」

 中央で燃えていた焚き火が音もなく消えた。燃え尽きる納屋を、早送りで見たようだ。後には骨のように白くなった太い木が、辛うじて原型を留めるだけだった。

「それで?」

「僕は」

 しんと静まった。周囲に人のいる気配がない。紺色の空からしなだれ落ちる星の光だけが広場を薄ぼんやりと照らす。風が吹いて、骨が崩れた。僕は小さく息を飲んだ。僕が考えている間に、骨さえも崩れ落ちてしまった。彼女も闇の中に消えた。もはやそこには、誰もいない。

「僕は、行くべきなんだろうか」


 翌朝、僕は福茶市にある総合病院へ向かった。昨日のマッコリが二日酔いとして尾を引いていて、頭の中で小人が銅鑼(どら)を叩きまくっているみたいだった。立川の駅でそれらしい花を見繕ってもらって、こうして花束なんかを持っていると本格的に自分が「お見舞いへ行く」ことを実感し始めて、足が震えた。余計なことと知りながらも、『異邦人』の冊子を鞄に入れてきた。こんなものでもいざというときナイフの刃を防いでくれるかもしれない、なんて馬鹿げた冗談だ。

 総合病院には吹き抜けのエントランスがあり、受付で萩原(はいばら)さんの病室はどこかと尋ねた。まだ面会時間ではないと言われたので、花を看護婦さんに預かってもらって、待合室でエウリピデスを読みながら二時間待った。午後一時を回って、僕はもう一度受付で花をもらった。花瓶に挿しておいてくれたおかげで、今も活き活きとしている。

 エレベーターで五階にあがって、二個目が彼女の病室だった。僕は無性に煙草を吸いたい気持ちに襲われたが、家に置いてきた。もし持って来ていたら、手近な喫煙所へ入っていたと思う。持ってこなくて正解だった。

 U字型のノブを横に引くと、お母さんと言いながら萩原が振り向いた。僕は硬く花束の束ねた部分を握った。彼女はベッドで半身を起こし、未だ信じられないといった顔振で僕のことをいつまでも凝視していた。僕は微笑んでみせたけど、その笑みの行き場がわからなくて、結局、貼りつけたような笑顔のまま、ベッドに近寄った。病室は体臭が長い間停滞したときにおこる、もったりとした空気で満ちていた。薬を常飲する人間が吐く、乾燥した唾液の臭い。僕はいろいろなことを考えないようにしようと務めたが、萩原の容姿とか、妙に様になった病院服とか、ベッドサイドテーブルに積まれた場違いなギリシャ悲劇とか、そういうものが否応なく僕の頭を混乱させ、平静でいるなんてとても無理だ。彼女を正視することだってできない。僕は花束だけ渡して、なにも言わずに帰ってしまいたくなったくらいだけど、そんなことはできないししたくない。僕はここから離れることが一秒だって惜しいはずなんだ。

「鳴河くん、来るなら連絡してよ」

 彼女は布団を引き上げて唇を隠した。彼女のその動作は、……素晴らしく可愛かったんだ。もうどうにかなっちまいそうなくらい、可愛かった。重篤(じゅうとく)な病気と聞かされていたけれど、彼女の姿は相変わらず綺麗なままで、それで、目とか、唇とか、頬とか、全部とっても綺麗だったんだよ。本当に。

 彼女はくすくす笑っていたけれど、だんだんにその笑みは空白に吸い込まれて、後には何も残らなかった。微かな花の匂いがするだけだった。僕は、いつまでも花束を握っている自分が馬鹿みたいで、なにもいれられてなかった花瓶を胸に抱えると、洗面台へ歩み寄る。なにか作業があると、僕が喋らないのも不自然ではなくなるから、花を持って来て良かったなと思う。しかし、洗面台のカーテンをどけようとしたとき、背後で萩原が駄目と鋭く言った。僕は慌てて手を戻す。なにも見えていなかった。良かった。僕はトイレでいれてくるよと言った。

「うん」

 彼女は申しわけなさそうに頷いた。僕はポケットをまさぐって、間違えて持って来たライターを手で弄る。男子トイレの手洗い場で水を汲んで、ついでに顔も洗った。僕がひどい顔をしているのは、二日酔いのせいだけではないだろう。鏡に向かって「本当に来るべきだったのか」と訊いた。しかし、誰も答えてはくれなかった。

「べき」という考え方、それ自体がおかしいんだ。もし世の中が「べき」で満ちていたのなら、きっと世界はもっと単純になっただろう。でも、僕達には敷かれた「べき」のレールはない。茫洋(ぼうよう)とした地平を自分の足で、ぐねぐね曲がりながら、ときに円を描きながら、なんとか歩いていかなきゃ、いけないんだよ。どうしようもないことだけど悩んで、苦しんで、もう一歩も歩けないと思うまで、せいぜい足掻かなきゃならないんだよ。

 花を見て、萩原は小さく歓声を上げた。そして、いつしか僕が恋をした優しい瞳で、ありがとねと言った。首を振るのが精一杯だった。僕は、堪らなくなった。

「君の話を聞きたい」

 彼女には「本当」を引き出す能力が備わっていて、僕は彼女を前にするとあらゆる鎧が音を立てて地面に零れて、無防備な自分をどうしても見なきゃいけなくて、それはとてもつらいことなんだけど、きっと僕が望んでいることなんだ。

「わたしの話?」

「僕は、記憶力がいいんだ。それがちょっとした誇りなんだ。だから、君の話を聞きたい」

「どうしてそんなに聞きたいの?」

 彼女がなにを考えているのか、僕には察することができない。それは丁度、マリア像やお釈迦様がなにを考えているのか分からないのと似ている。だから、僕は精一杯の優しさと、真摯さと、それに圧し潰されるようにして沈黙する思いやりを込めて、喋るほかない。

「僕は、萩原を知りたい」

 彼女は花瓶に視線を預けながら、微笑を深める。

「普通よ。普通の人だよ、私は」

「特別なんだ。僕にとって」

「窓を、あけてくれる?」

 僕は彼女に言われたとおり窓を開けた。遠くまで街を見下ろすことができた。駅の近くに東横インの大きなビルが建っていて、青い看板を光らせる。青梅線の電車が模型のように動く。西友に人が飲み込まれる。

「潮くん、エウリピデスにはね、機械仕掛けの神様っていうのが出てくるの。知ってる?」

 僕は頷いた。

「私は、神様なんていないと思うんだけど、でも、機械仕掛けの神様は、いてもいいんじゃないかなって思うの。――ううん、きっといると思う」

「その人は、その機械仕掛けの神様は、どうすれば救われるんだろう」

 萩原もまた、開け放たれた窓を見ていた。僕はふと、ここから時計を落としたなら、時計はいくつの部品に分解され、はじけ飛んでしまうのだろうと思った。

「そう思ってくれる人がいれば、救われるんじゃないかな」

 秒針は音を立てながら回転する。時間はたしかに流れていく。椅子に腰掛けて、振り向かなきゃ、顔を上げなきゃと思いながらも、決してそれをすることができない。ただその時、僕は強く思ったんだよ。小説を書こう。面会終了の時間が来て、病院から出されたら、すぐに佐藤さんへ電話をかけて、小説を書かせてくださいとお願いしよう。

 僕は君の話を書きたい。



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『鳴河相談室』 著・修平 / 絵・市川正晶

担当編集:Δt

編集・日本大学芸術学部文芸学科所属 出版サークルKMIT

※この作品は読み切りです。

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