#02 「らくえん」を望むわたしたち(ゲスト:岩倉文也)
5月12日(水)より上演予定のかまどキッチン「海2」では、上演作品をより深めるため、それぞれ異なった専門性を持つゲストをお招きして「海2のミ」という関連企画を行います。プレビュートークと題した本企画では、かまどキッチンの主宰2人がゲストの方に、題材や、本作のテーマ「分断につながる加害と消費」についてインタビューを行います。
#02のゲストは詩人の岩倉文也さんです。本作の題材である美少女ゲームなどを中心に話をお伺いしていきます。
このトークで話す人は?
岩倉文也:今回のゲスト。詩人。
児玉健吾:かまどキッチン主宰。本作では脚本、演出家を担当。
佃直哉:かまどキッチン共同主宰。本作ではプロデュース、ドラマトゥルクを担当 。
児玉:かまどキッチン公演#02「海2」の関連企画「海2のミ」と題しまして、様々なゲストをお呼びしてお話を聞かせていただいております。第二回のゲストは岩倉文也さんです。
岩倉:岩倉文也と申します。詩人として、いろいろ文章を書かせてもらっています。
児玉:今回の公演「海2」の題材がゲームやインターネットに基づいているということで、題材との共通点が多い岩倉さんをお呼びしました。本日はよろしくお願いいたします。
1.詩作のルーツは美少女ゲーム!?
児玉:岩倉さんのルーツにはサブカルチャー、特にその中でも美少女ゲームがあるのかなと思っています。岩倉さんにとっての詩作とゲームの関係は、僕たちにとっての演劇とゲームの関係に近いのかなと思っていて。そこをまずは掘り下げていければと思います。
岩倉:僕が美少女ゲームにハマって以来ずっとプレイしているのは、すごい抽象的なんですけども、一番には詩を感じるからですね。詩が持っている、いわゆる映画の脚本術に回収されないような感動が美少女ゲームにもあるなと思っていて。映画だとかなり明確に決まっているわけですよね。最初に動機付けがあり、苦難に見舞われて、それを葛藤して解消して、
佃:Save the cat[1]みたいな。
岩倉:そうですね。美少女ゲームでも特に王道のものはだいたいフォーマットが決まってるわけですけど、その中でも特に異様な作品をプレイしたときに得られる感動みたいなものに僕はすごく詩を感じたんですよ。それが美少女ゲームにハマり込んでいった根本的なきっかけとしてあります。
大勢の人にウケるような作品は、僕自身はあまりウケなくて。他の人が目をつけないような、でもそれでいながらシナリオや脚本術を飛び越えてくるような感動を与えてくれる作品がすごく好きで、美少女ゲームはそうしたジャンルだっていうのが、美少女ゲームに入れ込んだ理由としてはありますね。
児玉:僕たちが普段話題に上げるものも、少しおかしな作品が多くて。演劇も美少女ゲームも、定まったシステムや様式美というものがありますよね。でもおかしな作品っていうのは、そういった制約や構築からの脱出を試みていることが多い気がします。
美少女ゲームは、そうしたオルタナティブな表現の場として豊かに発展してきたという文脈があって、岩倉さんはそこに惹かれているところが大きいんでしょうね。
脚注:
[1]ハリウッドでメジャーとされる脚本術。例えば、映画「パルプ・フィクション」の冒頭は
save the catの法則を利用していると言われている。
1-1.『僕は天使じゃないよ』『ノラと皇女と野良猫ハート』
岩倉:美少女ゲームと演劇の類縁性でいうと、少し前の作品なんですけど「僕は天使じゃないよ[2]」っていう大正時代を扱った、
児玉:うつろあくた[3]さんのゲームですね。
岩倉:あれはもう完全にト書き[4]みたいな、
佃:そうですね、あれはかなり明確に戯曲ですね。
岩倉:その「僕は天使じゃない」に影響を受けた「ノラと皇女と野良猫ハート[5]」っていう作品があって。シナリオライターのはと[6]さんは小劇場が好きですよね。「ノラと皇女と野良猫ハート」は演劇の会話のテンポを美少女ゲームで再現し、活かそうと試みていて、ほとんど地の文がなくて会話文だけで、とてもリズミカルに進んでいく作りをしています。
佃:はとさんは、小劇場演劇から明らかに大きな影響を受けているなと感じます。
児玉:僕たちと同じ文脈の演劇作家の名前を挙げられることも多いですよね。
佃:テキストのテンポでいうと、児玉のテキストは基本的にはとさんの「ネコのお考え[7]」のようなノリがずっと続く感じですね。
岩倉:めちゃくちゃ好きなんですよ、ネコのお考え。
児玉:美少女ゲームの領域でアグレッシブに活動されている方は、ゲームの持つシステムやフォーマットに対して懐疑的な視点を持っている人たちが多いと思います。これは演劇で僕たちがやろうとしていることとも近いのかもしれないですね。
[2]ゲームブランド「13cm」から発売された美少女ゲーム。全編が戯曲のような形式で
描かれているのが大きな特徴。
[3]シナリオライター。代表作として『好き好き大好き』『Princess Bride!』など。
近年の作品に『きみはね 彼女と彼女の恋する一か月』などがある。
[4]脚本に記載される、状況描写や演出の指定を行った文章のこと。セリフとは区別して扱われる。
[5]ゲームブランド「HARUKAZE」から発売された美少女ゲーム。
2017年にはTVアニメ化され、同年には続編『ノラと皇女と野良猫ハート2』が発売された。
基本的にコミカルでテンポの良いギャグが飛び交う楽しいゲーム。
[6]ゲームブランド「HARUKAZE」で作品を発表しているシナリオライター・脚本家。
主な作品に『らぶおぶ恋愛皇帝 of LOVE!』『マルコと銀河竜』など。
特に小劇場的な要素が多く含まれているのは『らぶおぶ〜』『ノラとと2』(ノブチナルート)でしょうか。
[7]「ノラと皇女と野良猫ハート」の中で登場する短編コント。
1-2.『ONE〜輝く季節へ〜』『Forest』『未来にキスを』
児玉:岩倉さんが詩を感じた美少女ゲームの作品は他にもありますか。
岩倉:最も直接的に詩を感じたのは、Tactics[8]というブランドの「ONE 〜輝く季節へ〜[9]」っていう麻枝准[10]の作品です。永遠の世界で、あれはもうそのまま詩だなと思いました。あれほど詩の世界を直接的に描けたのは無いっていう、本当にびっくりしましたね。
ゲームシステムとしては単純で、どのヒロインも同じ構造をしているので単調といえば単調なんですが、とにかくあの永遠の世界が凄すぎて、他のことは全てどうでもいいと思うぐらいには好きです。
児玉:テキストだけでなく、作品世界そのものに詩を感じたということですね。
岩倉:他に詩を感じた作品でいえば、「Forest[11]」もかなり好きです。あの作品も演劇と近いとは思いますけど。
佃:「Forest」に関しては演劇というよりは、戯曲の文学的な側面がフィーチャーされているのかなという印象です。
岩倉:イギリスの文学や戯曲はあまり知らないんですけど、「Forest」はセリフも七五調で歌うような調子になっていたり、多角的なところから僕のツボを押してくるような作品で、僕の中で一番好きな美少女ゲームなんですけど。
元長柾木[12]さんの「未来にキスを[13]」も好きで。個別ルートのラストあたりになると一気に面白くなるんですよね。
佃:僕も「未来にキスを」にはすごく影響を受けました。演劇をはじめたのも元長さんの発言がきっかけです。あの作品をプレイしてからゲームにおける楽園性を探求することが人生の楽しみになってしまった気がします。
岩倉:今回の「海2」で登場する作中作も楽園のようなモチーフですし。
佃:そうですね。
児玉:そういった楽園的モチーフに異議を申し立てるような作品ではありますが。美少女ゲームには、楽園的なものを求めるものが作品として多いように感じますね。
佃:選択肢を選ぶという行為が世界のありようを選ぶってことと基本的にイコールで、美少女ゲームやノベルゲーム自体がプレイヤーと世界の対立構造になりやすいのかもしれません。
恋愛ゲームでも、一見何も残らないような恋愛のドラマでも相手の意思を所有するということが起こるわけでそれも結構なことだと思いますが。それに対して例えばKey[14]のゲームであれば、作中世界のシナリオが少女に犠牲を強いるようなものであったり世界vs私という構造になりやすいからこそ、圧倒的なものを求めるんじゃないか、と思います。
児玉:選択肢という要素は、美少女ゲームのシステムを語る上で外せないですね。その辺りの話も聞きたいです。
[8]株式会社ネクストンが運営する美少女ゲームのブランド。美少女ゲームにおいて
「泣きゲー」の文脈を作り上げたとされる。
[9]ゲームブランド「tactics」から発売された美少女ゲーム。
開発スタッフのほとんどが後にゲームブランド「Key」の立ち上げメンバーとなる。
[10]株式会社「ビジュアルアーツ」に所属するシナリオライター・脚本家。ゲームにおける
代表作に、京都アニメーションによってアニメ化された『AIR』『CLANNAD』など。
アニメにおける代表作に『Angel Beats!』など。
[11]ゲームブランド「ライアーソフト」より発売された美少女ゲーム。古典文学(特にイギリス文学)からの
引用を多く盛り込まれている。
[12]シナリオライター・小説家。トーク参加者の佃がもっとも影響を受けた作家の一人。
[13]ゲームブランド「otherwise」より発売された美少女ゲーム。シナリオライターの
元長氏によると「普通の美少女ゲーム」。
[14]株式会社ビジュアルアーツの美少女ゲームブランド。会社の代表取締役は馬場隆博。
なおビジュアルアーツは上記の「otherwise」「13cm」含め多数のブランドを傘下に置いていた。
1-3.『君と彼女と彼女の恋。』
岩倉:選択肢という意味では、「君と彼女と彼女の恋。[15]」が選択の重みを最も先鋭的に描いていた作品だと思うんですけど、あれもやっぱりすごい作品で……公式からCG全開放パッチみたいなものが出されているじゃないですか。そのパッチを開放するとストーリーは今後クリアできなくなるけど、代わりにエッチシーンを全部開放しますよみたいな。でもそれは要するにゲームシステムを楽しんでくれよってことで、エロだけ見たいならタダであげるよみたいな、制作側の意図があるのかなと思います。
ただ僕の場合、システムはめちゃくちゃ面白いなと思ったんですけど、美少女キャラクターに現実の女性と同じような重みを持たせて、プレイヤーに責任を強いる構造には少し疑問を感じているんですよね。
僕にとっての美少女キャラクターはあくまで平面でしかないし、本当に二次元の存在でしかないんです。美少女キャラクターは存在としてはごく薄っぺらくて、しかも使い捨てのようにすぐ消費されてしまうにもかかわらず、作品そのものに対してはものすごく感動してしまい、その反動が心に傷のようにずっと残ってしまうっていう。その不思議さに僕は捕らわれ続けています。
佃:僕が思ってることをそのままより良い言葉で言語化してくれている人がいると今感動しています。
[15]株式会社ニトロプラスから発売された美少女ゲーム。
トーク内の岩倉氏の言及にもあるように、メタフィクションに踏み込んだ挑戦的な構造を取っている。
2.「貧しい演劇」と美少女ゲーム
佃:演劇については、岩倉さんはどのように捉えていますか。
岩倉:演劇っていうと、アニメでいうと「少女革命ウテナ[16]」や「少女☆歌劇 レヴュー・スタァライト[17]」で描かれていたものが思い浮かびますね。僕は寺山修司がすごく好きだったので、演劇っていうとドロドロした市街演劇やアングラ演劇っていう、観客と演者の壁を壊していくようなイメージが強いです。
現代演劇に関してはあまりよくわからないんですけど、今回の企画を見せてもらった時に印象深かったのは劇中作ですね。劇中劇自体はハムレットの頃からあるわけですが、「海2」はその古典的な手法を、美少女ゲーム的な要素を加えながら展開していくのが純粋に面白いなと感じました。劇中劇や作中作という手法はクラシックでありつつも、それをアップデートして新しい挑戦としているのは、僕としてはすごく興味深いです。
児玉:ありがとうございます。アングラ演劇は現代演劇のルーツのひとつではあって。構造を俯瞰、疑問視して解体するみたいな要素は特に近いと思います。
佃:特にアングラ演劇は、劇場や特殊な場所に連れて行った後に観念とか観客との壁とか下手したら舞台自体を破壊して「さあ壊したぞ出て行け」みたいな構造がままありますね。
少し話は変わるんですが、僕は以前から演劇と美少女ゲームはいずれも貧しさに美学があるなと感じているんです。
ポーランド出身の有名な演劇人にグロトフスキって方がいるんですけど、彼は「貧しい演劇[19]」あるいは「持たざる演劇」っていう考え方を提唱しているんです。
彼の作る演劇は、様々な要素を演劇から削ぎ落としていくという考え方で作られていて、演劇を構成する上での最小単位しか残らないんですよ。そのためには衣装や美術も削ぎ落とすし、余分な戯曲・ドラマさえも削ぎ落としていく。最終的に残るのは身体と観客だけで、それさえ存在していればドラマが生まれうるっていう考え方をグロトフスキーは持っていて。
僕は美少女ゲームも、圧倒的なところにプレイヤーを連れて行くには一種の貧しさが必要になってくるのかなと思っています。別にバトルの演出は派手じゃなくていいし、そもそも戦わなくていい。絵もデッサンが狂ってようが正直構わない。立ち絵も動かないなら動かないでいいと個人的には思っていますし。
重要なのはむしろ、グロトフスキー的な意味における「貧しい少女」という存在がプレイヤーのそばに実感としてあること。僕というプレイヤーがいてある種の選択を行った上で彼女と生活のようなものを送るとか、それを通じて生きるっていうものを確認することが僕にとっての美少女ゲームの最小かつ最大の要件なんですよ。グロトフスキーの考える「貧しい演劇」と、僕の考える美少女ゲームの最大最小要件の貧しさはほぼイコールだなと思うんです。
岩倉:最近の美少女ゲームは大作化の傾向がありますよね。フルプライスで、クリアに30時間もかかるぐらいのボリュームがあって、美少女キャラは数多く登場して、エッチシーンは必ず挟まれる。でも僕が好きなのは、90年代やゼロ年代初頭に流行っていた簡素な形式の方なんですよね。それで僕は全然満足するし、むしろそっちの方が芸術性としては明らかに高いと思っています。でも最近はそうなっていないっていう話なんですよね。
佃:そうですね。結局は市場側がユーザーが求める需要や直接的なニーズに合わせ過ぎていて、その結果大作しか売れなくなる、売れないものは直接的なもの以外中々作れなくなる現象が起こっていると思うんですよね。
児玉:キャラクターコンテンツとして強くしようと思うと、その幹を太くしないと派生のものって産み出せないですからね。昨今は硬派な表現よりも、いかにユーザーに直接訴えかける要素が多いか、ユーザーがゲーム内でより多くの選択をできる、より多くのものを獲得できるかっていうところが大きいのかなと思います。
佃:僕はドラマも存在しないような、ほぼ歩いてるだけのゲームが好きで。「ワンコとリリー[20]」が美少女ゲームの中では一番好きなんです。
岩倉:「ワンコとリリー」のシナリオライターって独特な方ですよね。
佃:トノイケダイスケ[21]さんですね。僕は演劇を辞めようと考えたとき、トノイケさんが所属しているCUFFS[22]に就職して彼を引っ張り出すことに残りの人生を使おうかと思ったぐらい、彼のことを考えて生きています。
児玉:演劇の様々な要素を削ぎ落としていったとき、最後に残るものは身体だったとするならば、岩倉さんは美少女ゲームの様々な要素を削ぎ落としたとき、最後に残るものは何だと考えられますか。
岩倉:身体っていうと、美少女ゲームにおいてもプレイヤーの身体は非常に重要となりますよね。やっぱり、肉体的に関わっていくっていう側面があるので。
僕にとっての少女は、究極的には概念なんですよね。テキストやイラストはもちろん存在するんですけど、その向こう側に何があるのかっていったらおそらく概念なんですよ。気高さや優しさとか、可愛さや美しさとか。究極的には、僕は向こう側のものを感じたいと思っていて、僕にとってはそれが詩なんですよね。最低要件っていうと、僕はすべてを詩に分解していってしまいます。
佃:ちょっと答えにくい質問をしてしまったかもしれないですね。ロジックでくくること自体が、詩とは少し相容れない部分もあると思うので。
[16]1997年に放映された幾原邦彦監督のTVアニメ作品。作中音楽にアングラ演劇の
音楽家であるJ・A・シーザーを起用し、演出も演劇を意識した形式のものを多く採用して
話題となった。
[17]2017年よりメディアミックス展開されている、スタァを目指す少女たちを描く作品。
2021年5月21日(金)より新作映画の公開が控えている。
[18]シェイクスピアが1600年頃に発表した悲劇。様々な翻案や演出を加えながら、
現在に至るまで世界中で上演され続けている。
[19]グロトフスキーが1965年に発表した論考「貧しい演劇に向けて」の中で提唱していた演劇理論。
総合芸術として様々な要素を付加しがちだった当時の演劇に対し、グロトフスキーは逆に様々な要素を
削ぎ落としていくという手法を取った。
[20]美少女ゲームブランド「CUFFS」よりコミックマーケット70で限定販売された美少女ゲーム。
後に一般販売用の通常盤が発売された。
[21]美少女ゲームブランド「CUFFS」所属のシナリオライター。代表作にF&Cより発売された『水月』
CUFFSより発売された『さくらむすび』『Garden』など。
トーク参加者の佃が一番好きなシナリオライター。
[22]2005年に設立された美少女ゲームブランド。姉妹ブランドに「CUBE」「Sphere」などがある。
『Garden』はヒロインとして紹介していた一部キャラクターのシナリオが消された形で発売され話題になった。
2013年に上記作品補償のため同開発スタッフによる新作『永遠』が発表されたが、未だに発売されていない。
3.悪ふざけが気づいたら詩になっていた
児玉:次の話題に行きましょう。現代ではインターネットを通じてゲームの情報や人々の感想を得たり、情報や感想を発信したりしていますよね。
特に岩倉さんは、自身の作品をツイッターで発信していることが非常に多いというか、そこがそもそもの根本であったりするとは思うんですけれども。作品発表の場をツイッターにしたのは何故なんでしょうか。
岩倉:僕は詩を始める前からツイッターをやっていたんですけど、最初は詩というよりは悪ふざけとか言葉遊びみたいな感じで、詩を書いてるつもりは全くなかったんですよ。でもツイッターでずっと変なことをつぶやいていたら、やがて周りがリツイートして「これは詩じゃないか」みたいなことを言い始めて。「そうか周りはそう思うのか、僕は思わないけど」と感じながらも、その後も意味不明なツイートを続けていたんですよね。それを続けていくうちに、気づくと詩の投稿をするようになっていました。
ツイッターに上げた最初の詩は、雑誌や新聞の投稿欄で入選したものをそのまま写真に撮ってアップロードしたものです。当初は日常ツイートを装いつつ、途中からそれを異化して異様なツイートにするっていうのが好きで、2~3年ほどはそれをやっていました。ツイッターという空間で岩倉文也を演じるみたいな、1人のある種のキャラクターを演じるみたいな感じですね。
日常を異化するっていうと言いすぎかもしれないですけど、基本的にツイッターって日常をつぶやくツールっていうのがベタとしてはあって、その意味を組み替えるっていうのが、日常的にできたら面白いなと感じていたので、それを何年か続けていました。しかし即物的な話になりますが、自分の著作を出して宣伝が必要になってくると、どうしても「作者です」みたいな報告が必要になりますよね。それもあって、最近は岩倉文也を演じること自体が厳しくなってしまいました。
佃:もともと岩倉文也というキャラクターだったものが、現実に仕事にまで結びついたが故に崩壊の危機を迎えているみたいな感じでしょうか。
岩倉:岩倉文也の名前って、もともとは岩倉玲音[23]の岩倉から取ってるだけなんですけどね。新聞の歌壇欄に投稿するときに、岩倉っていう名字で全国紙に載ったら面白いなと思ってツイッターもその名前で始めたんですけど、気づけばこの名前で定着してしまっていたので、ツイッターのアイコンも岩倉玲音のままにしています。
児玉:それ自体がとても面白い表現になっていますよね。なりきりに近いのかな?
佃:いまの岩倉さんの話で思い出したのは、以前に演劇でお世話になった先生のことです。その先生は「人間というものは振る舞いに規定されていく動物である」という話をしていて。例えば日常的ないただきますといった挨拶とか、冠婚葬祭の振る舞いによって、その人間の価値観や動き、行動、思考そのものまで決まってしまうみたいな考え方で。
岩倉玲音から名前を取った架空のアカウントで行っていた日常を異化するツイートが、いつのまにか外部から詩とみなされてしまい、ある程度経った頃からは自覚的に詩人として振る舞い、現在ではキャラクターと作家としての乖離に苦しんでいるみたいなのは劇的で面白かったです。
最初はツイッターのアカウントを作って、岩倉文也として自分の日常を異化して面白がっていたつもりが、気づけば現実世界の岩倉さんがそれに持っていかれていたということですよね。自分の振る舞いが、人格を変えてしまうことってあるのかなと思いました。
[23]TVアニメ『Serial experiments lain』の主人公。
作品性の影響か、ある傾向のtwitterアカウントのアイコンとして利用されている側面がある。
4.いまベタにツイッターやるのは本当にきつい
佃:岩倉さんはSNSとの距離の取り方をどのように意識されていますか。
岩倉:議論とか、いろんな意見を戦わせることに対しての一つの抵抗として、僕は詩を書いているっていうのがあります。
ツイッターで詩を書くと、詩にクソリプはほとんどつかないんですよ。ただ直接的に心にきたから反応して、みんないいねを押したりするだけなので。詩なので、それに対して意見とかは言えないんですよ。
敵や味方を一切作らず、ある種の共感性を強く喚起させるためには、僕にとっては詩が一番安全という言い方は変ですけど、適切な道だなと感じています。自分を守る盾として、詩を使っていたっていうのが僕の中ではあるんですよね。
佃:その考えは面白いですね。SNSっていうものが自分を箔されるものであると思うからこそ、僕はSNSを全然やれないんです。
児玉:そうなんですよね。演劇の話でいうと、作品外で団体や表現者としての立場を明確にすることによって、お客さんを呼ぶという集客方法がありますよね。それもあって演劇の人はツイッターやってること多いんですよ、僕もやってるし。一方でそこに難しさを感じてる人も多い。
岩倉:今の時期にベタにツイッターやるのは本当にきついと思います。さすがに気が狂うんじゃないですかね。
児玉:本当にそう思います。
岩倉:にゃるら[24]さんとかも結構定型的な表現をよく使うわけですけど、にゃるらさんは決まりフレーズみたいなものをいくつか作っておいてそれを定期的にツイートしつつ、その中に自分の意見を混ぜるみたいなことをやっていて。自分を武装するというか防御する、攻撃じゃない形で守るための様式を持ってないと、SNSでいま生きていくのはつらい印象があります。
児玉;生身ではなかなか立ち向かえない場所ではありますよね。
岩倉:本当に。即死ですね。
児玉:それは最近、本当に強く感じるところですね。身を守る必要があるっていうのは、非常にそれが危険な場所であるが故のことだと思いますけど、ツイッターを危険な場所にしてるのって誰かっていったら、結局は利用者なわけですよね。我々はある種のルールや型、振る舞いを用いて身を守っていますが、逆に攻撃に転じてしまう場合には一体どういうことが起こってるんでしょう。
岩倉:考えたことをそのままツイートしてしまうと、それが攻撃になるんですよ。ネットを見ながら「なんだこいつ」とか、「いやこんなダサいことやって、なんなんだろう」って普通は頭の中では思うわけですよ。それを思ったままツイートしたら、そりゃ攻撃になりますよ。
実はたぶん、みんなが頭の中で思っていることはそれほど変わらないわけで、みんな人にムカついたりするし。そこを抑制するかしないかってだけだと思います。
佃:踏み越えるラインがどんどん低くなってるんだろうなっていうのはありますね。最近は特にトレンドっていう形で一つの意見に対する反応の数はもちろん、叩いている人の数すら可視化される。多数の人間が叩いてるなら俺もいっちょ噛みしていいだろうというようなところで軽くポンと飛び越えてしまうような人っていうのがたくさんいる。だからインターネットが地獄になっていくんじゃないでしょうか。
児玉:ツイッターのシステム自体も、そのような現象を加速させるツールとして最適化されていってる印象がありますね。数字っていうものが、より強く生まれやすくなるようになっているというか。
[24]ライター・漫画原作者。企画・シナリオを担当したゲーム『NEEDY GIRL OVERDOSE』が
2021年6月5日に発売予定。
5.型無しのインターネット
岩倉:本当はSNSや2ちゃんねるにも型があるわけですよ。こういう口調だとかこういう定型文だとか。昔はそれを勉強しないと相手にしてもらえませんでした。本来SNSにもそういうのがあったわけですよ。でもそういうのがなくなっちゃって、混沌になってるということだと思うんですよ。僕は短歌を作っていたので、定型とか型を意識するのが好きっていう面もありますけど、型が喪失するとそりゃこうなるよねみたいなのが如実に溢れている印象ですね。
佃:型で面白いなって思ったのが、古のインターネットにあった2ちゃんねるの掲示板における型って、インターネットの伝統芸能みたいな話なんだなって思って。
岩倉:本当にそうですね。
児玉:18代目中村勘三郎の「形無し[25]」みたいな話ですね。面白いですね、そういうのもすでに歴史になっている。
佃:ただ、怖いなとは思いますね。歴史上、型を持っていた界隈が、それをなくした後って暗黒時代になりがちですから。
岩倉:美少女ゲームにしても、「美少女ゲームってこういうものだよ」っていう型が絶対あると思います。テキストがあって、背景があって、美少女の立ち絵があってみたいな。そういう型をまずは理解しなければそもそも何もできないじゃんって思うんですよね。これは古典主義というか、クラシカルな考えという感じもしますけど。でもやっぱり型を全然意識しなければできないと思います。
佃:演劇もそうですね。基本的には舞台と観客席があって、舞台上で行われていることを信じる観客っていう構図があって。お互いがお互いの型を信じてやっているからこそ成立するっていう不文律みたいなものがある。今のインターネットにそういった型があるとは正直思えません。
児玉:型が約束する信頼関係というものがあって、それによって規定されたコミュニケーションというのが行われているわけですね。
佃:ツイッターはいま、演劇の上演中に観客が石を投げることができる環境だと思うんです。連続ツイートが10ぐらいあっても最初の1ツイートしか見ないで下手したら最初の3行しか見ないで殴りかかることもできる。そのツイートがもしバズってしまったら、ツイートされた10の内容よりも、最初の3行を見ていっちょ噛みした1つのツイートが正義になってしまうみたいな環境になっていて、話し合いの場を守る最低限のルールが崩壊してるなと思ってしまいます。
岩倉:そういう状況においては、日本だと界隈の中に閉じこもるというか、型を理解している者同士で集まるしかないんですよ。そういう状況においては、日本だと界隈の中に閉じこもるというか、型を理解している者同士で集まるしかないんですよ。にゃるらさんがTwitter2[26]で実践してるのは、その型を分かってる人が集まっているシェルターみたいなもんで。本当はTwitter2みたいなものをコロニーみたいに作っていくしかないですよね。
佃:そうですね。僕らも同じような認識があることを一つ前提にしつつ、いま演劇を作っています。
[25]18代目の中村勘三郎が好んで使用していた造語。型がある人間は「型破り」ができるが、
型を持たない人間はそもそも型を破ることすらできないという意味。
[26]にゃるら氏がdiscord上で作成した、「だれも社会や政治の話をせず、毎日みんなでアニメを
観たりゲームをしたりして1日がおわるマジで楽しいSNS」。誰でも無料で参加することができる。
詳しくはにゃるらのツイートを参照のこと。
https://twitter.com/nyalra/status/1345383524749066243?s=20
6.終わりつづけるぼくらのための
児玉:様々な方面に渡ってお話いただき、ありがとうございました。
最後に岩倉さんの方から宣伝などあれば。
岩倉:星海社から小説集の「終わりつづけるぼくらのための」を今年の2月に出しました。
この本はもともと、美少女ゲームのバッドエンド集を小説化したらどうなるのかといった発想で作られています。僕はノベルゲームのエンディングリストを埋めていくのが昔から好きだったこともあり、いろんなバッドエンドを集めたら単純に面白いのではみたいなのがライトモチーフにあって作ったので、そういったところに興味がある人はよろしければ。美少女ゲームのバッドエンドって余韻はあるけど、物語は完結してないじゃんみたいなことを思う人や、いろんなエンディングが好きな人は割と楽しめるんじゃないかなというところがあるので、よろしくお願いします。
佃:ありがとうございました。
プレビュートークは以上になります。最後までお読みいただきありがとうございました。ゲストの岩倉さんが「海2」の作中作のバッドエンドとして書き下ろした短編小説「らくえん」はこちらからお読みいただけます。
関連する演劇公演「海2」の詳細はこちらから。
今後ともかまどキッチンを何卒よろしくお願いいたします。
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