[寄稿]らくえん(著:岩倉文也)
らくえん
岬から眺める海はいつも凪いでいた。遠くなめらかに霞む水平線まで、その調和を乱すものは何もない。──ここからの景色は、ぼくを不安にもするし、安心させもする。ただひたすらに美しく、完成された世界というものは、人間なしにも成立するからだ。美しいものは、ぼくがいなくてもうつくしい。その事実が、ぼくをどこか落ち着かない気持ちにさせていた。
それにしても──とぼくは、空に浮かぶ不定形の白雲を仰ぎながら考える。この睡蓮島に来てから、いったいどれほどの月日が経ったのだろう。まだ数日しか経っていないような気もするし、もう何年も時が過ぎてしまったような気もする。途絶えることのない潮騒が、吹いては止んでを繰り返すそよ風が、ぼくの中にある「時間」という観念を包み込み、その意味をすっかり作り変えてしまったみたいだった。
「おーい!」
波の音にまじって、ふと遠くからそんな声が聞こえてきた。
振り向くと、岬に咲き乱れる名も知れぬ草花の間を縫って、ひとりの少女がぱたぱたとこちらに走り寄ってくる。
そしてぜいぜい息を切らしながらぼくの前まで辿り着くと、
「もー、どこ行っちゃたのかと思ったよお」
それだけ絞り出すように言うと、膝に手をついて荒い呼吸を繰り返す。
ぼくはなんだかおかしくなって、つい吹き出してしまった。
「ひ、ひどいよぉ、はあ、はあ、人が、い、いっしょうけんめい、さが、したのに」
まだ息が整わないらしく、少女は途切れ途切れに言葉を洩らす。ショートカットの髪が、汗に濡れて頬に貼りついていた。よっぽど焦って探しまわっていたのだろう。そう思うとなんだか申し訳なくなってきた。
「ごめんごめん。なんだか今朝は早くに眼が覚めちゃって」
「ううん。いいよ」少女は微笑んだ。「こうして見つけられたんだし。それに、ひとりになりたいときだったあるよね」
確かに、少女の言う通りだった。なんだか最近、ぼくは少女と一緒にいるといたたまれない気分になるのだった。最初、島を訪れたとき、とぼくは、うすぼんやりと霧がかったようになっている当時の記憶を呼び起こした。
現実に絶望し、倦み、疲れ、半ば身を投げ捨てる覚悟で島を訪れたぼくに対し、少女は手を差し伸べてくれた。何の見返りもなしに、だ。──ただ、あなたが生きていてくれさえすればいい。そう言って、ぼくに献身の限りを尽くしてくれた。
と、ここまで考えると、ぼくはある違和感に襲われた。そう言えば、少女はひとりではなかったはずだ。あれ、どうしてこんな大事なこと、忘れていたんだろう。
ひと心地つき、今はぼくの隣に足を崩して座り、共に海を眺めている少女の顔に眼を遣った。その瞳は湖水のように澄み、まなざしは遠く沖の方へ据えられている。
「ん? どうしたの?」
視線に気づいた少女は、ぼくに笑いかける。その頬にさっと朱が差すのを、ぼくは見逃さなかった。ぼくは少女を愛している。少女もきっとぼくを。
でも、ぼくが愛したのは、そしてぼくを愛してくれたのは、果たしてこの少女だけだったろうか? 切れ切れに、ぼくの脳裏にはさまざまな少女たちの幻が浮かんでは消えてゆく。だが、どれも曖昧で、それが現実の記憶なのか、それとも夢で見た光景なのか、ぼくには区別がつかなかった。
ただ、ひとつ確かなのは。もうぼくの前には、この少女しか残されてはいないということだ。少女を愛する過程で、ぼくが何を失ってしまったのか、それは分からない。けれどぼくは、世界全部と釣り合うほどの何かを、この少女と引き換えに失くしてしまったんじゃないか。ふとそんな不安がぼくを貫いた。
「んっ」
ふいに、唇にやわらかいものが触れる。
「えへへ、ぼんやりしてるのが悪いんだよ」
少女は悪戯っぽく笑うと、地面に置いていたぼくの左手に、そっと右の手を重ねた。そしてぼくの耳元まで顔を近づけると
「なに、考えてたの?」
あたたかい吐息が耳をくすぐる。
「ね、教えて?」
少女の表情を窺うことはできない。しかしその言葉には、何か有無を言わせない強い響きがこもっていた。
一瞬の静寂。
ぼくは、口を開く。
「なんだか、怖いんだ。この幸せな毎日が。おかしいよね? うん。それは分かってる。でも、なんて言うのかなあ、ぼくは永遠に思えるものが、みんな怖いんだ。きみとこうやって海を眺めて、海はいつまでも凪いでいて、一度も嵐になったことなんてない。悪い記憶は何ひとつないんだ。心の底から、こんな毎日がずっと続くと信じられる。そのことが、ぼくにはどうしようもなく、怖い。恐ろしい。きみは、突然こんなこと言われて、きっと変に思うだろうね。ぼくも今朝、こんな恐怖に駆られて、あはは、家を飛び出したんだ。昔のこともぼんやりとしか思い出せないし、それにきみ以外の女の子が、この島にいたんじゃないかなんて、考えてしまったり。ねえ、もし良ければなんだけど、ぼくがここに来たときのこと、教えてくれない? ぼくがこの島に来てから、どのくらい経ったんだろう。ぼくは誰なんだろう。終わりが見えないことが、こんなにも怖いだなんて、知らなかった。ぼくはたぶん、元々、こんな人間じゃなかったんじゃないかな。人と付き合うときも、風景を見詰めるときも、何かを楽しむときも、いつも、まず真っ先にその終わりを想像して、今という時間の、限りない儚さを、感じていたんじゃないかな。そんな感覚を今日、ふと思い出したんだ。ここには何もかもがある。永遠さえも。でも、それって──」
隣で少女が立ち上がる気配がした。はっとして辺りを見回すと、いつしか夕暮れとなっていた。赤く震える太陽が、今まさに、水平線へと沈もうとしている。
「そっかあ……そうなんだ。また、このときが来ちゃったんだ」
少女は不可解なことを口にし、ぼくを見下ろした。少し困っているみたいな、そんな、さびしげな表情だった。
ほら、と言うように伸ばされた少女の手をつかんで立ち上がると、しばし沈黙が訪れた。沖へ向かって飛ぶ海鳥の鳴き声が、だんだんと遠ざかってゆく。その声が途切れたとき、少女は口を開いた。
「岬ってね、昔から神さまが依り着きやすい場所なんだって。だからかな、わたしたちがいま立っているこの岬に、神さまが降り立った、なんていう伝説が、睡蓮島にはあるんだよ。知らなかったでしょ? 今のあなたに話すのは、これがはじめてだもんね」
気が付くとぼくの周りに、ほの白く光る蛍のようなものが飛び交っていた。遅くまた速く舞い踊るそれらの光をぼんやりと眼で追っているうちに、先ほどまで胸を満たしていた疑念や恐怖が、ゆっくりとべつに何かに置き換わってゆく。それは安心。それは温もり。それは優しさ。それは快楽。
「神さまは岬に降り立つと、畏れ額ずく人々に、こう告げました。あなた方は許されています。あなた方はわたしの祝福を受けました。いつまでも幸せでいなさい。そうして島の人々は、いつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし。あはは、おかしいでしょ?」
少女の言葉をうまく理解することができない。それらはただ美しい音楽として、ぼくの耳に届いた。たのしい。うれしい。きもちいい。なんて世界は単純で、完璧なんだろう。ぼくは少女の顔をよく見ようと一歩前へ踏み出した。すると少女は後ずさる。ねえ、どうして? どうしてきみは、そんなに悲しそうな顔をしてるの? こんなにも素晴らしく、満ち足りた世界で。
「だからね、幸せじゃない人は、いなくなっちゃうんだ。あなたはわたしを選んでくれた。だから、選ばれなかった女の子は、消えちゃったんだよ、みんな。わたし、幸せなのかなあ。わたしはあなたが好きで、だからずうっと幸せなんだって、そう思ってた。あなたがこの島に疑問を感じても、神さまの欠片が治してくれるから、大丈夫だって。ほら、見て。きれいだよね、蛍みたいで」
少女はまた一歩、断崖を背にして後ずさる。
「わたし、分かんなくなっちゃった。ねえ、教えて。幸せって何なのかな。それは、神さまが与えてくれるものなのかな。幸せじゃない人は、ここで生きてちゃいけないのかな」
少女はいま、断崖の縁に立っていた。血で染め抜いたように赤い夕空が、少女の姿を神聖なものにしていた。
「ほら、こっちにおいで」ぼくは両手を広げる。「危ないよ、そんな所に立ってたら」
少女は動かない。少女は苦悩する者の眼で、じっとぼくを凝視していた。ぼくには少女が何に苦しんでいるのか分からなかった。ぼくらの存在を包み込むように、光の数は増してゆく。その光に触れると、ぼくは神さまの存在を感じるのだった。あれ? でもぼくは、どうして泣いてるんだろう。見ると少女の瞳からも、一筋の涙が流れおちていった。
「幸せになんて、ならなくても良かった」
時間がスローモーションに流れる。
「ありのままのあなたと、一緒にいたかった」
ぼくは駆け出した。
「わたし、神さまなんて嫌い」
刹那、少女の体がぐらりと傾く。
「さよなら、わたしの大好きな人」
ぼくは両手を精いっぱい前へ──
しかしその手が、少女に届くことは永遠になかった。
ぼくは海を抱き締めるような格好のまま膝から崩れ落ちた。
無数の光が、ぼくを覆い隠すように集まってくる。
白い、白い、光の中で。ぼくは泣きながら、少女のことを思い続けた。
※
目覚めると、ぼくは岬にいた。
昨日のことを思い出そうとしたが、うまくいかない。大方、寝ころんで星でも眺めているうちに寝入ってしまったのだろう。
立ち上がって伸びをし、体についた土を払うと、ぼくは海を見渡した。
船ひとつ浮かんでいない水面は、どこまでも穏やかに凪いでいる。
ぼくは空と海との交わる一点を見詰めながら、この世界に生きることの喜びを噛みしめた。時よ止まれ、この景色を眺めた者なら、ファウストでなくともそう口走ってしまうに違いない。たとえ魂が奪い去られるとしても。
「おーい!」
少女の声が聞こえる。その声はどうやら、徐々にこちらへと近づいてくるようだった。
目覚めてぼくがベッドにいなかったから、きっと驚いて探しまわっているのだろう。
「おーい!」ぼくも大声を上げてそれに答える。ほら、もうその姿が見えてきた。
美しい長髪をなびかせて、ぼくの愛する、たったひとりの少女の姿が。
本作が寄稿された「海2のミ」についてはこちらからご覧ください。
かまどキッチンによる岩倉文也さんへのインタビューはこちらよりお読みいただけます。
演劇公演の詳細はこちらよりご覧ください。
かまどキッチン公演#02「海2」@新宿眼科画廊 5/12-18
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