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幕が上がる

映画「幕が上がる」を見た。

今月、娘が学芸会で舞台に立つということもあり、高校演劇が舞台の映画を借りてきて、家族で観たのだが、いや、本当によかった。

脚本も良ければ、主演のアイドルたちの演技もよい、そして、助演の教師役の黒木華がとてつもなくよかった。

ここ最近の日本映画、青春映画の傑作といってもよいだろう。

兎に角、最高の映画だった。

自分が高校時代に観た、やはりこれも高校演劇を舞台とした映画「櫻の園」以上に感じる所が多かったのは、年をとったからだろうか。

ひたすらに眩しかった。

劇中、自分の大好きな宮沢賢治の詩「告別」が朗読されるシーンもあり、また、泣けた。(自分も教室を去る時、この「告別」を残してきたので思い入れがひとしおなのだ)

主演の少女たちの眩しさはもう、手に入することが出来ないことは十分に分かっている。

しかし、その少女たちの標となった教師の黒木華の選択を手にすることは出来ないことではない。

あとに続く者の憧れとなる様な、かっこいい大人になりたいと改めて思った。

ももいろクローバーZ も聴いてみようと思う。

「告別」

おまへのバスの三連音が
どんなぐあひに鳴ってゐたかを
おそらくおまへはわかってゐまい
その純朴さ希みに充ちたたのしさは
ほとんどおれを草葉のやうに顫はせた

もしもおまへがそれらの音の特性や
立派な無数の順列を
はっきり知って自由にいつでも使へるならば
おまへは辛くてそしてかゞやく天の仕事もするだらう

泰西著名の楽人たちが
幼齢弦や鍵器をとって
すでに一家をなしたがやうに

おまへはそのころ
この国にある皮革の鼓器と
竹でつくった管とをとった

けれどもいまごろちゃうどおまへの年ごろで
おまへの素質と力をもってゐるものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだらう

それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあひだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ

すべての才や力や材といふものは
ひとにとゞまるものでない
ひとさへひとにとゞまらぬ

云はなかったが、
おれは四月はもう学校に居ないのだ
恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう

そのあとでおまへのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまへをもう見ない

なぜならおれは
すこしぐらゐの仕事ができて
そいつに腰をかけてるやうな
そんな多数をいちばんいやにおもふのだ

もしもおまへが
よくきいてくれ
ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき
おまへに無数の影と光の像があらはれる
おまへはそれを音にするのだ

みんなが町で暮したり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌ふのだ

もしも楽器がなかったら
いゝかおまへはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ


人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光りあれ。