発言に傷ついても声が上げられなかった時代を「おおらかな時代」といって良いのか

「つまらない時代になった」という意見をメディアで見ない日はない。
 まずはっきり断言しておくが、昭和48年生まれ今年51歳になる私は「今はつまらない時代だ」とは全く思わない。当然、現代の社会は良くない部分も多いが、昔に比べて良くなった部分は数多いと思う。
 そもそも「つまらない時代になった」と言いたがる人達は、いったいいつの時代を「良い時代」とし、どのようなことが「つまらなくなった」と言っているのか。これはもう明白である。
 「良い時代」と勝手に呼ばれている時期に関しては幅があるが、恐らく昭和40年代(1960年代から1970年代)から平成の中頃(2000年代)までであろう。つまり高度経済成長期からバブル崩壊くらいまでである。何故かというと現在の日本でその時期を生きてきた人口の比率が最も高いからだ。
 そして「つまらなくなった」と思われていることとは、ほとんどが「配慮事項が増えたこと」である。「つまらない時代になった」論者の発言を見ていれば、それは明らかである。もっと分かりやすく言えば「昔は他人への配慮が少なくて良かった」と言っているのである。
 昔は多少乱暴なことを言っても許されたのに、今はポリコレだコンプライアンスだといちいちやかましい。人の揚げ足なんか取らずにもっとおおらかだった、と言っているのである。
 私にはこれが正気の沙汰とは思えない。

 昭和末期や平成期には確かに今よりも差別的表現がテレビにあふれていた。ネットにその座を追われつつある今のテレビと違って、昭和末期から平成期のテレビは娯楽の王様だった。そもそもテレビを見ていない人がほとんどいなかった。そんなテレビでは差別的表現が日常で見られた。病気や障がいのある人を笑いものにし、あるいは勝手にヒーローに祭り上げてドキュメンタリーを制作し、容姿が劣るとされている人を罵倒し、出演者全員でゲラゲラ笑う「バケモノの宴」のようなバラエティー番組がゴールデン帯で当たり前のように放送されていた。
 私の誇張表現ではない。当時のテレビ番組は下品さと不謹慎さを競う風潮が確かにあった。確かにそれが一部の面白さにつながっていたことは認めるが、そればかり見せられている視聴者としてはたまったものではなかった。
 私は子どものころ「テレビでえげつないことばかりやるからやめて欲しい」と思っていたことをはっきり覚えている。。
 しかし、それはテレビ局が創り出した社会的な風潮ではない。テレビとは関係なくその当時の社会には「配慮のない発言は許される」風潮が確かにあった。
 例えば、親戚の集まりで中年のおじさん達が若い女性に対して「太ったね」「姉妹ではお姉ちゃんのほうが美人だね」というような、堂々といわゆる容姿いじりをすることが横行していた。実際にそう言われた人の話を聞いたことがある。
 そしてそういった発言は「おじさん達の愛情表現」として受け流すことが強制されてもいた。この辺りが今回私が最も言いたいことの根幹をなすのだが、私が子どもの頃、つまり「つまらない時代になった論者」が良い時代と口をそろえて言う「おおらかな時代」とは、乱暴な言葉に傷つく人が神経質だと決めつけられてしまう時代でもあった。
 要するに「発言に傷ついて不満を言う人が、場を乱す人物として認識されかねない時代」ということである。
 自己主張はわがままであり、腹が立っても場の空気を乱さないことを最優先しなければならなかった。そんな極端な、と思われるかもしれないが調和を何よりも重んじ、個人より集団、少数派より多数派が優先される日本人の特徴にもよく合致している。
 誰かの言動に傷ついても声を上げることが出来ず、上げることが「和を乱す行為」だった時代が確かにあった。「つまらない時代になった論者」はそういう時代を「おおらかな時代」と評価しているのだ。
 確かに現代ではSNSの普及によって個人の発信力が増えて、今までに存在しなかった新たなトラブルが頻発し、それで命を絶つ人まで出ている。そして他人の言動に寛容さがなく自己主張のみを繰り返す、余裕のない時代であるともいえる。
 しかし、個人の発言力が増したことにより嫌なことを嫌だと言っても良くなったことは大きな進歩ではないだろうか。少なくとも他人の言動に傷ついたことで泣き寝入りさせられる時代を「おおらかな時代」と呼ぶよりよほど建設的である。

 「おおらかな時代」と呼ばれている昭和末期から平成中期は個人が不満に思っても声を上げられず、押しつぶされる時代でもある。そしてそれを無条件に褒めちぎり「昔はよかった」と発言することには強い違和感を覚える。

下品と不謹慎で満たされたテレビ番組を面白いと思うように時代から強要されていた私はそう思う。


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