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今やSNS上には膨大なイメージが氾濫している。
しかしこの氾濫のイメージは一昔前にもあった。
それは雑誌や広告、TVの普及に伴う情報伝達の爆発だ。
本格的にこれが起こったのは戦後、1960年代頃からだろうか。

雑誌、コマーシャル、TVは業界と結ばれた少数のクリエイターによって作られ与えられたが、SNSはそういった権威的な構造は(見かけ上は)無い、という違いはあれど、SNS以前に情報は既に氾濫していた。
そして勿論、というか当然、SNS上にも権威は存在する。
誰でも参加できるため、見かけ上は権威が存在しないように見えるが、個人が主体性を持ってアクセスしているかのような「錯覚」を起こさせるツール(スマートフォン)の使用、評価数値への信頼と群がり、アルゴリズムによる情報管理・提供、文字と映像を駆使した分かりやすく強烈なメッセージ、むしろ権威的なものはより精密・巧妙・ある種民主的に我々の内部に植え付けられるようになったとすら思う。

その中にあって大切なこと(抗うこと)は、少し幼い言い方になるが「自分だけの宝物」を見つけることだと感じる。
宝物とは他者と共有することができない可能性があるとしても自分の内因子と深く結びついき、輝きを放つオブジェのようなものだ。
そのオブジェにとって共感はあくまで副次的な産物であり、故に孤独を孕む。

懐かしさとは何だろうか。
私の好きな作品はどこかしら自分の記憶と交感する懐かしさを孕んでいる。
ある強烈な懐かしさを持って視覚に焼き付くようなイメージこそが幼き日の記憶、あの日に手に入れた自分だけの宝物に通じる回路があるのかも知れない。

他者のイメージの中に何故か自己の記憶を見ること。
本質的に、決して他者の為には存在しないにも関わらず他者の記憶を呼び起こすイメージが存在すること。
そんなイメージと出会った時、自らの中にある決して他者には譲れない孤独な宝物を発見してしまったような気がするのだ。

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