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清野賀子 写真集「THE SIGN OF LIFE」について

私的感想のため、安易で不適切な表現があるかも知れません。その点ご了承下さい

清野賀子「THE SIGN OF LIFE」


写真集「THE SIGN OF LIFE」
著者:清野賀子
テキスト:今枝麻子
ブックデザイン:石崎健太郎
発行:オシリス
2002年発売

この写真集に出会ったのは2008年頃だったと思う。
当時は写真専門学校の学生であらゆる写真集を貪るように見ていた。
そんな時期に東京の青山ブックセンターで出会った事をハッキリと記憶している。
出会ったと言ってもこの写真集を見たいと思い書店を巡り探し回っていたのでお目当てのものが見つかったと言ったほうが正しい。
値段は確か7000円くらいだったと思う。
現在は絶版になり作者が故人ということもあってかプレミア価格が付いており、オークションやフリマサイトで定価の5倍以上の価格で取引されている。
初見で魅了された写真集だったが、当時フィルム代や現像費用でカツカツの金銭状況だったこともあり7000円という安くはない金額に躊躇して結局購入せず、ここまで価格が高騰することも予測できなかった為、幾度となく購入するタイミングを逃し続けて10年以上経ってしまった。
この先、更に価格が高騰していよいよ手に届かなくなってしまう事を恐れて意を決して先日購入した次第だ。
今の時代に5倍以上の価格で需要があるということは、私のように事あるごとにどうしてもこの写真集を眺めたくなる人間が他にも存在するということへの感慨があった。

話は戻り、写真学生時代に何故この写真集を探し求めたかというと、作家専攻のゼミの講師から「お前は清野賀子の写真集を知ってるか?見たことないなら見た方がいい」と勧められたからだ。
日頃、ゼミで私の作品を見せていたので制作の参考にするよう勧めてくれたのが「THE SIGN  OF LIFE」だった。

清野賀子の経歴を簡単に記す。
1962年生まれ。
ファッション系の雑誌の編集者で30代から写真を撮り始める。
写真家としての活動期間は約15年であり40代後半でこの世を去っている。
ファッション雑誌などで活動。
写真集に「THE SIGN OF LIFE」(2002)、「至るところで心を集めよ立っていよ」(2009)の2冊がある。
ここでは省くが細かい経歴はWikipediaに載っているので興味のある方はぜひ参照していただきたい。

亡くなった経緯が詳細に知れる記事は見つからなかったが、どうやら自殺だということはどこかの記事で読んだ。
2冊目の写真集「至るところで心を集めよ立っていよ」には清野のごく近しいであろう身の回りの風景や人物などが収められている中に精神病院の敷地内を撮影したものがあるという情報があった。
まだ40代であり鬱状態にあったと匂わせる記事もあったことから察するに自殺の可能性は高いのだろう。
しかし、それを知っても私はあまり驚かなかった。
亡くなった真相は分からないが、自殺と聞いてもなにか腑に落ちてしまうような切迫感や抑うつ感のようなものが清野の写真からは漂っている(勿論それだけではない)。
特に、遺作となり死後に発表された2冊目の写真集「至るところで心を集めよ立っていよ」は、自殺と知ってから見てしまうと、死の世界に心が縛られている作者がもう一度この身に実存を取り戻そうと身の回りのあらゆるものの感触を手探りで確かめているかのような印象を受ける。
だが、そのことが作品として素晴らしいものになるのかどうかは疑問が残る。
作者の感情と写真を撮る行為の距離が縮まり過ぎてしまっているせいか(そういう実存的な私写真の軸が写真表現には存在すると踏まえつつも)実存的に、エモーショナルにシンクロできる者以外はなんだか乗り切れない感覚が残り、あえて言うならイメージより作者の感情を優先してしている点で世俗的なエモい日常系写真に埋没してしまっていると感じた。
あの「 THE SIGN OF LIFE」を作り上げた写真家であるなら、感情に依拠する眼差しに終始してしまうような写真はむしろ否定に類する写真ではなかっただろうか。
「THE SIGN OF LIFE」の巻末には写真に対する本人の言葉が短く記載されている。
以下、写真について語っている箇所を部分的に抜粋する。

〝写真家は写真の後ろに隠れているべきであり、写真をめぐって、その舞台裏を語ることには、ほとんど意味がない。全ては写真の中にある。〃

目の前にゴツンと石を置かれたような素っ気なく固い言葉だが清野自身が写真に対して強固な意思を形成している様が短い文章が故に伝わってくる。
写真に付随する物語的誘導を排除し、一枚の写真それだけで完結し、確立されたイメージでなければならないと言ったようなニュアンスがあると思った。
写真集には、物語るような連続写真ではなく、あくまで写真が並行・並列されている。
夜空の星の配置を星座として当てはめ、神話になぞらえることが物語なら、この写真集に収められた写真からは星は星のまま、物語を与える事無くただ並んで輝いていることを表しているような印象を受ける。

「THE SIGN OF LIFE」に収められた一連の写真は、まず撮影地が日本であること以外に北から南までバラバラである。
全ての写真には人間を含む動物が写っておらず、特定の場所や建物を指示する文字や看板などが無く、カラーで撮られていて、都市部を避けている。
清野の言うように、〝写真についてその舞台裏を語ることに意味がない〃として、だとすれば写真に写されている表舞台(表象されたイメージ)について語ることに意味はあるのか分からないが、そこにイメージがある以上、何かを探ることは可能であると思う。
いや、探ってみたい何かがこの写真集にはあると言っておこう。

まず、なぜ撮影地がバラバラなのか。
一応巻末には大まかな撮影地がまとめて記載されているが脈絡はありそうもない。
風景写真の場合、撮影地にまつわる風景(環境、歴史)であったり、個人の生い立ちや心情に基づいて撮られたもの(私性)であったり、もっと概念的な何かに向けての写真(叙情性や神秘性)だったりするものが多い。
しかしこの写真集の場合、多くが風景写真であるにも関わらずそのような何かに紐付けられ、何かに属することを拒むような印象がある。
撮影地の脈絡を断つことは、一つの風景が場所という強い情報へ紐付けされることを拒否し、写真が独立して成立するよう配慮した行為だと見ることができるのではないか。

そして場所だけではなく感情さえも匿名化、もしくは隠蔽されているように思う。
あらゆるものへの紐付けを拒否すると書いたが、清野の写真は上で述べた「私性」な風景写真が一番近いのではないかと思う。
しかし、私性を前面に出しているわけではない。
清野の言葉にあるように「写真家は写真の後ろに隠れているべき」という実践に基づいて写真家の私性の隠蔽が行われたとすれば、私性は清野にとって巨大であり、しかし写真を成立させる上で邪魔であり、隠すべきものだったと捉える事ができる。
この隠蔽感は清野の写真を見ていると強く感じ取れるのだ。
「 THE SIGN OF LIFE」の写真群は「花」「揺れる草木」「影」「寂れた建物」「空き地」「薄汚れた壁」「ポツンと一軒家」のような被写体を見るに、作者のセンチメンタルな情緒に触れる瞬間にシャッターを切っている気がしてならないのだが、それがそのまま画面に現れることを拒否し、押し殺し、封殺するかのような何か大きな力が働いているように画面から伝わるからだ。
近代写真以降、よくある即物的だったり匿名的だったり私的感情を挟まないように撮られている写真というのは、往々にして無機質で科学的な視点か、人や物から一定の距離を置いて客体化して捉える神的な視点などに置き換えられる方法が定石だが、清野の写真にそういった視点の置き換えは感じられない。
あくまで個人の心の動きに反応して撮られた風景だと感じ取れることが、匿名的とも言える写真を曖昧なものにし、返って隠蔽した事実を浮き彫りにして、情緒的であるけどそれを押し殺しているという激しい内的攻防戦が一連の風景群に緊張感とある種の不穏さを与えている。
ものすごく何か言いたい事がありそうな、それこそ叫び散らしでもしたいのにそれを押し殺し無言で何処かを見つめている少女のような、そんな印象が「THE  SIGN OF LIFE」の写真からは漂ってくる気がするのだ。
撮影地から心情に至るまで「私性を排除しようとする私性写真」が清野の写真であり、その内的葛藤が風景写真にアンビバレントで固有な静謐感を与えている。

写真が何者にも縛られる事なく解き放たれて空の星のように輝くことを夢見るが故に、自らの中に色濃く内在する私性との葛藤には凄まじいものがあり、心身ともに疲れ果ててしまったのかも知れないと誠に勝手ながら想像してしまっている。

発行から20年が経つ今でも何度眺めても感嘆させられる数少ない美しい写真集をこの世に送り出してくれたことに敬意を表す。

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