今更ながら2021年6月8日時点の長い長い自己紹介②幹事(部長)の一年は私の人生を大きく変えた。大親友の死
今更ながら長い長い自己紹介②です。
終わるんかいな。
いっちゃっているダンスサークルでくすぶりつつも、いつかああいうダンスを踊りたいと夢を抱きつつ、バイトとか、適当に遊びつつ、大学二年は過ぎていきました。
一方で、当時の私は過食とも闘っていました。
高校時代、一度急激にダイエットして以来、過食と拒食を繰り返すようになり、吐いたりはしないんですが、年間に体重の増減が7キロほどいったりきたりする。
加えて、ものすごいトラウマがあるわけでもないのに、男性恐怖症気味。
いまや完全に脳がおっさん化してしまい、我ながら信じられない感じなのですが、この世の全ての男性が怖くてたまりませんでした。
原因が分からないし、誰にも相談できないし、たくさん食べてしまって、ふと口をついて出る言葉は『死にたい』という言葉。自分でもなにがなんだかという状況でした。
しかも表面上は楽しくやっているので、余計に孤独感は増していきます。
もつれた糸がぐちゃぐちゃに絡まって、にっちもさっちもいかないような感覚と将来に対する漠然とした不安で一杯の中で日々過ごしていました。
そんなこんなで、それでもダンスサークルは結構真剣にやっていました。
いわゆる部長(幹事)は三年生がなるのですが、代々上の代が指名するのが伝統でした。
私達の代は激しい性格のメンバーが集まったことから内紛もあり、3年に上がる頃にはメンバーは5人しか残されていませんでした。
うち4人がサークルを一つに絞り、専念していて、もう1人は掛け持ちして、割とゆるいスタンスでサークルに関わっていました。
暇だし、多分部長をやらされるんだろうなと考えていた予想に反して、先輩達が指名したのは、掛け持ちのメンバーでした。
理由は、私含め専念しているメンバーが部長になったら、サークルの域を超えてしまう危惧があるからというものでした。
当然残りのメンバーは納得しません。これでは一年、先が思いやられるなというのが目に見えていました。
この仲間でなんとか一年やっていきたい。私がなんとかしなきゃ。
それで、先輩の指名をひっくり返して、部長に名乗りを上げました。
純粋な気持ち100%だったかというと、就活に有利かなというヨコシマな気持ちもありました。笑
でも、やっぱりこのメンバーをなんとか盛り上げて、充実した活動にしたい、楽しんでもらいたいという気持ちが強かったんです。
多分、これが生まれて初めて、何かを真剣に自分の意思で決定した瞬間でした。
もう少しいうと、これまでは誰かに何かしてもらいたい、というスタンスだったのが、自分から何かしたいという180度思考が転換したのがこの時です。
以降、紆余曲折あるんですが、自分の人生、誰かになんとかしてもらおうと待つのではなく、自分でなんとかしていこうという気持ちで過ごす方がより人生を味わい尽くせるという感覚は常に私の芯の部分にある思いです。
ちょっと寄り道しましたが、この一年はこのサークルに賭ける!同時に、誰にも言えない原因不明の情緒不安定さに疲れ果て、もう、ここで燃え尽きて死んでしまっても良いくらいのハイパーテンションでサークル活動に没頭していきました。
リーダーになるという孤独を初めて味わったのもこの時です。誰かを引っ張って進むということは、同じ目線でものを見る人がいないということでした。
だから、孤独感は一層増していきました。
年間の計画を立てて、新入生を勧誘して練習場を確保し、練習には欠かさず出席。
でも、今から考えると、そんなに追い込むことなく、もっとみんなと相談しておけば良かったんでね。
ものすごく孤独で、同時にものすごく幸せでもありました。
目的を持って進んでいる感覚もあったし、チームに責任をもつ、このチームは私が守るんだ!という気持ちがこんなに幸せなのだということも初めて気付かされたのがこの一年です。
そんなこんなで集大成である12月講演をなんとか乗り切り、実家に無事公演が終わったことを報告しました。
かえってきた母の言葉は衝撃的な言葉でした。
『○○ちゃんが自殺したよ』
でも、私は『そう、なんとなく、そうなる気がしていたよ』という乾いた返答を返しただけでした。
小学校4年までの大親友とはその後も不定期に連絡を取り合っていたのですが、中学の時に何かしらのトラブルにあい、高校を中退していました。
何かに悩んでいることは気づいていたのですが、自分自身が空中分解寸前で、とても彼女の悩みまで受け止めるキャパが私にはありませんでした。
亡くなる年のお正月、電話がかかってきて、
『どうして年賀状をくれなかったの?きよこちゃんから年賀状が来なかったこと、とてもショックだった』と言われた時も、その年は余裕がなくて、誰にも年賀状が出せなかったからしょうがないじゃないと。
私が誰にも助けを求められないでいるのに、すがってくる彼女はずるい、とすら感じました。
だから、母から自殺の件を聞かされた時も、そんな私は悲しむ権利すらない。まるで心が凍りついているかのようでした。
そのまま年が明けて就職活動がスタートして、自己分析しだしたときからです。
不思議なことが起こり始めました。
なぜか、走馬灯のように、記憶が過去に過去に自分の意思に反してどんどん遡っていくのです。
最後は一週間近く、全く眠れなくなりました。
そして、最後は記憶は産まれたところまで遡っていきました。
街を歩くと、至る所にキーワードが落ちていました。
シンクロニシティというんだそうですが、偶然の一致が爆発的に増えていきました。
一体なんなの?
なんなの?なんなの?なんなの?
一体私に何に気づかせようとしているの?
最後はもう本当にこんな感じです。
一睡もできなくなったからどれくらいたったでしょうか。
ある晩、涙がボロボロ溢れてとまらなくなりました。
もういいんだよ、
よくがんばったね、
もういいんだよ、
まるで大いなる何かにそっと抱きしめられるような、そんな感覚に包まれていました。
これも後から知ったのですが、ハイヤーセルフというんだそうです。
そして、真夜中、ふと、もつれる糸がほどけるように、ふっと降りてきました。
だから○○ちゃんはしんだんだ
もうそれは圧倒的な気づきでした。
幼なさなじみの大親友は、イジメトラブルをきっかけに自己肯定感がもてなくなり、自分がこの世に生きていて良い理由を探していったとき、私が中学のときにやったことをやったのだと思います。
私な必ず悲しんでくれる、だから生きなくては、そして、そんな私から年賀状がこなかったからショックだったのだと思います。
生きていて良い理由を探して、見つけられなくて、自分で自分を一ミリも愛せないと感じて、だから、自ら命をたったんだと。
愛だったんです。
そして、同時にものすごい宇宙の愛との一体感を感じました。それは、私にとってのその時点での気づきが私にとっては真実であり、私自身が受け止められるように、今宇宙がものすごい愛で私を包んでいてくれていることにも同時に気づかされました。
幼なじみも私も宇宙にずっとこれからも愛されていたんだということにも。
人生の目的が愛だということもそのとき分かりました。
おそらく、世界の宗教家は多かれ少なかれこういった神秘体験を通過してきたんだろうなということも分かりました。
表現は違えど、真理と呼ばれるものには、ある一定の共通項があるということも、この時感覚的に知りました。
人間はある一定方向に進む巨大な宇宙のエネルギーの進む方向に沿って実は進んでおり、一時的に後退したように見えても長い目でみたときにその方向に進んでいくということ。
そして、心をピカピカにした状態にすれば、自ずと宇宙とチャネリングして、自分の進んでいく方向がわかるということにも気づきました。
けれど、当時の私はその巨大な気づきをうまく自分の中で統合できませんでした。
結果として就職活動に失敗したと思い込み、大親友の自殺に自責の念をいだき、自分は心を病んでしまったと思い込み、お世話になった方々やサークルの仲間と一切連絡をたち、この後の人生は余生だと諦めて、就職したのでした。
余談になりますが、この時、絶対見捨てないよ、と友人でいてくれた友人達には本当に感謝してもしきれません。
また、長らく途絶えていたサークルの先輩や仲間とも10年以上の月日を経て、またつながりを取り戻すことができました。
まだまだある意味いっちゃってる長い長い自己紹介は続きます。
もうしばらくお付き合いください。
次は就職。そして、職場1日目から働くことに恋をした、です。
なぜ改めて自己紹介を書いているかは、最後に振り返ろうと思います。
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