本当はたくさん受け取っていた
昔から受け取ることが苦手だった。
奢られるよりは奢る方が良い。
感謝されるよりは感謝する方がいい。
助けてもらうより助ける方がいい。
プレゼントをもらうよりプレゼントする方がいい。
愛されるより愛する方がいい。
少しだけ世間より仏教に傾倒していた父。カトリック系の高校に通い、信仰はしていないが、キリスト教の教えを時々口ずさむ母。
だからといって、両親2人ともが人間的に聖人君子のような人間だったかというと、そうではない。
食欲や金銭欲も普通にあり、極めて人間くさくて愛しい人たちだった。
とはいえ、そんなこともあって、
与えなさい。見返りは求めてはならない。
無意識の深い深い奥底にあるこの概念で、自分自身をがんじからめにして生きてきた。
受け取れないということは、自分が困った時に、助けを求められないということでもある。
悩みは相談しない。解決してから結果を話す。困っている友人たちの悩みは聞いても、自分自身は悩み相談をできなかった。
助けを求めたら手を振り払われるかもしれない。
心の奥底にそんな恐怖もあった。
いつの頃からだろうか。
少しずつ、悩みも相談できるようになり、周囲に助けも求められるようになった。
小さな小さな積み重ね。
そして母になった。
母になって、これまで、頑なに助けを求めないできた私は一気に周囲の助けを求めるようになった。
1人で育てるのは絶対無理。
産後クライシスも相まって、世界で一番憎いのは夫。
口をきくのも、同じ空気を吸うのもいや。
何もかも許せなくなって、外の世界に助けを求めた。
これまでの頑なな心が溶けていくように、外の世界に相談したり、助けを求めるようになった。
娘を産んで7年。
それでもまだ、自分の中に助けを求めたり、与えてもらうことに対するわずかな苦手意識は残っていた。
しかし、先日、自分で企画したイベントに、これまでになく集客が少なかったとき、なりふりかまわず助けを求めた。
「すごく良いイベントだから参加してみない?」
「きっとニーズにあっていると思う」
それでも、珍しく、予定が合わず、参加者は思ったように増えなかった。
何がいけなかったんだろう。
落ち込むのではなく、冷静に振り返ってみた。
絶対にたくさんの人に参加して欲しいのか?
そうではない。
最小決行人数は2人で良い。
では何がいやなのか?
自分が企画したイベントがニーズがなかったのか?
いやいや違う。参加したくても、日程の都合が合わずに今回は出席を見送った方が多かった。
では、きっとこういうイベントに参加したい方たちの予定を先に確認したか?
していない。
なぜか?
この時期忙しいということがわかっていたからだ。
ひっそりとでも途切れさせたくないということを優先させたかった。
私は、長年、場づくりをライラワークのようにやってきた。
生きづらさを感じて、苦しくて悲しくて、それでも助けを求められないとき、場に救われた経験があった。
だから、ささやかでいい。場づくりは自分ができるキブだと思ってこれまで長年関わってきた。
だけど、むしろギブしてもらっていたのは私。
私が楽しくて、嬉しくて、やりたいと思っていることに、賛同したり、共感したりしてくださった方が参加してくださり、だからこそ、長年ライフワークのように場づくりができてきたんだと。
わかっていたつもりだけど、でもやっぱりどこかでギブしていると思っていた。
私は受け取れない人間だと思っていた。
でも、本当はたくさんたくさんもらっていたし、受け取っていたことすら、気づいていなかった。
そう思うと、涙が溢れてきた。
今回のこの出来事を通して私が学んだこと。
それは少し前に読んだ『スピリチュアルかあさん風の時代を自由に生きる』というコミックエッセイの中にあった一節。
はぁ。
年を取るっていい。
前は分からなかったことが分かる。
きっとこの先何年かした、またさらに深く受け取ることについて考える機会が巡ってくるんだろう。
でも、今のこの気持ちは今しか味わえないもの。
充分に味わい尽くそうと思う。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます✨✨✨
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