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XTALヒストリー前編 長野の音楽少年、ダンス・ミュージックに狂う

KKV Neighborhood #30 Interview - 2020.08.04
XTAL『Aburelu』
interview by 田中亮太

TRAKS BOYSや(((さらうんど)))のメンバーとして活動してきたテクノ〜ハウス・シーンに基盤を置くDJ/トラックメイカー、XTAL。彼が4年ぶりにリリースしたニュー・アルバム『Aburelu』には、これまでにリリースしてきたフロア・バンガ―なダンス・トラックとは一味違う、生々しさと端正さが奇妙に同居したアンビエント~エクスペリメンタルなサウンド・スケッチが収められていた。

KiliKiliVilla Neighborhoodでは、先にXTAL自身の執筆によるコラム〈『Aburelu』を作った8枚〉を掲載したが、ここに彼のロング・インタヴュー前後編を掲載する。KiliKiliVillaのカタログに親しんできたパンク・リスナーには、いままでXTALの音楽と接点を持たなかったものも少なくないだろう。ゆえに、今回はいきなり新作『Aburelu』の話題にはいかず、彼のキャリア全体についてからゆっくりと話してもらった。まずは、ポップ・ミュージックとの出会いから、ダンス・ミュージック・シーンの住人として存在感を発揮するまでの遍歴を綴った前編から。

なお、このインタビューに同席したKiliKiliVillaのスタッフ、与田太郎はインディー・ミュージック・ヒストリーの生き証人にして、90年代以降の国内トランス/プログレッシヴ・ハウス・シーンを牽引してきたDJでもある。同時代のダンス・カルチャーを別の場所で生きてきた2人による証言集としても、おもしろいものになっていると思う。

マニックスに衝撃を受けたXTAL少年

――このnoteの発行元であるレーベル、KiliKiliVillaは元銀杏BOYZの安孫子真哉が主宰していて、今年で創立5年目を迎えました。発足以降、いろいろなバンドやアーティストの音源をリリースしてきたんですが、パンク・レーベルと言い切れるとは思うんです。そもそもXTALさんは、〈パンク〉っていう言葉に対してどういうイメージを持たれていますか?

「パンクはですね……僕は音楽に目覚めたのが小6ぐらいで、TM NETWORKからなんですけど、中学に入って洋楽も聴きはじめたんです。ただ、地元が長野の田舎っていうのもあって、洋楽といってもボン・ジョヴィとかなんですよね」

――はい。

「それを一変させてくれたのがマニック・ストリート・プリーチャーズのデビューだったんです」

――91年ですよね。

「ファースト・アルバムが出る前のシングル――“ Motown Junk” にガツンときて一気に音楽の聴き方が変わったので。なので、ある意味入りはパンクですね」
与田太郎「マニック・ストリート・プリーチャーズはマンチェ時代のパンク・リヴァイヴァルでしたからね」

――91年頃の音楽シーンは、イギリスではセカンド・サマー・オブ・ラヴ以降のバンドがいっぱい出てきていて、アメリカにおいてはグランジの爆発があった。いわばインディー・ロックの充実期だと捉えているんですけど、なかでもマニックスがXTALさんに刺さったのはどうしてですかね?

「音的にもそうでしたし、発言とかも過激でしたよね。あと〈4 REAL〉の事件とかもあって、自分も中学生だったんで、なんかそれにグサっとくるものがあった。元気ハツラツに中学校生活を送っていたわけじゃないし、思春期の悩みとかあるじゃないですか。そういうのでバシっときたっていうのはあります。マニックスで一気に価値観が変わっちゃったていうか。自分にとってはかなり一大事件でした」

――マニックスのファースト・インパクトからその周辺のバンドとかも聴いていくような流れでしたか?

「そうですね。当時家でケーブルTVに 入ってたんですけど、そこで東京のテレビ局の番組が観れたんですよ。土曜の深夜に〈BEAT UK〉って番組をやっていて、マニックスもよく出ていたので、それを毎週録画してました。あれでいろんなUKのバンドを知り、USだとニルヴァーナ“Smells Like A Teen Spirit”のビデオを初めて観たのもそこでしたね。 あと番組内でダンス・チャートもやってたので、その辺もちょっと触れつつ。いろんなバンドを聴いてましたね」


95年、テクノ大爆発

――じゃあ91年ぐらいから同時代の海外の音楽を聴いてきたなかで、XTALさん的にムーヴメントとしていちばん最初にのめり込んだものは何になりますか?

「長野で中学高校と普通に行っていて、その時期は音楽少年としていろいろ聴いてたって感じなんですよね。で、大学で神奈川に行くんですけど、ちょうどそのときテクノが大爆発するタイミングで。95年くらい。なので、自分が最初に体験した大きなムーヴメントってテクノなんですね。中学ぐらいから電気グルーヴを聴いていて、そこからの流れもあり、神奈川に住んだことで東京のクラブに行きはじめて、ってとこにテクノがガツンときた。そこで自分も同時にレコードを買って DJを始めた。やっぱり最初はテクノでしたね」
与田「当時、行ってたクラブは新宿のLIQUIDROOMとかですか?」
「LIQUIDROOMでやっていたCLUB VENUSとか……そういう大きなパーティーがないときは土曜のMANIAC LOVEですね。WADAさんの DJ にやられてました。MANIAC LOVEで朝まで踊って、そのまま寝ずにWADAさんがかけていたレコードをレコ屋に探しに行くっていう」

――WADAさんの DJ のどんなところに特にやられていたのでしょうか?

「やっぱり選曲が凄かったんです。その頃WADAさんはセットのラストに、デ・ラ・ソウルの “A Roller Skating Jam Named “Saturdays””をサンプリングしたDJ TONKAの“Phun-Ky”をよくかけていて、そうしたセンスですね」

――これはお二人にお訊きしたいんですけど、95年頃に起きたテクノの大爆発って日本特有の現象として捉えていいんですか? それとも世界的なもの?

与田「いや、あれは完全に日本固有ですよ、テクノにかぎらず、日本で本格的な野外レイブがほぼ毎週行われて……みたいなのがだいたい95年の夏ぐらいからなんです」
「それってトランスとかも含めてって感じですか?」
与田「そうですね、基本日本の野外レイヴといえばトランスになっちゃうんで。94年にポツポツ始まり95年に大爆発してという感じ。テクノとトランスはまだそんなに交わってなかったけど、お客さんは結構かぶっててましたね」
「95年より前は、テクノとトランスって音楽的にはもうちょっと混ざっていた気がするんですよ」
与田「ジャーマン・トランスとテクノが混ざっていましたよね」
「僕も高校のときは両方聴いてましたね。そこから分かれていった?」
与田「そうですね。で94年の夏にLIQUIDROOMがオープンする。こけら落としがアンダーワールドで、そこからテクノもすごく世界が広がっていくというか。小さい箱のパーティーしかなかったのが、リキッドでやるようになって。さらに96年の〈RAINBOW 2000〉で、一気にブレイクしていく。まぁ普通の人も巻き込んで、動員が一気に増えたという感じでしたね」

――当時、WADAさん以外でXTALさんが好きだったDJは?

「あとは……卓球さん、田中フミヤさん。あとさっきも言ったCLUB VENUSという久保憲司さんがオーガナイズしていたイヴェントがあって、そこでアンディ・ウェザオールのDJとかをいろいろと体験できて。次第に自分もテクノ中心のDJをやるようになったんです」

――当時からCrystal名義で DJ をやってたんですか?
※XTALは2015年までCrysralとして活動していた

「Crystalじゃなくて、本名でやってました。アライリョウって言うんですけど、あのRiow Araiさんと同じっていう(笑)。たまに間違えられることもあったんで、だから名前考えなきゃいけないっていうことでCrystalに。その頃は週末のクラブとかでは全然やってなかったです。平日の夜に大学のサークルでクラブ借りて回すぐらいの感じでした」

――当時のテクノ・シーンの様子をどういうふうに思い出されますか?

「とにかくエネルギーがすごかったですね、LIQUIDROOMは7階でしたっけ? 階段で1階から7階までずっと並んでるみたいな。それが初めて入ったクラブ・シーンだったから、そういうもんだと思ってたんですけど、いまから考えると全然そんなことないっていう(笑)」
与田「いま7階まで階段並ばないでしょ、っていうね。それが毎週という感じのノリだったので」


日本のポップをダンス耳で捉えた『MADE IN JAPAN CLASSICS』

――本格的にダンス・ミュージックのシーンみたいなものへと関わっていく経緯は?

「テクノが好きでよくパーティーに行ってたんですけど、だんだんテクノがですね、ハードな方向に行きはじめたんですよ。ハード・ミニマルとかハード・テクノとか。そういうのも最初のほうは聴いていたんですけど、だんだんそこに限界を感じていたときに、イジャット・ボーイズとか当時ディスコ・ダブって言われた人たちが出てきて。そっちがおもしろいなってことで、自分が買うレコードやDJプレイも変わってきたんですよね」

――2000年ぐらいですかね?

「ですね、2000年前後かな。ディスコ・ダブのインスピレーション源が、ラリー・レヴァンを筆頭とした70年代から80年代のアンダーグラウンドなゲイ・ディスコ・シーンっていうのもわかってきた。アンダーグランド・ディスコのレコードとかを買いはじめて、自分の DJも完全にそういう感じになったんですよ。 そのときに、リスナーとして山下達郎を聴くんです。ディスコやハウスを通ってきた耳や体感をふまえたうえで山下達郎を聴いたとき、これは凄いと言う衝撃を受けた。
で、山下達郎およびその周辺の〈日本の素晴らしいダンス・ミュージック〉と呼べるものを、ニュー・ディスコやアンダーグラウンド・ディスコのテクニックでプレイしようと思ったんですよね。そして、いわゆる和物を使ったMIXCDを作ったところ、わりと評判が良かった。そこからいろんな人に呼ばれるようになって、いろいろなパーティーに出るようになったという。あのミックスはターニング・ポイントでしたね」

――そのMIXCDが『MADE IN JAPAN CLASSICS』。のちにシリーズ化されていくくらい、反響を呼びましたよね。最初の〈1〉は何年でしたっけ?

「2004年かな」

――『MADE IN JAPAN CLASSICS』以降に、共演する機会が増えたDJは誰ですか?

「ニュー・ディスコとかを聴きはじめたときもMANIAC LOVEにはよく行っていて……今度は土曜日じゃなくて木曜日なんですけど(笑)。MOODMANが〈SLOW MOTION〉というパーティーをやってたんですね。MOODMANのDJがすごく好きで、ってところからMOODMANもたまに一緒にやらせてもらっていました。あと東高円寺のGRASSROOTSにもよく出ていたので、あそこで回してたDJの人たちとは交流があります」

――その頃のGRASSROOTSはどういった方がDJをされていたんですか?

「DJ HIKARUくんが箱番という感じでいて、KEIHIN、CMT、Shhhhh、Universal Indiann、peechboy、あと DJ NOBU くんとかもその頃やってたかな。ヨグさん(DJ YOUGRT)も」

――当時のGRASSROOTS周辺ってざっくりシーンと言えそうなものだったんですかね?

「それが後の〈RAW LIFE〉になるんじゃないですかね。だから、RAW LIFEの前段階のシーンだったという気がします」

――その頃の小箱のシーンにどんなムードや価値観があって、それがいかに〈RAW LIFE〉に繋がっていったのか、その過程を教えてもらいたいです。

「ただ僕はそのなかのほんの一部だし、一角にいただけなんですよ。例えばECDさんとか後に僕が一緒にバンドを組むことになるイルリメくんとかも〈RAW LIFE〉に出ていた。統一感があったわけじゃないんだけど、のちに道を分かれていく人たちが、小さい差異を捨てて、一堂に会していたってイメージがあります、なんかすごいおもしろかったけど、なんでそうなったかと言われれば、なんでだろう……」
与田「結構自然発生的じゃないですか? たぶん〈LIFE FORCE〉とかが、ものすごく大きくなっていくなかで、パーティー・ピープルじゃないミュージシャンもそこに行くようになった。あの自由な感じ、いろんな音楽が混じってもいいんじゃないのっていう空気がシーンを越えて広がっていった感じがします。一方、パーティーばっかり追っかけてる人間は、〈Body & Soul〉を日本でやるようになり、トランスの野外パーティーは巨大化していってどんどんヤンキーが増え、少し行き場をなくしていたです。当時の大きなパーティーとはは真逆のピュアな感じと音楽的な自由さ、そういうディスコ・ダブや〈LIFE FORCE〉的な感覚がミュージシャンの間に広まっていって、〈RAW LIFE〉で一気におもしろい人たちが集まったという感じ」
「ダンス・ミュージックのシーンとバンドのシーンが、上手くタイミングが合って、混ざったって感じは確かにありますね」


TRAKS BOYSの誕生

――その頃のXTALさんにとってはK404さんとのユニット、TRAKS BOYSとしての活動も大きなウェイトを占めていたと思うんですけど、TRAKS BOYSはいつ結成されたんですか?

「その前後かな。もしかしたらちょっと前、2002年とかだったかもしれないですね。自分も中学生ぐらいから打ち込みをやってたんですよ。最初 TM NETWORK から入ったっていうのがあって、打ち込みの音楽が好きだったし、小6で最初のシンセを買ってるんです。テクノが好きになってからも、影響された音楽を作っていた。ただ1人だとまだ納得いくものが出来ないっていうのはあった。で、TRAKS BOYSのケンヤくん(K404)とは話があったんですよね。彼はヒップホップ出身というかヒップポップからダンス・ミュージックに入ってきた人なんです。
当時インターネットに〈Deep House Page.com〉というサイトがあったんですよね。ラリー・レヴァンとかロン・ハーディとかの DJミックスが山のようにアップされているサイト。それを僕とケンヤくんでずっと聴いていて、このロン・ハーディって奴はヤバいなとなった。そこからシカゴ・ハウスやロン・ハーディ的な感覚のクレイジーなディスコを集めるうえで、自分たちでも作りたくなったんです。初期ハウス・ミュージックの生々しい感じとか、そういうものをやりたいというのがTRAKS BOYSの最初ですね」

――ロン・ハーディ的な感覚っていうのを、もう少し説明してもらえます?

「ファイル名とかは思い出せないんですけど、本当にすごいのがあって。もう早送りしてるんじゃないかっていうくらいの速さなんです。ディスコとかをターンテーブルのプラス8で全部プレイしているみたいな。それが本当にエクストリームな感じだった。とにかくそれにやられて。ロン・ハーディはDJ中に、リズム・マシーンだけで作ったオリジナル・トラックをかけるときがあって、そのリヴァーブも何もかかってないトラックがヤバいんですよ。それもあって、最初にTRAKS BOYSで買った機材はドラム・マシーンでした。Sequencial CircuitsのDrumtraksっていうドラム・マシーンがあるんですけど、そこから名前を取ってTRAKS BOYS。最初はリズム・マシーンとモノ・シンセのみのトラックをずっと作っていましたね」

――じゃあ最初から楽曲制作をすることが前提のユニットだったんですね。

「うん。そうですね。ケンヤくんと2人で、アナログ・シンセやドラム・マシーンをいっぱい置いてある原宿の楽器屋〈Five G〉によく行ってました。そこでいかにヤバい機材を買うかって感じでしたね。完全に遊びの延長でした」

――遊びの延長だったものが徐々に変化していったみたいなところにはあります?

「TRAKS BOYSのファースト ・アルバム『Technicolor』(2007年)にはシカゴ・ハウスっぽいラフな曲も入ってるんですけど、次第にもう少し楽曲としてちゃんとしている――シンセが入ってたりコード感があったりするものを作るようになっていきました。そこはですね、CHERRYBOY FUNCTIONに出会ったのも大きいです。やっぱり彼の登場っていうのは、すごくセンセーショナルだったんですよ。彼みたいな曲を作りたい、となるとドラムとアナログ・シンセだけじゃなくて、もうちょっと凝ったものにしたいと思った」

――CHERRYBOY FUNCTIONのどういった点が、そこまでセンセーショナルだったんですか?

「彼はロン・ハーディ的なシカゴ・ハウスの感覚をもう完全にわかったうえで、さらにメロディアスな曲を作っていたところですね。エレクトロニック・ミュージックの歴史……海外だけでなく日本のそれも把握しつつ、すごくクォリティーの高い楽曲を作っていた。かつ楽曲としてエモーショナルというのは、当時ほかにいなかったですね

――TRAKS BOYSとしてめざしていたものとかってありましたか?

「TRAKS BOYSの基本は、自分たちがDJでプレイできるものを作るということ。2人とも DJ をやってて、〈こんな曲あったらプレイしたいよね〉とか〈この曲のここがかっこいいから、それを発展させて何か作りたいよね〉とかそういう感じだったので。やっぱりダンス・ミュージックのユニットですね。で、そのなかにケンヤくんも山下達郎を好きなので、そういう要素も少し入ってくるという。TRAKS BOYSでレジデント DJ をしている〈DK SOUND〉ってパーティーがあって、川崎の工場の屋上でやっていんたですけど、それが毎年あったのも大きかったですね。TRAKS BOYSとしては、自分たちがDJでプレイできるダンス・ミュージックを作ってきたと思います」


 伝説の〈DK SOUND〉

――〈DK SOUND〉は今年オンラインでの復活が大反響を呼びましたけど、川崎にある工場の屋上での開催は2016年が最後ですよね。実際、何年頃からやってたんですか?

「もう15年近く前ですね。はじめたのは、2005年、2006年くらいかもしれない」

――パーティーとしてもモデルになったようなものってあるんですか?

「まったくコマーシャルなパーティーじゃないんですけど、〈Green Giant〉という野外のレイヴがありまして。そこにケンヤくんと〈DK SOUND〉の場所を提供していたDK がよく行ってたんですよ。〈Green Giant〉のオーガナイザーは、自分たちでサウンドシステムを持っていて、よく山の中でパーティーを運営していたんです。で、DKが〈俺も自分のシステムを持ってパーティーやりたい〉と思ったらしく、彼が自前でシステムを買って、そこから始まりました。そんな感じですね。なので、まずはサウンドシステムを買って自分でパーティーやりたいというDKの想いから始まっている」
与田「いいですね。やっぱそうじゃないと」
「そうそう。DKは普通によく遊んでた友達なんですよ。よくクラブに来ていて、仲良くなって、あるときパーティーをしたいという話をしだした。〈え、でも場所どうすんの?〉って訊いたら、〈工場の屋上でちょっと使えるところあるんだよね〉と。なんかおもしろそうじゃんって、最初はもう完全に友達だけで音を出して遊んでた。だからお客さんを呼んでやるとか考えてなかったです。ほんと30、40人くらいで音を出して遊んで、あーおもしろかったっていうだけのパーティー(笑)」
与田「それがいちばん楽しいですからね」
「そうなんですよ。好きなときに集まって、一時期だと毎月くらいのペースでやってましたね。もうバーベキューの延長みたいな感じで」

――与田さんもそういうクラブ以外を使った小さなパーティーを同時期にたくさんやってたじゃないですか。ダンス・カルチャーにのめり込んだ人が、DIY的なパーティーをはじめる指向性って何なんですかね?

与田「それはやっぱ自分でパーティーやりたいじゃないですか。本当に楽しいパーティーって10人でも全然成立しちゃうんですよ。それを知っちゃうと、じゃあ自分たちがやりたい環境でやろうよと思うんです。俺は山梨の山小屋を使ってたんですけど、コピーのフライヤーをCISCOに置いておいたらちょっと話題になっちゃって。あるとき気づいたら150人くらい来てるみたいな」
「ああ。それ完全に〈DK SOUND〉と同じですね。その感じ、よくわかります。僕は部屋でもDJするんですけど、その延長ですよね。やってると楽しいんで、なんかタイミングがハマると広まっちゃうんですよね。あるとき400人くらい来たときがあって、対応できなくてめちゃくちゃ困ったという。それからパーティーとしてちゃんとしていくという意識が生まれたんですけど、気持ち的にはずっと遊びのままです」

――XTALさんとしては、テクノの爆発や自身の〈DK SOUND〉をふまえて、ここ20年のシーンの変遷みたいなものはどう捉えられていますか?

「そうですね、シーンの推移とかはちょっとよくわからないな。自分はとにかく楽しい、新鮮だと思えることをやってきただけなので。だから、いつも楽しかったなっていう。例えば90年代半ばのテクノの……新宿時代のLIQUIDROOMのエネルギーがすごかったとか、めちゃくちゃ人が来てたとかは、いまの状況とは違うし、最近のシーンでもちょっと人が少ないとか若い人が来ないとか問題はあったのかもしれない。でも、そこでかかっている音楽や、来ている人たちの音楽への愛はいつでも変わらないと思う。だから、悲観視はしていないし。僕は常にダンス・ミュージックを楽しんでたって感じですね」


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