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9.「絶対的な存在」>「コーギトー・エルゴー・スム」

名画座支配人の大澤です。

最近、ドリル小説第二弾となる「コミュニケーションドリル」を発表しました。思いの外、好評をいただいており嬉しく思っています。人の悩みは色々な側面に存在しますが、その中でも人間関係に関するものは自分一人で解決することが出来ないので厄介な悩みです。今回のドリルはコミュニケーションに焦点をあてていますが、コミュニケーションは人間関係を築く入り口であり、良い関係を維持する手段でもあります。コミュニケーションを改善することが人間関係の悩みを解決することになるのではないかと思っています。是非、人間関係に悩みを抱えている方にもこのドリルを読んでいただければ嬉しいです。

話はガラッと変わりますが、デカルトの「我思う故に我あり」について最近私が思うことをお伝えしたいと思います。昔の私の解釈は「私」がいることを「私の意識」が認識すれば「私と言う存在」が現実になる、というものでした。そしてデカルト言ったこの言葉をなるほどなと思っていました。しかしフロイトの無意識やマズローのトランスパーソナルについて書かれた書物を読んでいくにつれて、その解釈が少しずつ私の中で変わってきました。

それは「我思う故に我あり」の前に世の中には「絶対的な存在」がある、そういう解釈です。言い換えれば我々が正確に認識できない「絶対的な存在」がこの世の中にあり、「絶対的な存在」は完璧な存在であるということです。人は物事や出来事を知覚し、感覚器官を通して脳に伝えることで、その刺激を人は認識します。これはある意味、色眼鏡をかけて物を見ていることに似ているので事実として脳が認識するだけで真実を見ているわけではなく、正しくは「我思う故に我の解釈の我あり」ではないかと…

色々な悩み事は私たちの偏った、または歪んだ認識(色眼鏡でみている世界)の中に存在するのであって「絶対的な存在」があるとすれば私たちが物事の見方や考え方を変えれば世の中の悩みや問題は徐々に解消できるのではないでしょうか。

この考え方は哲学や宗教の中である意味同じことを言っている場合があるかもしれません。でももっと純粋に「絶対的な存在」を信じて歩むことに意義があるかもしれない(あって欲しい)というのが私の感じ方に近いです。「絶対的な存在」を善きことと信じて進むことが我々を幸せに導いてくれる。コロナが発生して不安や恐れが世界中を席捲している今、「絶対的な存在」を信じ、己のモノの見方を変化させていくことの先にこれからの我々の生き方があるような気がしています。これからもこのことについて、いろいろな方法で皆さんにお伝えしていきたいと思っていますので、次回のドリルも是非楽しみにしていてください。


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