見出し画像

『BLEACH』千年血戦篇と天皇制、名付けることについて


アニメが始まったのであらためてBLEACH最終章について考えている。以下はその一端。全然まとまってない。


【注意!】
筆者はさいきん天皇制にちょっと興味が出てきて、身近なアニメや漫画などのフィクションの天皇表象について考えるのにハマっていて、『BLEACH』でもそれをちょっとやってみたのが本note(メモ)です。ただ、マジで天皇制にわかというか、天皇制エアプなので、学問的・政治的にナイーブな点はたくさんあると思います。あと『BLEACH』の記述についても誤りがあるかもしれません。あらかじめご了承ください。

『BLEACH』千年血戦篇および外伝小説のネタバレを含みます。ご注意ください


・天皇としての霊王

BLEACH千年血戦篇で描かれる霊王護神大戦とは、ようは天皇(制)を維持するか撤廃するか、というイデオロギー闘争である。天皇(制)=霊王(システム)

ここで主人公の黒崎一護や護廷十三隊の死神たちは体制の保守(右派)陣営で、ユーハバッハ(滅却師)側は制度(および「世界」)自体を無に帰すことを目論むラディカルな改革(左派)陣営である。 ただし、単純に右派が左派に勝利してハッピーエンド!!な話ではないのが肝心だ。

まず、ソウルソサエティを支える「霊王」の正体が、水晶のようなものに閉じ込められて吊るされた、四肢欠損して言葉も喋らない者/物だったことが象徴的だ。心臓も奪われているので、そもそも生きているのか判然としない。保守陣営が護るべき、かつ崇め奉る対象をこうしてまるで人柱のように描くシニカルな姿勢がある。

『BLEACH』世界において「死神」とはようするに秩序維持が仕事の"公務員"であり、『BLEACH』は(最終話で主人公に子供が出来て第一話を再演することからも明らかな通り)基本的に保守主義(血統主義・家父長制)を礼賛している作品である。さすが少年ジャンプの元看板漫画といったところか。しかし、こうして霊王(=天皇)を空虚で残酷なシステムの犠牲者として描くあたり、右派一辺倒ではないというか、独特のねじれがあるのも間違いない。



また、ネタバレになるが、最終章の後半で、「霊王」の前に立った黒崎一護は、”血”の運命に導かれてそれを「殺して」しまう。

右派陣営の「息子」が血に導かれて、右派の護るべき「神」を殺めてしまう──この筋書きには、どうしても最近この国で起きた事件を重ねずにはいられない。( 最終章アニメが進むことで、おそらく同じようなことを言い出す者は現れるだろう。すでにいるかもしれんけど)


最終的に、一護が殺した霊王の代わりに、「大戦」で戦った敵のボス=ユーハバッハ自身が、あらたに「護るべき神」という生贄の座に設られて、ほとんどの死神はそれを知らずに平和を享受している、という結末もものすごく皮肉である。

『BLEACH』が少年漫画として異色なのは、このように、最終決戦の結末がちっとも大団円ではないのにも関わらず、最終話で藍染惣右介(=久保帯人)がお得意のレトリックで「これは勇気の物語だ──」的にフインキだけでそれっぽくハッピーエンドにして終わってしまったところに(も)ある。

久保帯人がたびたび言い訳がましく発言している通り、連載されていた『BLEACH』本編はあくまで高校生の死神代行、黒崎一護の物語であり、ソウルソサエティや世界の体制という大きな話は、あの坊や(niño)の知るところではないという見方はある(実際、一護は真相を最後まで何も知らない)。あの終わり方も、そうした「本作を支配する主人公のパースペクティブの狭量さ」=「ちっとも大団円ではないのにそれに気付かずに大団円っぽく終えてしまう等身大の人間の浅はかさ」を表したものだと無理やり納得することは出来る。


実際の天皇(制)と霊王(システム)を同じようなものだと解釈して書いてきたが、当然、相違点もある。もっとも大きな違いは、天皇が実質的には何も権利も力(power)も持たないのと異なり、霊王は尸魂界(および現世・虚圏を含む「三界」)を文字通り支えている("力"がある)ということだ。一護が霊王を斬ったことで現世でも地震が多発するなど世界が不安定になり崩壊しかけるさまが最終章では描かれている。

政治に(直接の)影響力がない点は天皇も霊王も同じかもしれない。天皇の「象徴」であり「お飾り」であり「生贄」であるさまを戯画化したのが、四肢欠損させられ心臓まで奪われ物言わぬ人柱としての、霊王のあの姿である、と読むことはまぁ可能だろう。



・藍染惣右介とユーハバッハ

あと、ここではとりあえず最終章=千年血戦篇のみを扱って、主人公&死神側=保守陣営 vs ラスボス(滅却師)側=改革陣営 という構図に落とし込んだが、『BLEACH』の他の章ではまた話が違ってくる。特に、破面編のボスである藍染惣右介と、千年血戦篇のボスであるユーハバッハの思想の違いを検討することは必要だろう。

この2人はどちらも大雑把に「現状」が気に食わず、護廷十三隊に戦いを挑んだ、という点では共通している。しかし、わたしの理解では、藍染惣右介は「誰かを王として君臨させて世界を統べる」現状のシステム自体は認めた上で、自分がその王の座につく(「──わたしが天に立つ」)ことを目指した下剋上タイプの反逆者だったのにたいして、ユーハバッハはより根本的に、現行の世界のシステムの破壊を目論んだアナーキストだった、という違いがある。いや、ユーハバッハは生も死も入り乱れるカオス、もはや「世界」が存在しない世界を理想としているので、アナーキスト(無政府主義者)よりも遥かにラディカルだ。「無世界主義者」?(ラスボスの造形としてこれ以上ないくらい王道でひねりがないとも言える。)

最終章で描かれるユーハバッハと護廷十三隊の戦争は、世界のシステムをめぐる対立であると同時に、「世界-の-システム」という語が自明に成立するか否かをめぐる、形而上学的なイデオロギーの対立であったのかもしれない。
(星十字騎士団の連中の能力が段々となんでもありな抽象的で概念系のモノになっていったのもその反映だった?)

※ただし、小説『CFYOW』で語られる設定を鑑みると、霊王の正体は滅却師(の祖先・始祖)であるらしく、つまりユーハバッハは先祖の敵討ちあるいは先祖("父")を救うことが根本の動機だった節もある。すると途端にユーハも俗っぽくなり、血統に縛られずに、ただ自らの力を信じて高みを目指した藍染のほうがラディカル……というか、少なくとも(ネオ-)リベラルではあったとも思われる。ユーハバッハは筋金入りの血統主義者がゆえに一族の悲運を背負って世界の破壊を目指した者、たほう藍染惣右介は新自由主義者かつマッチョな個人主義者、という理解。最終話で藍染がユーハバッハの思想を退けて「進歩」=「勇気」の側に立ったのにはこうしたバックグラウンドゆえだと考えられる。雑にいえば『進撃の巨人』の(終盤の)エレンはユーハバッハよりも藍染惣右介を気に入りそう(藍染もエレンを気に入りそう)。



・「霊王護神大戦」というネーミング

後日談の小説で初めて導入された語なので、漫画『BLEACH』本編に「霊王護神大戦」という単語はまったく登場しない。よって新作アニメでも登場しない可能性が高い。戦争が終わってから事後的に名付けられた「霊王護神大戦」という呼称も、事の真実を知るときわめてアイロニカルだ。

果たして死神たちが「護った」神とは誰なのだろうか。
ほんとうに「護れた」のだろうか。
いまソウルソサエティを支えている「神」は、彼らが護ろうとしていたものなのだろうか。

わたしはこの「霊王護神大戦」という(本編に登場しない)ネーミングがすごく好きだ。それは、まさに戦争の「勝者」が、後の自らが統治する世に都合の良いように、「あれは何のための戦争だったのか」という目的/イデオロギーさえも事後的に粉飾して民衆に教育していくプロパガンダを、権力の賢しらな暴力を、(漫画本編-外伝小説というメディアミックスの枠組みまで使って)見事に体現しているからだ。

久保帯人はバトルが描けない作家だとよく言われる。特に多人数vs多人数の集団戦が苦手だと。ましてや「戦争」なんてなおさらだ。それは基本的に最後まで変わっていない。しかし「戦争」の具体的な戦いを描くのが下手でも、その代わりに、「戦争」を取り巻く「名付け」の次元のたたかい、それをいかなる「戦争」と名指すかをめぐる政治闘争を描くことに久保帯人は長けていた。(政治闘争というか、その結果だけではあるが。)


・『BLEACH』における名付けの重要性

さらに言えば、『BLEACH』にとって「名前」「名付け」は主要テーマの一つである。 「一護」という名の意味からしてそうだし、斬魄刀と死神の対話など「名前」の重要さを示す設定は枚挙にいとまがない。

また、BLEACHのバトルでは「自らの名を相手に名乗ること/名乗らないこと」「相手の名を知ること/知らないこと」という「流儀」をめぐるやり取りが、実際のバトル以上に重要になることが多い。 すぐに思いつくだけでも、ソウルソサエティ編の一護-一角戦や、アランカル編の一角-エドラド戦、剣八-ノイトラ戦などで、互いの「名前」「名乗り」に関する対話がバトルを根底で駆動していた。

『BLEACH千年血戦篇』アニメ第1話でも描かれた、「そういやまだ名前きいてなかったな」「答えておこう……イーバーン。アズギアロ・イーバーンだ」という非日常の始まりを告げるシーンも、『BLEACH』にとっていかに「名乗り」が重要か、という観点でみるとさらに深みが増すだろう。

さらには、最終章では零番隊の中心人物たる「最強」格のキャラクター:兵主部一兵衛が登場するが、彼の功績は「ソウルソサエティのあらゆる物事、概念に名前を付けた」ことであり、その斬魄刀「一文字」は筆の形、その能力は「切った対象の名前を奪い、書き換える」ことである(書き換えるのは真打・しら筆一文字の能力)。

このように、最強キャラの能力に「名付け」を与えるところからしても、『BLEACH』という作品がいかに「名付けること」を大事にしているかがわかる。


・ネーミングとデザイン

久保帯人はネーミングセンスがすばらしい、ともよく言われるが、それは、キャラクターや武器、必殺技のネーミングに限らない。 そもそも『BLEACH』でもっとも優れたネーミング、偉大な「発明」は、グリムジョージャガージャックでもアーロニーロアルルエリでもバンビエッタバスターバインでも「水天逆巻け、捩花」でも「卍解」でもなく、あの着物を着た侍のような格好の、体制の保守を使命とする ”公務員” を「死神」と名付けたことだとわたしは思う。

(もちろん、『BLEACH』作中では「死神」と名付けたのも兵主部一兵衛だという設定があり、こうして物語は巡る──)

ちなみに、あの和装束のキャラクターに「死神」と名付けたのではなく、さきに「死神」という名があったうえで、あの和装束のデザインが作られた──という筋書きのほうがおそらく史実的には正しい。(『BLEACH』読切の頃のルキアの初期デザイン案では、より西洋の死神っぽいデカい鎌を持っていた、というのは有名な話だ。)

ただ、ここで注目すべきは「ネーミングとデザインのどちらが先か」という点ではなく、むしろ、久保帯人の天才であるこれら2つが表裏一体の関係にある点だろう。 「そう名指されるものをいかにかたちづくるか」と「そうかたちづくられるものをいかに名指すか」というのは、表層的な順序関係・因果関係はあれど、本質的には、シニフィアンとシニフィエの戯れのなかで、その一対を世界からくり抜いて創り出すひとつの芸術活動であろう。

もちろん、言葉次第ではネーミングだってデザインの一環と呼べるだろうし、その意味でも久保帯人が「デザインセンス」に極振りした漫画家であることは間違いない。顔のデザイン、体型のデザイン、衣裳のデザイン、名前のデザイン、小道具のデザイン、世界観のデザイン、人間関係のデザイン、ページのデザイン、表紙のデザイン、エピソードのデザイン、すべてが天才的にうまい。(つまり逆にいえば、久保帯人の数少ない欠点──長期シナリオの構成と、膨大なキャラの扱い──は「デザイン」からはもっともかけ離れた仕事なのかもしれない)




おわり

またなんか思いついてメモが溜まったら放出するかも。千年血戦篇アニメの感想もメモ書きは溜まってるんだけどnoteの体裁に整えるのが面倒で二の足を踏んでいる状況。

いまいちばん欲しいのは、『BLEACH千年血戦篇』アニメの1カットごとに、原作漫画との相違点をあぶり出して、「良い」か「悪い」かを何時間でも議論できるBLEACH好きの友人ですね……(オタク仲間のなかでもBLEACHガチ勢はあんまり居なくてさみしい)

第2話でいうと、雨竜「今回は同行できない」→ 一護「いちおう声かけとかねぇとお前あとですねるだろ?」に対する雨竜の反応が良い方向に改変されてて、やるやん……!となりました。(もちろん雀部副隊長の葬儀シーンでの白哉の取って付けたような長弁舌全カット&無音演出も良改変)



【『BLEACH』にかんするこれまでのnote】

今の自分なら絶対に †クソデカ感情† なんて語は使わない


note公式に紹介されてワロタ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?