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ゲームに対する苦手意識と〈自分〉観について ~アイマスへの面倒なスタンスを添えて~



ここ数年、自分はゲーム全般にたいしてうっすらと苦手意識を育んでいることに気付いた。

小学生の頃は放課後にみんなでスマブラをやったり、ひとりでドラクエやマリオギャラクシーやどう森をやったりしていたが、最近はソシャゲでさえも全くやらなくなっていた。(なので、プロセカは本当に久しぶりにインストールしたゲームだった)

このnoteは「なんかしらんけど最近ゲームをやる気があんまり起きないな」という現象に気付いてから、「自分はこういう人間だからゲームが苦手なのである」という理由の後付け(でっちあげ)をおこなった記録である。

したがって、以下の自己分析は間違っているかもしれないし、そもそも後付けなのだから「完全に正しい」ことはありえない。(「完全に正しい後付け」とは一体どんなものだろうか?)


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なぜ私はゲームがあまり好きではないのか。それは、一言でいえば、ゲームが「作品の内部に自分がプレイヤーとして積極的に関わることができる」メディアだからだ。

ゲームがこうした性質を持つメディアだというのは当たり前の話だろう。小説や映画は、それを読んだり観たりする「わたし」が作品世界に干渉することはできない。小説の文章は書き換えられないし、映画の演出や結末は変えられない。フィクションに対して我々は部外者としてただ傍観・観測することしかできない。

こうしたゲームと他メディアの違いについては、LW氏による以下の論文『フィクション娯楽としてのゲームメディアの特異性及びそれに伴うメディアミックス時の対応例』が詳しい。

艦これアニメに興味がなくても読んでおいたほうがよい


つまり私は「作品の内部に自分がプレイヤーとして積極的に関わらなくてはいけない」からゲームが苦手なのだ。

逆に言えば、プレイヤーの干渉度が低いゲームであればわりと楽しめる。

例えば、1年ほど前からエロゲ・ノベルゲーの有名作を少しずつプレイしているが、ノベルゲーは画面に表示されるテキストを読むメディアだとすれば、実質本を読んでいるのと同じである。もちろん立ち絵やスチルや演出など、小説では不可能な様々な要素があってこそノベルゲーだとも思う(「マルコと銀河竜」など)が、他のゲームジャンル──アクションゲームやRPGなど──に比べて圧倒的にプレイヤーの干渉度は低く、自分とは独立した「作品」として「鑑賞」できるので、わたしはノベルゲームが好きだ。小説や漫画や映画を楽しむのと同様に、ノベルゲームをひとつの興味深い形式のメディアとして楽しんでいる。

※ノベルゲーにおいてプレイヤーが作品に干渉できる/しなくてはならない要素として「ルート分岐」は無視できないだろう。(ゼロ年代サブカル批評で語り尽くされてるだろうが。)もちろん、わたしはルート分岐があまり好きではない(1本道の完成度の高いシナリオのほうが好みだ)が、あえて肯定的に捉えれば、いくらルート分岐していても、それはプレイヤーたる私自身が物語に影響を及ぼしたというよりも、もともと複数のシナリオが用意されているところを一つ一つたどっているに過ぎない、と考えればセーフである。小説でも、コルタサル『石蹴り遊び』や、アリ・スミス『両方になる』のように、ストーリーが直線的でなく読み方が複数通りある実験的な作品は存在する。このような小説を読むときに、その小説世界に読者が影響を与えている、と捉えるひとはあまりいないと思う。あくまで作品内容はガッチリと固定・決定されていて、そこを読者が若干の自由度を持って鑑賞しているに過ぎない。(というか、若干の自由度を含めてガッチリと固定されている、といったほうが適切か)

『石蹴り遊び』『両方になる』ほか、色んな実験小説が紹介されている名著



閑話休題。

私は「作品の内部に自分がプレイヤーとして積極的に関わらなくてはいけない」、つまりプレイヤーの干渉度が高いゲームが苦手、という話だった。

ここで疑問が生じるだろう。「なぜ干渉度が高いゲームが苦手なの?」と。

答えはすでに用意してある。

それは、私のなかに

干渉度が高い=フィクションに自分が影響を及ぼす=自分の存在を主張することになってしまう「自分がいる」と認識してしまう

という思考回路があるからだ。

「自分がいる」と認識したくない。つまり、ゲームにしろ小説にしろ映画にしろ何にしろ、私にとってあらゆる娯楽作品・フィクションとは「現実逃避」のためにあるのかもしれない。

いや、現実逃避ではまだ微妙に正確ではない。「自己逃避」といったほうが正確だ。

「自分が存在している」ということから逃げたいのである。

誤解を恐れずにいえば、わたしは自分が存在しているとは思っていない。厳密には、「自由意志を持つ主体としての自分」の存在を否定したい。

なぜこのような非常識な価値観をもつに至ったか、というのは(やや話が重くなるので)ここではしない。

「自分がいないとかほざいているクセに『私は』って一人称使ってるじゃん」と指摘されるかもしれないが、なぜ「私は」という主語が使えることが「私が存在する」ことの十分条件になるのか? siriとか、そこらへんのAIだって「私は…」と喋り出せるだろう。

ゲームの話をしていたはずが急に哲学チックな話になって申し訳ない。ただ、「自分とは何か」とか「自由意志とは何か」という話題はもう何千年何百年と擦られ続けている議論であって、私にとって生命線である「私は存在しない」という信念は哲学的にみれば非常にお粗末でしょーもない、幾世紀も前にとっくに否定し尽くされたテーゼなのだろうとは思う。ちゃんとそうした哲学的議論を追えていないため知らないが……

とにかく、哲学徒でもない私が考えるようなことはしょーもない低レベルな話だろうから、ゲームの話に戻る。

ここまでデジタルゲームに絞っていたが、「自分の存在を感じてしまうからゲームが嫌い」というのはアナログゲームにも当てはまる。

例えば、私は人狼ゲームが大の苦手だ。清々しいほどに嫌いだ。

人狼に関しては嫌いな理由が多すぎて、正直、このnoteの文脈以外にも色々と挙げられる(単純にスリルが苦手とか、嘘をつくのが苦手とか、たくさんの人と場を共有するのが苦手とか……)のだが、この流れでふさわしい理由は「勝ち負けのある競争が苦手」というものだ。

べつに負けるのがイヤなのではない。勝つこともイヤ。

「競争」とは、それに参加する個々人が主体的自我をもって「存在する」ことを大前提としている。だから「自分が存在しない」と信じたい私のような人間にとって「競争」という概念じたいが忌避すべきものなのだ。

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窓ガラスから垂れるたくさんの雨滴のどれがいちばん早く下につくか「競争している」のだとする想像力も、雨滴の一つ一つを主体的存在だと見なすこと(擬人化)で成り立っている。

競争が嫌いなのはゲームに限ったことではない。例えば高校時代に校内模試や全国模試で成績上位者が公開される仕組みが本当に嫌いだった。(偏差値も大嫌いでほとんど見ることはなかったため、今でも自分の偏差値や進学した大学の偏差値がいくつなのか知らない。)

わたしにとって勉強や学びとは、他人とゲーム的に競い合うものではなく、広大な学問の世界に埋没することで、自分を無化する営みだ。そうであるべきだと思っている。「勉強がこんなにできる自分は偉い」ではなく、勉強すればするほど、自分の矮小さと寄る辺なさに自覚的になるはずだ、ほんとうは。

このような価値観なので、現実の高校生活で強制的に曝される競争としての勉強に心底嫌気がさして、あの頃は一人でずっと悩んでいた。(高3の受験期に近所の喫茶店で真剣に「自分がこの学問を学ぶ意味」や「この学問がカリキュラムに入っている理由」を科目別に考えてノートにひたすらペンを走らせていたのがなつかしい。受験勉強からの逃避だ、と思われるかもしれないし、実際そうした面が全く無かったとは言い切れないが、それでもあの頃の私は生きるために必死に、こうするしかないという切実さのもとでやっていたし、自分だけはそれを肯定し続けるだろう。)

わたしの勉強観をもっともわかりやすく反映している例が「高校数学は嫌いだが大学数学は好き」である。いや、高校数学の内容だってひじょうに豊かで面白く学びがいがあると思うが、あたかも「問題を解けるようになる」ために数学が存在しているかのような雰囲気(授業も、周りの皆も)が嫌いだった。大学数学でも試験があるにはあるが、それよりも、線形代数にしろ集合論にしろ微積分学にしろ群論にしろ、その学問体系を「理解する」ことが本懐であり、そのために授業や数学書が存在しているという雰囲気全般がとても好ましい。

似たようなことはこのnoteでも書いた。


こういうのを見ると、やっぱり本当に頭が良くて学問が好きなひとは、下らない受験数学ではなく大学以降の本当の数学をやっているんだな……と嬉しくなるし、才能の差がありすぎるとはいえ、憧れる。これで鉄緑会に憧れるようなひととは仲良くなれない。

ヤバすぎる



なんの話だっけ・・・?


そうだ、「〈自分〉というイデオロギーの上に成り立っているから競争が嫌いだし、ゲームも〈自分〉を意識させがちなメディアなので苦手。〈自分〉から逃避できる小説や漫画やノベルゲーや映画などのフィクション最高!」という話だった。


「なぜ私はゲームが苦手なのか」という当初の問いに答えは出たのでここでnoteを終えて夕飯の時間にしてもいいのだが、まだ語りたいことがある。

それは、自分とアイマス(アイドルマスター)について。

そもそもこんなnoteを突然書こうと思ったきっかけが、この記事を読んだからだ。

わたしはシャニマスをやっていないが、ネット上で、このようなシャニマスのシナリオの魅力を語る文章には頻繁に出会う。出会うたびに「・・・ちくしょお〜〜〜シャニマスやりてぇ〜〜〜」と思うのだ。なぜなら良質なフィクション作品に飢えているから。

やりてぇならやればいいじゃないか。私は親にソシャゲを禁止されている小学生ではない。

いや、実際シャニマスは何度もインストールしてプレイしているのだ。そもそもシャニマスのサービス開始初日にプレイしているので、VTuberやノクチルから興味を持ったような輩に対しては古参マウントをとれる。

「何度もインストールしている」ということはつまり「何度もアインストールしている」ということだ。1年に1度の周期でシャニマスがやりたい気持ちが高まってインストールし、そして数日経たないうちにアインストールしている。

なぜ即アインストールするのか。それは、シャニマスのゲーム性が苦手過ぎるからである。WING優勝のために何度も面倒なパワプロみたいな育成をしなければならないし、ライブではバーを帯のなかに入るようタイミングよくクリックすることを強いられる。アホらしい。

シャニPが他を下げるときに「シャニはクソみたいな音ゲーとは違って〜」と語るイメージがあるが(これは偏見だ)、シャニのゲーム性のほうがよっぽどクソだ。リズムもへったくれもなく「タイミングよくクリック」して楽しいか?楽しいどころか不快である。まだ音楽に合わせてノーツを叩く音ゲーのほうが(広義のダンスとして楽しめるので)マシだ。


私にしては珍しく口汚い言葉でひどいことを書いているが、シャニマスのシナリオやイラストなど、ゲームシステム以外の部分は最高だという前提で罵っていることを忘れないでいただきたい。

だから私はシャニマスをゲームとしてではなく、シナリオをまとめたテキスト作品としてか、映像作品として観たい。ゲーム部分が圧倒的にいらない。無駄に時間がかかるし……


しかし、その一方で、シャニマスはアイマスのゲームとして大きく間違ってはいない、とも思う。テキスト作品や映像作品のように客観的に消費することを許さずに、プレイヤーがゲームのなかで積極的にアイドルと関わり合い、コミュニケーションをとり、いくらかの時間を共にすることを求めるのは、アイマスとして「正しい」というほかない。

なぜなら、プレイヤーが "プロデューサー" という役割を担うのがアイマスというコンテンツの本質だからだ。

ここが他の2次元アイドルコンテンツとは決定的に違う点だ。プレイヤーは「P」として、ゲームの内外で担当アイドル(決して"推し"ではない)の成長を支え、その魅力を発信することが求められている。Pとしてのロールプレイを楽しむのがアイマスの遊び方の正道なのだ。


なんで偉そうにこんなこと言えるかというと、私はかつてデレマスPを1年間ほどやっていたからだ。デレマスというコンテンツの肝は言うまでもなく「シンデレラガールズ総選挙」である。ゲームの"外"(SNSなど)で、自分の担当アイドルに票が集まるようにPとして魅力を発信することが求められ、修羅の国だとか地獄だとか言われながらも(実際に"地獄"ではあるのだが)地獄だからこそ味わえる楽しさがある。この「アイドルをプロデュースして活躍の機会を増やす」という楽しさもまた、間違いなくアイマスの本質を突いている。

じゃあなんで1年でPを辞めたのかと言えば、それは自分の苦手とするゲーム性と、アイマスの本質("プレイヤー=プロデューサー"というロールプレイ)が見事に合致していたからだ。「自分がゲーム内に積極的に関わるのが苦手」なのに、「Pとしてアイドルと二人三脚でやっていく」ことが求められるアイマスに一度でもハマるほうがおかしいのである。

デレマスにハマったのは、森久保乃々という人見知りのアイドルがゲーム内で「こちらに目線を合わせる不具合」を起こしたのがきっかけだ。これが話題になって森久保乃々を好きになってアイマスに初めて触れた。

ハマるきっかけが森久保乃々なら、辞めるきっかけもまた彼女だった。というか、前述のとおりそもそも私の価値観とアイマスの思想が決定的に食い違っているのであるから必然といえる。

森久保に魅力を感じていても、それはアイドルとしての森久保乃々に魅力を感じていたのではなかったのだ。「人見知りで気弱で、アイドルを辞めたいとすぐに言う」という"アイドルらしからぬ"点に魅力を感じていた。

しかしアイマスはアイマスなので、そんな彼女が「立派なアイドルとして成長する様」をPとして応援することを楽しむのが担当Pのあるべき姿だ。私はそんな理想的な森久保Pにはなれなかった。アイドルとして成長すればするほど、自分の好きな森久保からは離れていくように感じられ、そう感じてしまう自分が心底嫌になったからだ。要するに私は森久保乃々に「弱くてダメな自分」を自己投影していたのだと思うし、それは本当は誰よりもアイドルとして自分を表現したい気持ちを強く持っている、森久保乃々という1キャラクターの尊厳を踏みにじる行為だったのだ。

もしも森久保乃々がアイマス以外の作品のキャラクターだったら、私は彼女をずっと好きでいられたかもしれない。プレイヤーがプロデューサーとしてアイドルを応援することを求められるコンテンツではなく、単なる「推し」とか「好きなキャラ」として消費することが許される作品のキャラクターだったら。

でも彼女はアイマスの、シンデレラガールズの森久保乃々だし、アイマスにおいて「アイドル」としてではなくキャラを推し続けることは非常に難しい。なにせコンテンツ全体がそれを前提に動いているのだから。プレイヤーはPとしてゲーム世界のアイドルたちに積極的にコミットするべきだ。それがアイマスの他にない面白さなのだから。

でも、長々語ってきたように、私はプレイヤーの干渉度が高いゲームが苦手だし、そして「アイドルとして輝く」森久保乃々が苦手だった。私の手で彼女を輝かせるのではなく、私がまったく干渉できない別世界の存在として、一人うずくまる彼女を見ていたかった。

今思えば、そんな私が森久保乃々を好きになったのが「こちらに目線を合わせるバグ」だったというのは、なかなかの皮肉だ。私のことを見つめてほしくはなかった。でも、そう思えるほど森久保乃々を好きになれたのは、彼女が私のことを見て、私の目に留まったからだ。最初から歪な出会いだったのだ。

(ここで"出会い"と書いてしまうと、あたかも私と森久保が同じ次元で邂逅しているみたいで嫌だとも感じる。私は最初から最後まで、自分のなかで矛盾を重ねて勝手に苦しんでいるに過ぎない)



※なお、センチメンタルに浸ってお気持ち回想文を書いているが、森久保乃々を応援してアイドルとして輝かせようと日々活動している森久保Pの方々のことは本当に尊敬している。私はそちら側にはまわれない、というだけで、Pの方々を否定する気は毛頭ないし、アイマスというコンテンツのことは今でもかなり好きだ。

これらのnoteを読んでくれれば、今でも私がアイマスというコンテンツに魅力を感じていることはわかってもらえると思う。というか、Pとしてではなく、外野からPの皆さんを眺める今くらいの距離感が、私にとって最適なアイマス受容なのだと思う。「俺達の少女A」は本当に最高の企画なので、アイマスに興味がなくても全オタク見てほしい。



デレマスに関しては以上だ。もともとはシャニマスの話だった。シャニマスのシナリオだけ読みたい。

なお、シャニマスもアイマスの1コンテンツである限り、プレイヤーがプロデューサーとしてアイドルに接するという私の苦手とする構造は変わらない。しかし、シャニマスのシナリオではプロデューサー自体のモノローグや自律的な行動が多々描写されるために、フィクション内の1キャラクターとして実在性が高い、ということはたびたび指摘されている。

つまり「シナリオのシャニP≠プレイヤー」という構図になるため、いくらシナリオでシャニPがアイドルたちと積極的に関わっていたとしても、それはプレイヤーたる私自身がアイドルたちと関わっていることを意味しない、と考えやすいのだ。

これはノベルゲー/エロゲーの文脈でさんざん議論されていると思うが、プレイヤー格として想定されている「主人公」がストーリーのなかで高い自律性を発揮した場合、「こいつは俺だ」という感情移入がしにくくなる。普通のギャルゲーだとこれはよろしくないこととしてマイナス評価をされる(俺じゃない奴が女の子とイチャイチャしてる!)だろうが、ゲームに干渉したくない私のような人間にとっては、荒廃したアイマス世界に差した一筋の光明だ

だから、私は思想が根本的に合わないアイマスであっても、シャニマスのシナリオを読みたいと思うのだ。でもゲーム部分がクソ過ぎてすぐアインストールしてしまうのだけれど……




以上!

ゲームへの苦手意識を分析することで自分の〈自分〉観をテキストにまとめることができたし、ついでにアイマスに対する一筋縄ではいかないスタンスも一通り書くことができた。とりあえず今は満足している。夕飯食ってきます。


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