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ヤマシタトモコ『さんかく窓の外側は夜』感想メモ


ヤマシタトモコさんの漫画『さんかく窓の外側は夜』全10巻を読み終えたので、読んでいる最中の感想メモを投稿します。



・1巻

こわい〜〜〜夜に読むもんじゃねぇ〜〜〜 非浦英莉可こわすぎる・・・
殺人事件とか幽霊とかホント苦手なんだな〜〜と再確認した。
「ホラー/サスペンスが苦手」は、例えば「SFが苦手」とか「百合が苦手」のような、その理由を分析するのも、そうであると表明するのも面倒なものとは違って、シンプルに怖いから苦手だと言えるから、ある意味ラク。ジェットコースターもお化け屋敷も嫌い。そもそも一度も乗った/入ったことがないから食わず嫌いなのだけれど、「食わず嫌いはいけない」とよく自身に言い聞かせる僕でも、この食わず嫌いは特に何も後腐れもなく放置することを受け入れられる。

台詞の活字がページ端で見切れてる演出はじめて見た。(初めて見たからいちおう記録しておくが、革新的だとは全く思わない)
ここでは、主人公の意識が朦朧としている状態で他人の声が聞こえた(listenではなくhear)ことを表現していると思われる。


・2巻

BL×霊能探偵モノって発想が面白いよなぁ。ただ、自分はBLに普段ほぼ触れないから珍奇に感じるが、BL好きならわりと多くの人が思い付けそうなアイデアって感じもする。鉛筆と消しゴムとか、床と天井とかで楽しんでる人たち(偏見)だからね……

BLにおける「受け/攻め」という非対称な関係を、霊能力のフィールドを借りて展開している。
一般的な霊能、いわゆる「霊感」は「強い/弱い」の1軸のみだけれど、本作では霊能にも「受け/攻め」や、あのイカサマ占い師の能力など、多元的な座標を設定している。2人いなければ(真価が発揮)できないのが行為ですからね。
男同士のバディ探偵モノといえば『仮面ライダーW』とかも思い出す。

タイトル通り三角関係モノ。男男女の三角関係で、ひとりの男(圧倒的""受け"")を別の男(束縛心の強い""攻め"")と女(まだ得体が知れない)が取り合う。
めっちゃ怖かったけど、非浦英莉可すごく魅力的なキャラだと思う。
BL中心の作品に存在感のある女性キャラが出てきたからそう感じるのだろうか? 自分がヘテロ男性オタクだから?
単純な可愛さとかではなく、なんというかオーラがある。オーラがあるように見せる演出がことごとく成功している。最初が怖さのピークで、意外に怖くない普通の女子かも?と思わせる流れもカンペキ。

それと、「受け」=所有される男性が登場するBLモノに「ヒロイン」=所有される女性が存在することで、互いにどう影響し合うのかが気になる。非浦英莉可は今のところ、三角(受け)を所有しようと狙っている「攻め」側なので、その意味でのヒロイン感はない。あれか、ヘテロ男性向け作品では女性キャラがそういう役割を負わされがちだけど、BL作品では、女性がそうした抑圧構造から多少は解放される作用があるのかな。だって、もう被所有者の座には「受け」の男性がいるのだから、彼女がそこに縛られる必要がないのだ。つまり、BL好きの女性のなかには、男性同士の絡みを楽しみにしているだけではなく、女性キャラが不当な扱いをされにくいから好ましい、と思って読んでいるひともいるってことかぁ。「ポジティブな要素の存在」だけでなく「ネガティブな要素の不在」もまた、そのジャンルを愛好する理由となり得る・・・。勉強になる。

見ることと信じることの関係もひとつのテーマ。
「信じていないものはその人に作用できない」
「見えるものを「見えない」と偽って信じないなんてことはできない/他の誰に意味がなくても 自分にとっては真実だ」

心霊系の漫画って、コマの背景にそういう描写を隠して入れてくるときがままあって超怖い。これは小説ではできないし、映像作品でもまた微妙に異なる見栄えになると思う。漫画の背景と映画の背景はぜんぜん別物だから。(そもそも映画で「背景」ってあんまり言わない気がする。どこにピントが合っているかによる相対的な属性であるから? でもアニメは実写映画とはまた違って、人物と背景のレイヤーが明確に分かれている。)
ピントといえば、主人公:三角(ミカド)が近眼であり「幽霊は眼鏡を外してもクッキリと見える」性質が、この作品のはじまりにあったことを忘れてはならない。ピント・フォーカスについてはホラー映画の分野で死ぬほど研究・議論されてるだろうな。
「見る」能力の三角と、「掴む」能力の冷川。視覚と触覚。(あと聴覚も冷川のほうが上らしい)

・3巻

天真爛漫な少女(女子高生)にヤクザのお付きがいる・・・こうした1つの類型って『セーラー服と機関銃』以前からあったのだろうか。

私/君の「核心」を見るとか触れるとかいった言い回しと描き方、人間像がかなりナイーヴというか、「キャラクター」的?
霊能力とか魂とか一見スピリチュアルで精神的な作品に思えるけど、この「核心」の描写などを見るに、かなり肉体的というか、即物的な人間理解が根底にあるように思う。(三角がカラダを鍛えていること、三角形の印が背中に刻印されることなどもその線??)
そもそもBL(の少なくとも一部)は(男の)肉体の描写を免れないわけで、それを霊や魂の次元に "すり替えて" 物語っているのがこの作品の基本的な姿勢だ。BLにおける肉体と精神。肉体描写を避けているわけでは決してなく、むしろ、通常のBLよりもさらに濃く深く肉体的なBLを追求した結果の「霊媒探偵モノ」なのかもしれない。


・4巻

三角の父親、やっぱり「先生」なのか? 別人?


・5巻

──それでいい、信じるな
疑え 自分を善良な存在だなんて間違っても思うな
人間はいつでもた易く悪に転じる 愚かで 卑劣で 弱い生き物だ 常に疑え
 (5巻26話)

半澤さんの名言
このめっちゃダンディなおっさん、『ハルカの国 明治決別編』のおっさんを思い出す

ヤマシタトモコ作品って話の進ませ方・ストーリーテリングがかなり独特なんだよなぁ 『違国日記』でも思ったけど。
筋を追うのが難しい。場面が飛んで、誰がどこで何をしているのか把握するのに少し労力を要する。特に本作では、心霊関連のお悩み相談で、1話毎に違う依頼者の違う事件を描くんだけど、5巻にもなってくるといちいち読者にわかりやすく、本日の案件を説明したりしなくて、いきなり仕事が始まっていつの間にか終わってる……という描写がままある。
上で引用した半澤回(26話)なんて、メイン2人がほぼ出てこなくて、サブキャラの半澤のある1日の仕事を映して終わる。しかも内容はかなりメインテーマにとって重要そうなことを話している。
4巻では主人公の母親と父親の出会いから別れの回想回が、なんの説明もなく挟まれてもいた。

あと、なんかコマ割りとか演出がドラマ的?な気がする。映画よりもドラマっぽい。ドラマあんま見たことないから直感でしかないけど。各話の締めの1ページで登場人物がひとり佇むコマで終わることが多い感じとか・・・。いやまぁよくある表現だけど……

やり手の刑事の唯一の弱点=美人妻がターゲットにされる・・・映画『セブン』で見たやつだ・・・
性差別的な意味での「奥さん」表象の一例でもあるか

そうですか? 常に選択肢はふたつですよ
するされる
 (5巻29話, 原文傍点)

すげえ直球に受け/攻めの価値観を持ち出してきやがった。冷川やっぱりか

5巻おわり。冷川の来歴が明かされてかなり話が進んだ・・・と思う。なるほど。
「きみは…被害者か加害者/どっちだ?」「運命は/まだ ずっと/探しているんですよ/いつか出会うわたしのための運命」
宗教団体で育てられた系といえば『輪るピングドラム』とか『Euphoria』とか色々と連想する。教祖系のヒロイン(男)
過去を知ってちょっと冷川がかえって「普通」のキャラに見えてきたなーやや残念
そりゃあ常識も語彙も無いわけだ。理由付けがされてしまって異様さが失われるやつ。
半澤さんは冷川と付き合ってきてよく「信じない」を貫いてこれたな・・・あんたのほうがよっぽど「とくべつ」だよ

冷川だけでなく、ちょっと変わった言葉遣いのセリフ回しが上手い。非浦英莉可もそうだし、占い師もそうだし、三角も。てか全体的にところどころで砕けた今風の言い回しとか、特殊だけど意味はわかる言葉を使う。あんま狙ってない感じで書けるのがすごい。

・6巻

31話
非浦英莉可のお付きのヤクザ。めっちゃ優しくてカッコいいヤクザ、『BEASTARS』のイブキを思い出す。
反社会的な危ない世界の住民だけど少女とかに甘い男の系譜ってあるよなぁ。『レオン』とかもそうか。
すごいロマンチシズムの産物っていうか、フィクションだなぁと思う。
男性オタクにとっての「オタクに優しいギャル」みたいなもん? 女性オタクにとっての「少女に優しいヤクザ」

6巻おわり!
いや〜〜〜〜 主人公、圧倒的""受け""とか言ってたけど、ここに来て少年漫画の主人公みたいな感じになってきた。グイグイと眩しくて正しそうなことを言って周りの人間を動かす。
すげぇ道徳の教科書みたいな話になってきたな〜〜〜こういう方向に行くのか〜〜 おそらく「盛り上がってきた」と言うべきところなのだろうが、個人的には思ってたのと(悪い意味で)違っていてやや落胆している。
いろいろやって最終的に素朴な道徳実在論みたいなところに落ち着いてしまうのか、それともこの作品の倫理性はそんな薄っぺらいものではないのか・・・・・・を、判断できる能力も意欲も今の自分にはない・・・・・・からわからん・・・・・・

非浦英莉可ちゃん、かわいいし良い子ではある(朝ちゃんのような)んだけど、正直、序盤の底知れなかった頃がいちばん魅力的ではあったな・・・・・。
その「魅力」は、彼女自身の非-抑圧的な境遇に依るものだから、彼女を魅力的だと褒めそやすこと自体が彼女への加害行為になる……ということが扱われているのかもしれない。
しかし、それにしても、やっぱり「優しいヤクザ」の逆木のようなキャラクターはあまりにもエンタメに寄りすぎてないか? こういう点で、やっぱり今のところは思想性もキレイゴトだと感じてしまうのはある。
「他人を踏みにじってはならない」とか「人を助けることはいいことだ」とかいった、三角が冷川や非浦英莉可にかける道徳的な言葉がこれから相対化されるのか否か。しかしこれでまだようやく半分だから、やっぱり期待してもいいのかもしれない。
まぁ『違国日記』だって道徳的・教育的な作品じゃんって言われればそうなんだけど、なんだろうなぁ・・・あれはもともとリアリズムで「生活」を描いているのに対して、こっちはオカルト要素を持ち込んでの「ドラマ」だからかなぁ・・・。

7巻の帯で初めて知った。実写映画での冷川役、岡田将生かよ!! 完全に『ドライブ・マイ・カー』じゃねえか!w
岡田将生ってそういうサイコパス系?の役をやることが多いんかなぁ。


・7巻

「…あるいは君の暴力的な善意にあてられたのかも」(37話)
いいですね。善意・博愛精神の暴力性。どうかこれが最後まで砕かれませんように

38話

──今日からおれたちは気に食わねぇ奴らの決めたコトに従わなきゃならない
大事なのはそれが自分の決めたコトじゃねぇって忘れねぇことだ

原文では強調→傍点
過去に逆木が非浦英莉可に言った台詞。めっちゃ良いこと言う〜〜

非浦英莉可がどんどん違国日記の朝ちゃんみたいになってる。倫理的なオトナからケアされる子供
占い師の迎さんもヤクザの逆木さんも、すごく倫理的なオトナで、それをリベラルな人たちは褒め称える(この世に非倫理的な大人が肯定的に描かれているコンテンツがいかに多いことか!)のだろうけど、ちょっと自分はそれにもノレない。
別に倫理や道徳を踏みにじるような血みどろの話(『ザ・ワールド・イズ・マイン』とか『殺し屋1』とか)をやれってんじゃないけど・・・・・・
うーむ・・・子供や人間への適切なケアが適切なかたちで描かれているとして、単にそれだけで持ち上げたくはないかなぁ。良いことだと思うけど、それがじぶんの作品への印象・評価に直結するわけじゃない、ということを本作を読んで感じている。
『違国日記』との比較が難しい。根本的にはほぼ同じことやってる気がするんだけど、なぜここまで印象が違うのか?

主人公が子供(学生)か大人(社会人)か、というのは大きいかもしれない。
三角も葛藤や成長がないわけではないが、朝ちゃんのように思春期で悩み盛りってわけではなく、より「ちゃんとしている」。
物語の主軸たる主人公が常識人かつ「善人」で、あまりブレがない。それが本作の「正論」の押し付けがましさに繋がっているとか?

40話

あいつらとの関係はたしかに希薄なんだけどさ
…でも本来ああいうやつらとのつき合いがおれの「戻る場所」なんだよ
毒にも薬にもならないけど 毒にも薬にもならないって大事なんだ
皆 お互いをぼにゃりとしか覚えてないけど だから おれも自分がおかしな奴じゃないって思える
「特別じゃない」って「許されてる」ってコトだ
(中略)…逃げ出せて初めて探せるんだろうな そういう「戻る場所」

迎→三角の台詞

4巻おわり

「先生」=三角父は、妻(三角母)の愛を横取りした自分の子供(三角)に嫉妬したってこと? 子供だ・・・
意外と小物っぽいけど、彼がラスボスじゃないのか?(そもラスボスがいるような話なのか?)

非浦夫妻にしろ三角夫妻にしろ、子供を愛するのは母親で、父親は子供を憎んだり利用したりする・・・類型的やなぁ


・8巻

44話

「きみの善意はやはり暴力的だ」再び。今度はもっと踏み込んで拒否ってる。

45話

お〜〜ここであの池つきの日本家屋の妖艶なお姉さんが再登場!! これは面白い展開

わたしは…
…人間ですよ
自分が人間だって自覚なんてする方が変だけど
皆 無自覚に信じてるんじゃない?

こういう台詞回しをしれっとやってくるのはホントすごいと思う

知らない人にはきっとわからないわ
憎しみさえあれば何だってできるのよ

何かを 心から憎んだとき
もう大切なものなんて何も持っていないのよ
そうしたら何だって壊してしまえる
それが呪うということ

非浦英莉可がフツーの良い子になってしまった今、信頼できるのはこの怖いお姉さんしかいない!!!
男ふたりの関係が中心にある本作で、ここに来て「受け」の主人公にこのお姉さんをぶつけてくるの完璧だな・・・
「わたしのお嫁さんにしてあげてもいいわ/わたしの子供をあなたが産むってこと」

しかし何か主人公の真っ直ぐさに負けてなんかあっさり帰しちゃったよ。あーあ

8巻おわり
えーと、子供だった冷川が教団を破壊するときに母親に閉じ込めた憎しみを「先生」が拾って力を得ていた・・・ってことは、最終的にラスボスは先生じゃなくて冷川になりそうだな。まぁ妥当か

「運命」(の人)を待ち望むこと、運命という概念・イデオロギー自体を批判的に扱っている雰囲気なのはすごく好きというか期待できるんだよな


・9巻

48話
で、でた〜〜〜〜www 「そのときはあたしが殺してあげるね」奴〜〜〜〜〜wwwww

49話
「攻め」だった冷川がどんどん囚われのお姫様ヒロインに・・・

あとBLモノで「子供を殺しておけばよかった」と言うラスボス?を登場させる意味と効果について考えたい。

51話
非浦英莉可と逆木がアンデッドアンラックみたいになってて草

9巻おわり
はーーーーほんとに少年漫画の終盤みたいな、ラストダンジョンで味方のパーティがそれぞれ分散して戦うやつやってる。逆木に「死を消す」力をここで付与したのも狙い過ぎててウケるけど、まぁいちおうロジックは通ってるのがまた・・・・・・

このまま普通に三角が父親との過去を清算してヒロイン冷川を助け出してHAPPY END.. だろうな。あるいは土壇場で冷川が三角を庇って死ぬとか、なんかそんな感じのドラマチックでエモいやつ。

英莉可&逆木ペアは読者人気あるだろうな〜〜 半澤さんも迎もカッコいいし。
これは案外メインCPよりも周辺キャラの人気比重が高いパターンか?


・10巻

おわり!!!!
・・・・はい!!!ぜんぜん好みじゃなかった!!!!!
ラスボスのパパは小物だし、冷川は"堕ち"てつまらない人間になっちゃうし、三角は終始一貫して正しくて眩しすぎてウザいし、非浦英莉可は良い子になっちゃうし、逆木は優しすぎるし英莉可との関係が露骨だし、半澤さんは聖人だし、迎も冷川を見捨てなかったし・・・・・・ というわけで、最終的にいちばん好きなのは沼の家の「呪いと人間のハイブリッド」のお姉さんかなぁ。

三角がパパに向かって「おまえとは血しか繋がってない」と言いながら、英莉可の霊能の血の手形に触れるのはなかなかニクい演出。
夫の呪いが解けてすべてを思い出した三角ママの「…空っぽだったから大丈夫」もさすがに名台詞

このように細かく見ていけば良いところはいっぱいあるんだけど、総括すると「好みじゃない」に尽きてしまう作品だった。
なんかな〜〜 こないだ観た『電脳コイル』の終盤のような、フシギ空間で素朴な(保守的な)愛などを持ち出してメインふたりの「絆」を称揚する展開が本当に苦手なんだとよーくわかった。
おそらく、擁護/評価しようと思えばどうとでも言えるタイプの作品なんだけど、そうしようとはまったく思えない。
説教臭すぎる。表面的な説教臭さだけを読み取って酷評してしまう読者は愚かで、よく読めば、「説教臭さ」をいかに周到に回避しながら「説教」を誠実にやっているのか、正しいこと・善いことを真正面から肯定するといういちばん難しいことに取り組んで成功しているのかがわかるはずだ……!みたいなことを、たぶんやろうと思えば書けるんだろうけど、そういうところも嫌いだなぁ。
「運命(の人)」という概念にとらわれることがいかに愚かで暴力的なことかを扱った上で、最終的に「運命」を肯定し直す。それも僕は気に入らないのだけど、おそらく、最終的に再肯定された「運命」とは、当初の検討を加えられる前のそれとは一線を画している。「運命」の有害さ=呪いを丁寧に解きほぐしていく過程こそが本作の歩みなのだ……!的なことも言える気はする。でもめんどくさいので、僕はいくら表面的だろうが怠惰だろうが「逃げている」のだろうが、それでいいや。
有害な宗教団体というモチーフも(主人公達と読者にとって)都合が良すぎるってか雑すぎるしなぁ。宗教団体の使い方部門なら田島列島『子供はわかってあげない』のほうが遥かに優れている。

BL作品としての読み、特に「肉体性」を呪い・霊能の分野でどう追求するのか、みたいな観点でも序盤は興味深く読んでいたけど、後半は好みじゃなさすぎて、そういう解釈を深めるモチベもいっさい失いました。最後まで楽しめた人に任せます。

ヤマシタトモコ、めっちゃ恵まれた脚本力を駆使して道徳の教科書みたいな説教をする作家なのかもしれない・・・・・・
登場人物がみんな「良い人」で、常識が欠如していたり非倫理的だったりするキャラも、物語のなかで実に都合よく「治療」されて光属性に堕ちていくかんじがめっちゃグロテスク。まさに暴力的な善性。(「呪い」モチーフといい、同人ゲーム『ファタモルガーナの館』に似てるかもと少し思ったけど、さすがにあれよりは強度があるか)

こういうの読むと、志村貴子作品がいかにヤバいかを再確認させられる。反社会的なことを、露悪的にならずに「まぁそういうひともいるよね」と、さらっと描けてしまう。物語のなかで矯正されるべきキャラクターとしてではなく、ただその世界に生きているひととして登場させる。それどころか、そんなヤバい人間だけで一本の漫画を描いてしまう。

『違国日記』をもう一度読み返したら、前のようには楽しめないかもしれない。ヤマシタトモコ作品の「正しさ」が僕はこわい。でも、だからこそ、そんな「正しさ」がどこに到達するのかには興味がある。違国日記の感想でも言ったけど、こういう人にこそ反出生とかヴィーガニズム要素のあるフィクションに取り組んでみてほしい。暴力的な善性を引っ込めるのではなくて、思い切り伸ばしていった先に何があるのか、その地平の景色を描く力のある作家だと信じている。




『違国日記』最新巻までの感想メモはこちら


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