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はやみねかおる『都会のトム&ソーヤ』の続きを大人になってから久しぶりに読んだ



こないだ、『怪盗クイーンはサーカスがお好き』のアニメ映画版を友だちと一緒に観てワイワイ語り合った流れで、はやみねかおる再読の機運が自分のなかで高まっていた。

そこで、年末年始に実家に帰ったついでに、本棚に刺さっていた『都会のトム&ソーヤ』の新刊(というか、読んでない巻)を手に取って読んでみた。

どこまで読んでいたのか正直あやふやだったが、13巻『黒須島クローズド』はたぶん読んだ覚えがある(最後のチャプターが印象的だった覚えがある)ので、14巻から読んだ。

このnote投稿の2023年2月現在では、マチトムは19巻まで刊行されているようだが、そのとき実家にあったのが15巻までだったため、14巻『《夢幻》』(上下巻)と15巻『エアポケット』を読んだ。以下はその感想である。



・都会のトム&ソーヤ(14)《夢幻》

久しぶり(十数年ぶり)に続きを読んだマチトム、『夢幻』上巻では懐かしいキャラクターたちとの再会を楽しんで思い出しながら読めたが、いざ内人と創也の新作ゲーム「夢幻」が始まる下巻はどうも肩透かしにおわってしまった。

最大の原因は、「夢幻」のゲーム内容自体に特に面白みを感じられなかったことだ。確かに装着型ARデバイスにより仮想現実と同期させてプレイヤーを攪乱するのはすごい。けど、それはそれを実現する倉木博士の技術力がすごいだけだ。(あるいは創也たちの中学生とは思えない資金力)
ゲームはそのテクノロジーに全面的に依存しており、内容自体はごくありふれた宝探しゲームである。嗅覚・勘がすごければスタート地点から瞬間的にクリアできるようになっているなんて、現実世界のゲームオタクの目に晒されたらクソゲー呼ばわり必至だろう。

それに加えて、本巻ではネズミというゲーム外の敵(バグ)が盤面をかき回しまくり、一冊のうちの多くは対ネズミの物語に費やされるため、ゲーム本体の魅力の伝わりにくさがいっそう増している。ネズミさえいなければもっとちゃんと面白そうなゲームだったのに、と惜しむことができればまだいいのだが、正直そうとも思えず…

南北磁石の前作「怪人は夢に舞う」は作中で明確に失敗作と断じられ、内人と創也の始めて経験する大きな「挫折」として、物語上での納得感や意義深さがあったと思うのだが、今回は成功とも失敗ともつかない、きわめてスッキリしない評価に終わる。神宮寺直人はジュリアスが別人格ジュリエットを無意識に自覚していることを明らかにしてくれた点でやや感じ入っていたようだが、それもゲーム内容ではなくあくまであのARデバイステクノロジーの功績である。その延長で、すでにこの世にいない「逢いたい人」に出会えてしまう点を指摘して、「夢幻」のゲーム性を批評してもいた。しかし、この問題点だって、冷静に考えればゲームシステムそのものの有する欠陥というよりは、脳波から装着者の深層心理までをデータとして読み取って再現することのできるテクノロジーの問題であり、実はゲームとは何も関係がない。「夢幻」と関係ないところであのデバイスを手に入れてしまった者にも同様の(醒めない夢に陥る)危険性が発生するのだから。

つまり、創也たちの作った新作ゲーム「夢幻」は、その長所も短所も、外注したARテクノロジー部分に集中しており、ゲームシステム・内容自体は良くも悪くもない、無味無臭の、真にまったく存在する意義がないものであるということだ。

あいにく『怪人は夢に舞う』の巻の内容を完全に忘れているため、南北磁石のRRPGが前作から今作でどう変わって進歩したのかを比較検討することは出来ないが、ゲームとして本質的につまらないものが失敗作と言われない今回のほうがはるかに「失敗」であると思う。

腫れ物を避けるかのように「夢幻」へのハッキリした評価はされておらず気持ちが悪い。曖昧なまま何もかもを保留にして深遠そうな雰囲気を醸し出すことこそが〈赤い夢〉ではないだろう?

思い返せば、本巻で「夢幻」の舞台・竜王学園中等部を貸し出すなどの出資・提供をした竜王グループ総裁(創也のおばあちゃん)は、孫の作ったゲームの無内容さにはじめから気付いていたのかもしれない。だからネズミという産業スパイを誘き寄せて捕まえるためのダシに利用したのではないか。だからユラさんは早々とゲームから降りてしまったのではないか。

願わくば、南北磁石の次回作はもう少し面白そうなRRPGであってほしい。


都会のトム&ソーヤ(15) エアポケット

前巻『夢幻(下)』では最後に伝説のゲームクリエイター集団のリーダーたる威厳を創也たちに見せつけた神宮寺直人が、この巻の最終部ではバックグラウンドが少し語られるとともに新キャラに格の違いを見せつけられ、小物っぽさ(あるいは「親しみやすさ」)を上げる。

小中学生の頃に愛読していた『マチトム』シリーズの未読巻を十数年ぶりに読み返していて、同時ほどはやみねかおるの描く世界に夢中になれないのは、そのまま自分が児童文学の対象読者ではなくなってしまったことの証左だろうから哀しいなぁと思いながら読んでいるのだか、しかし、どうやら他の理由もあるのではないかと思い始めた。というのは、はやみねかおるが本シリーズで提示する「ゲーム観」(および「フィクション観」,「〈赤い夢〉観」)が、自分のそれとは根本的に違うのではないか、というものである。

前巻『夢幻』でも扱われ、本巻でも言及される「究極のゲーム」とは「退屈な現実世界を、ゲームの世界そのものに書きかえ」p.262 るものらしい。そんな元祖栗井栄太の遺伝子を受け継ぐ梨田奈亜は、神宮寺から依頼されて内人と創也の学校を舞台に創り上げた「呪い鬼」のゲームで、2人を殺意満々で狙いにかかる。

ここで不満点は2つある。

ひとつ目は、前巻で南北磁石が作ったR・RPG「夢幻」と同様に、本巻で梨田が披露した「呪い鬼」ゲームもまた、ゲーム内容そのものは凡庸な謎解き/宝探し/脱出ゲームであり、ちっとも面白そうに思えなかったこと。特にラストで梨田が現栗井栄太をも超えるゲーム制作の才能をもつキャラクターであると明らかになったことで、かえって「えぇ、あんなので良いのかよ……」と落胆してしまった。

ふたつ目は、梨田が本気で内人たちを殺そうとするところ。ゲーム内での死が現実世界での死と同義であることは、すなわちゲームと現実が一致してしまっていることを表す。まさにこれが、上述した「現実をゲームそのものに書き換える」というマチトム流(はやみね流)究極のゲームの方向性なのだろうが、これが自分のゲーム観とは相容れない。現実世界と一致してしまうのでは、ゲームがゲームたる意義も資格もないのではないか。呪い鬼に実際に殺されるかもしれないことがゲームの根本的なスリル、ハラハラドキドキ感を担保している(それ以外はおまけである)のは、果たして「良いゲーム」「面白いゲーム」なのか? 真に面白いゲームとは、そのゲーム内でのペナルティが現実の自分にはまったく影響を及ぼさないにも関わらず、それでも、そんな現実の自分のことなど忘れてのめり込んで夢中になってプレイしてしまうようなゲームなのではないか?


※以上のような私のゲーム観はこの↑noteでも詳しく語っている。


しかし、この梨田の作ったゲームの瑕疵は少なくとも2通りの観点で擁護できる。

まず、梨田は天才的なゲームクリエイターの才を父親から受け継いでいるにもかかわらず(それゆえに)ゲーム作りを憎んでいるキャラクターである。本名もクリエイターとは真逆の「クリーナー」の意を冠している。だから、この呪い鬼ゲームは、それ自体がゲームの根源的な尊厳を破壊するために作られたゲームであるかもしれない、ということ。

そして、ふたつ目はマチトムのジャンルに関わるものである。マチトムはその元来の参照元(マーク・トウェイン)からも明らかなように、現代日本の街での中学生たちの「冒険小説」である。(多くの場合、)冒険には「死」のスリルが必要不可欠だ。だから、上での自分のモヤモヤは、「冒険」と「ゲーム」を混同してしまっているがゆえのものかもしれない。ゲーム作りというのは冒険のひとつの要素、方便に過ぎなくて、マチトムは本質的に冒険小説なのだから、死のスリルを利用した作劇は批判の対象にはならない、ということ。


しかしこの方向では、マチトムの「ゲーム作り」要素および〈赤い夢〉とは何か、という大きなテーマの重要性を下げてしまうため、あまり建設的ではない気がする。

いずれにせよ、この「死のスリル」および「ゲームと現実の関係」問題は、マチトムの冒険小説としての側面と、ゲーム制作モノとしての側面の衝突・葛藤を起源としていることは確かだと思う。


・他に書きたいこと
掃除中の即興の野球ゲームの色褪せない魅力について。

ここまで、呪い鬼ゲームへの文句を書き連ねてきたが、本巻で「良いな」と素直に思えたところ、マチトムに夢中だった「あの頃」の感覚が蘇った箇所もある。
それは、学校で物置を大掃除しなければならなくなった内人たちクラスの男子が、余りの時間を計算して「第一回物置杯争奪大野球大会」を始めるところである。(p.86~)

クラスの男子たちが(創也も含めて)一致団結して馬鹿をやる青春の雰囲気がたまらない、というのが最も大きな理由だが、ここで行われる即席の野球「ゲーム」自体もまた魅力的にうつる。

初期のマチトムでも、音楽室で即席の野球大会をやるくだりがあったのを覚えている。また、学校の階段などまで利用しての「3Dボウリング」には大きな衝撃を受けて、家で真似して遊んでみたこともあった。

昔も今も、自分にとってマチトムの面白そうな「ゲーム」として頭に浮かんでくるのは、こうした日常生活のなかの下らない「遊び」であり、「夢幻」や「呪い鬼」のような、大がかりな、生死のかかったR・RPGではないのだと思う。

これら3Dボウリングや即席野球大会などの些細な遊びもまた、たしかに現実世界の建物や道具、時間などを利用しているが、現実を書きかえるゲームとか、現実そのもののゲーム化、というよりは、現実のスキマに入り込んで、現実を適宜活用しながら、日常生活のなかに「ゲーム」というフィクショナルな空間、遊び場を暫定的に創り上げるもの、というほうがしっくりくる。
小難しく言っているが、要するに、かくれんぼや鬼ごっこ、おままごとといった、子供なら誰でもやっている遊びだっておんなじことだ。

小さい頃の自分が『マチトム』に魅せられたのは、こうした身近な遊びの「一歩先」にある、頑張れば自分たちも真似してできるかもしれない「ゲーム」や「冒険」を巧みに描いてみせてくれるからだ。ふたりが “深夜のデパートや下水道で冒険する” (p.220) のを読んで、じぶんもやってみたいと思った。やれるかもしれないと思った。だって、デパートや下水道は身近な、手の届く存在だったし、それでも内人たちのような冒険は子供には普通できないことだから。

しかし、本気の殺人鬼と対峙する呪い鬼ゲームや、数億円の予算がかかった超高性能のARデバイスに全面的に依存した「夢幻」などのRRPGは、身近でもないし、真似したいとも思わない。内人たちは確かに命の危機を間一髪切り抜けて大活躍するが、そもそもそんなに「楽しそう」に思えないのだ。それが致命的だと思う。冒険としてのスリルや規模、RRPGというゲームとしての凄さやコンセプト、あるいは内人たちの活躍の派手さばかりを追求することで、マチトム当初の、読者である子供たちの身近な手の届きそうなところ──それはオフィスビル街の隙間の狭い路地へと曲がって入り込んでいくことかもしれない──にある冒険のワクワク感から離れていってしまっているのではないか。

とはいえ、物語のスケール感や刺激がインフレするのはシリーズ物一般のさだめであるし、初期の趣そのままを期待し続けて裏切られるのは多分に仕方ないのかもしれない。




・終わりに

こちら↑の記事でも挙げたように、はやみねかおるは小学生の自分を本の世界へと導いてくれた、とても大きな存在の作家であり、特に『都会のトム&ソーヤ』(マチトム)シリーズはいっとうお気に入りの作品であった。本noteは、十数年ぶり(?)にマチトムの続きを読んでみての率直な感想の殴り書きである。『マチトム』にオタク長文文句を垂れる大人になってしまったことがほんとうにかなしいよ……(「ほんとうにかなしい」ってお前、ほんとうにそう思ってるのか? そう言っとけば哀愁漂うだろうというパフォーマンスではないのか?)

残念ながら好意的な感想は抱けなかったが、むろんこれで『マチトム』シリーズ自体への興味が失せたわけではない。むしろ、本当に14,15巻の内容が合わなかったのか、それとも単に自分がマチトムを楽しめる感性を失ってしまったのか、その真相を確かめるためにも、16巻以降も読まなくてはならない。

ちなみに、実家で『名探偵夢水清志郎』シリーズの第1作目そして五人がいなくなるも10数年ぶりに読み返してみたら、やっぱり面白かったです。「やっぱり」というか、ミステリーのトリック自体はしょうじき小学生当時から「ガバガバだなぁ」と薄々思いながら読んでいたので、そこでいまさらガッカリするようなことはなく、『夢水清志郎』シリーズの真骨頂およびはやみねかおるミステリーの真骨頂は"そこ"ではないと再確認できました。また、シリーズ第1作ということで、語り手である岩崎亜衣(たち三つ子)の、「語り手」としての自我・アイデンティティの芽生えが裏テーマになっている(隣に引っ越してきた「名探偵」に「自分」を見つけてもらう始まりの物語)と解釈できて感動的だなぁ……などと、今読み返すからこそ「発見」できる面白さがありました。モチベがあったら『そして五人がいなくなる』や他の夢水シリーズの再読感想もちゃんと書きたいですが、今のところ可能性はごく低いです。

また、いつも心に好奇心(ミステリー)!という、はやみねかおると『パスワード』シリーズの松原秀行がそれぞれ中編を書き下ろしたものが載っている本も読み返したのですが、こちらも今読んでも非常に面白かったです。はやみねかおるのほうは「怪盗クイーン」初出の地味に重要な作品であり、今読むと、かなり政治的イデオロギーの話が盛り込まれていて興味深くもありました。松原秀行のほうは、「回文」と「AIロボット」をテーマにした、パスワードシリーズらしい軽妙で楽しい話で、こちらも今のじぶんが読むと、「『回文』とは言語の線条性・一方向性(時間性)を超越せんとする営みであり、これはパスワード電子探偵団の毎週のチャットが口頭ではなくパソコン上のテキストチャットで行われている(文の頭から順に発されるのではなく、最初から最後までが一瞬で「発声」される)ことと上手く結びつけて解釈できるのではないか……?」などとメタフィクション的な読みをしたくなって面白かったです。あとは単純に両シリーズの愛読者として、両作のキャラが作中で共演して一瞬交錯するのが激アツすぎる・・・。(だいたい言いたかったことは書いてしまったので、やっぱり独立した感想noteは書かないだろうな……)





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