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書評『数学ガールの秘密ノート/行列が描くもの』


"《星を見る》と《星空を見る》は同じか。"

(結城浩『数学ガールの秘密ノート/行列が描くもの』p.135より)



 今月17日に発売された数学ガールシリーズ待望の最新刊『数学ガールの秘密ノート/行列が描くもの』が素晴らしかったので紹介文を書きます。


・今回のテーマは『行列』

 『秘密ノート』シリーズでは毎巻ごとに、数列・微分・積分・場合の数・統計・三角関数・ベクトルなど、主に高校数学で扱う範囲のテーマを決めて数学ガールたちの"数学物語"が紡がれます。

 そして記念すべき10巻目となる本巻のテーマは、満を持して「行列」です。ここ最近は高校の教科書から外されている行列ですが、大学生にとっては多くの学生が「線形代数」としてまず学ぶことになる、超が付くほど重要な科目です。

 大学生が入学して早々につまづかないため、だけでなく、「まだ行列なんて知らなくてもいい」と思っている高校生にも、数学の面白さを伝えるのに本巻は最適だと感じながら読み進めました。以下、わたしが特に感動したところを台詞を目印に紹介していきます。


・「ゼロって何?」(p.1)

「ねー、お兄ちゃん。ゼロって何?」

 一言目からスゴい。今回の数学ガールは、「僕」のいとこの女子中学生ユーリのこの一言で幕を開けます。数学ガールは"対話"によって話が進みますが、対話にはまず"質問"が欠かせません。数学ガールの根底にはこのような素朴な質問、疑問があるといって良いでしょう。

 あなたはユーリのこの問いに答えられますか?ページを開いてすぐ目に飛び込んでくる「ゼロって何?」によって、わたしたち読者は数学ガールの世界へいざなわれるのです。


・「0はそういう数だし、そういう数は0だけ」(p.3)

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(p.3より引用)

 次にわたしが感動したのは上の「僕」の台詞の最後「0はそういう数だし、そういう数は0だけ」という部分です。ユーリの「0って何?」という疑問への回答ですから、「どんな数に掛けても値が0になる」という0の持つ性質を挙げるのは妥当でしょう。それが前半部「0はそういう数だし」ですが、驚いたのはさらに後半「そういう数は0だけ」と、必要性だけでなく十分性にまで言及している点です。

 数学ガールでは何度も強調されていますが、数学において必要十分性に気を配ることはとても大切です。この次のページで説明している「同値」の概念のためにも、ここでサラッと必要十分性への配慮を見せてくる「僕」の丁寧さ、ひいては作者結城先生のキャラ造形力と構成力には頭が上がりません。


・「難しくないけど、おもしろくもない」(p.10)

 「ABはゼロに等しいけど、AとBはどちらもゼロじゃない」不思議な"数のようなもの"として、ユーリに行列を説明し始める「僕」。数をタテヨコに2×2で並べたものが行列だと聞いて、物分りの良いユーリが発する台詞が「難しくないけど、おもしろくもない」です。

 何気ない台詞かも知れません。でも、わたしはこうした台詞こそが数学ガールの真骨頂だと思います。

 考えてみてください。あなたは、学校や塾で数学や他の勉強を教わっているときに、同じような台詞を言ったことがありますか。そんな人はあまりいないと思います。勉強をしていて「おもしろくない」と気軽に言える環境はめったに存在しないからです。

 この台詞から分かるのは、ユーリはこれから教わる行列というものが「おもしろいもの」であることを期待している、ということです。「僕」が自信げに説明し出したのだから、きっとおもしろいに違いない。このように、数学ガールは、学ぶことへの期待感に満ちています。だから、読んでいるこちらも「数学っておもしろい!」と思えるのです。

 勉強しているときに「おもしろいかどうか」を気にしたことがない、そもそも勉強がおもしろいはずがないと思っている人は、どうか数学ガールを読んでほしい。

 数学は"おもしろい"んです。だから、もしもつまらないと感じたら、あなたもユーリのように「どこがおもしろいの?」と、(非難ではなく期待感の現れとして)どんどん言ってほしい。それができるような環境が、現実にも増えるといいなぁと思います。


・「二種類のプラスって?」(p.19)

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(p.19より引用)

 行列の和の定義を説明した「僕」は、ユーリに「二種類の+が出てきたのに気づいた?」と問いかけます。数同士を足すときの+と、行列同士を足すときの+で、使っている記号は同じだけど厳密には違う意味(はたらき)を持っている、ということです。

 この指摘、とっっっても大切だと思います。大切なのに、どんな数学の教科書にも書いてないことなんです。数学ガールには、このように「大切だけど教科書には載ってないこと」がたっっっくさん書かれています。初めて読んだ人が「もっと早くに出会っておくべきだった…」と後悔するのはこのためです。

 この「二種類のプラス」と似たような話で、わたしは大学の物理数学の授業で大きな衝撃を受けた経験があります。それは「二種類のイコール(=)」です。
 物理の数式に出てくるイコールには「数学の=」と「物理の=」があり、前者は単なる数学的な操作で変形したときのもの、後者は数学的操作では絶対に結びつかず、物理法則(ニュートン力学なら運動方程式など)を使うことで初めて関係づけられるものです。
 この2つが混在する例として「中心力のみを受ける質点の角運動量保存則を導く」という(よく定期試験に出る)簡単な問題があります。

 また数学に限っても、恒等式と方程式、それから定義式に出てくるイコールの区別については過去の数学ガールでも扱われていました。
 どの例にしても、同じように見える記号の異なるニュアンスの違いに気を配ることは、その学問を"ちゃんと"理解するために大切な態度だと思います。



・《先生トーク》と「あー、まちがったかー!」(p.22)

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(p.22より引用)

 以上の会話の応酬、とても"上手い"と思います。何が上手いって、とてもリアルなところです。おそらくあなたも、授業中に先生に当てられたとき、おそるおそる答えたあとの先生の反応で「あー、まちがったかー…」などと一喜一憂した経験があるのではないでしょうか。「教える側ー教わる側」という関係の二者の対話では、このような《腹の探り合い》が半ば必然的に起こってしまいます。

 ですが、《腹の探り合い》は数学を学ぶときにはなるべく避けたいものです。生徒には、先生の顔色を伺うのではなく、ちゃんと聞かれた内容に意識を向けてほしいと教える側は常々思っているはずです。

 結局ユーリは"まちがって"いなかったわけですが、「正解したのに、何で聞き返したの?」と問い詰める彼女に対して、「僕」はそう答えた理由を知りたかったからだと答えます。そうなんです。現実の授業であっても、先生側が生徒に質問するのは、正しい答えを導いてほしいわけでも、間違った人を断罪したいわけでもなく、生徒にしっかり"考えて"ほしいからです。ちゃんと考えて、自分なりの理由を付けて答えてくれれば先生は、あなたがちゃんと考えていると確認できるので満足すると思います。
 そのため、リアルな教室でのやりとりを再現しているこのシーンは"上手い"と感じるのです。


・「《当たり前》って言えるのは」(p.25)

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(pp.24-25より引用)

 ここに関しては、何も言うことはありません。まさに書いてあることはその通りだと思います。でもとにかく数学ガールらしさが存分に詰まったいいシーンなので紹介させていただきました。最後のユーリと「僕」のもはや定番となったやりとりも、ほほえましくて良きですね。


・《重要な問いかけ》(p.38)

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(p.38より引用)

 零行列の次に、2人は行列の世界の「1みたいなもの」として単位行列を定義しようとします。「成分が全部1」の行列が単位行列だろうと言うユーリに、「僕」は目を輝かせながら『1とはどういう数か』という重要な問いかけをします。

 ここで1ページ目からやった『0とはどういう数か』という問いかけが生きてくるわけですね。伏線回収です。天下り的に「単位行列とはこういうものだ」と教えるのではなく、あくまで《数の世界》と《行列の世界》を対比させながら、「数の世界での1と同じようなはたらきをする存在」として単位行列を導入するのです。ここで2人は、行列の世界を構成する概念をひとつずつ自らの手で創り上げているのです。

 数学ガールでは、数学とは決して頑張って覚えるものではなく、自分たちで創り上げていくものなのです。そうして自ら試行錯誤しながら創った数学は、決してわけのわからないカタブツではなく、実に有機的で魅力的な"遊び場"です。


・テトラちゃんの《発見》(p.93)

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(p.93より引用)

 第3章になり、ようやくテトラちゃんが登場しました。わたしは数学ガールでテトラちゃんがいちばん好きですが、上の箇所にはテトラちゃんの魅力がよく表れています。それは普段アタフタしている彼女が時折り見せる、誰よりも鋭い洞察力です。

 「演算を考えないと個々の数や行列の意味が決まらない」とテトラちゃんは言います。それを受けた「僕」が集合という単語を出していますが、ここで話していることは"群論"(または群・環・体など)という分野の本質に大きく関わっています。この『秘密ノート/行列が描くもの』では、「群」という単語は一度も出てこないものの、一冊に渡って通底しているのは群論の基本的な考え方(演算・単位元・逆元・結合則など)です。
 ちなみに群論についてはメインシリーズの『数学ガール/フェルマーの最終定理』『数学ガール/ガロア理論』で、世界一わかりやすく扱われているので超オススメです。


・"So what?(だから、何?)"(p.112)

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(p.112より引用)

 "So what?"はテトラちゃんの伝家の宝刀です。本巻でも炸裂しました。行列の基礎を一通り教わって、それら個々のことがらを理解してもなお、彼女は「行列のことがまだはっきりとわかっていない」と口に出します。テトラちゃんは、自分の「分かっていない感じ」に対して人一倍繊細です。ふつうの人が何の疑問も持たずに素通りしてしまうような点に彼女は目を向け、粘り強く「分かっていない感じ」を追い求めます。そして多くの場合、それは教科書には書かれていないような、数学の本質的なことがらに繋がっているのです。

 ユーリの「おもしろくない」という発言も近いものがあります。数学を学ぶ上で、その内容はどこがおもしろいのか、何のためにわざわざそんなことを考えるのか、それは何を表しているのか、といった一種メタな次元での問いを持つことはとても重要です。ここでは、「行列が何かを表しているのか分からない」という問いをテトラちゃんは投げかけます。それは本のタイトルである「行列が描くもの」として、本の後半に大きく関わってくるのです。


・印象的な一文(p.135)

"《星を見る》と《星空を見る》は同じか。"

 数学ガールの各章の最初には、その章の内容を暗喩する印象的な一文が書かれています。本巻の第4章のはじめに書かれているのが上の「《星を見る》と《星空を見る》は同じか」という言葉です。
 章ごとに毎回、ハッとするような言い回しや文学作品からの引用などがなされるため、わたしはいつも楽しみにしていますが、この章の一文はなかでも特別に印象的でした。何がスゴいって、その章を読む前にある程度その言葉を反芻して思いを馳せるのに、章を読み終えると全然捉えきれていなかった隠された意味に思い至るのです。

 この章では饒舌才媛の元祖数学ガール、我らがミルカさんが、赤髪のプログラミング少女リサの助けを借りながら、「行列が描くもの」について座標平面を使って考えていきます。
 "星"とは座標平面上の"点"、"星空"とは"座標平面"自体と対応が付きそうです。行列によって点は平面上の別の点に移り(写り)、座標平面も膨大な点の集まりだと捉えれば、行列によって座標平面自身も別の形へと変化します。

 さて、あなたは《星を見る》ことと《星空を見る》ことは同じだと思いますか。この章を読み終える頃には、この問いについて今とは違う感慨を抱くはずです。

 そして、実は各章の冒頭だけでなく、末尾にも、冒頭の一文と対になる一文が用意されています。この言葉と対になる、こちらも印象的な"問いかけ"なのですが…その真相については、あなた自身の目で確かめてみてください。


・「象限?」(p.145)

 リサによるコンピュータグラフィックスで表示した座標平面上の点(ベクトル)を行列による変換でいろいろいじってみる「僕」たち。その最中に、ミルカさんは「象限ごとに点の形を変えて」と指示しますが、リサが「象限?」と聞き返すシーンがあります。要するに、リサは"象限"という単語を知らなかった、というだけのシーンなのですが、わたしはここでとても感心しました。

 リサはコンピューターやプログラミングにとても強い、という設定なのですが、逆にそれ以外の数学的なことがらについては「僕」やミルカさんほど詳しくありません。そのことを、この些細な"聞き返す"シーンで表現しているようにわたしには感じられました。象限の意味を知らない読者に説明するだけなら、枠外の注やテトラちゃんに質問させてもいいのですが、あえてリサに聞き返させることで、彼女のキャラ像がよりビビッドに浮かび上がってくるように思えました。

(まぁ結城先生がそうした意図で書いているかは分かりませんが…行動の端々からキャラの内面を想像して勝手に満足してしまうオタクの戯言だと思って下さい。)



・線形性は交換可能性(p.167)

 《行列による変換の線形性》について「僕」がテトラちゃんに説明しているシーン。ミルカさんが次のように言います。

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(p.168より引用)

 これ、わたしが大学一年生で線形代数に悪戦苦闘していた頃に知りたかったな、と思いました。線形性は線形代数の教科書で必ず言及される超重要概念ですが、式で見ただけでは「当たり前では?」と思ってしまい、そのありがたみが分かりにくい。というか初見でありがたみに気づける人は相当な天才だと思います。

 そんな線形性について、これ以上分かりやすく説明している本をわたしは知りません。さらにスゴいことに、このミルカさんの台詞のあと、線形性を示す行列以外の例として、微分の線形性・積分の線形性・期待値の線形性…を挙げます。これまで『秘密ノート』シリーズで扱ってきた題材がすべて「線形性」の名の下に集う、まるでアニメ最終回で1話から地道に積み上げてきた伏線を怒涛のごとく回収する展開を見るようで、胸が熱くなりました


・「行列の積は、線形変換の合成を表している」(p.186)

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(p.187より引用)

 ここが、わたしがこの本でもっとも「読んでよかった!」と思えたところです。

 わたしは前から行列の積を知っていました。つまりAとBという(積が定義できる)行列が与えられた時に、ABという新しい行列を作り出すことができたし、一般的な定義式を文字を使って書き下すことも多分できました。
 でも、なぜ行列の積がそのように定義されているのか、と聞かれたら答えられませんでした。そもそも、そんなことを疑問に思ったことがなかった。ユーリやテトラちゃんがあれだけ自分たちの手で定義を納得しながら創り出していたのに、かくいうわたしはまったく出来ていなかったのです。

 「行列の積は、線形変換の合成を表すように定義されているともいえる」ミルカさんのこの台詞を読んで、全てが繋がった気がしました。「行列は線形変換」というフレーズは、これまで色んなところで耳にタコが出来るほど聞いてきたつもりですが、その言葉の表す意味がようやく自分のなかで腑に落ちました。

 もちろん「線形変換の合成を表すような行列の積の定義は、あれだけなのか」という必要性についてはまだ考える余地があります。十分性と必要性がともに示せてはじめて、異なる2つの概念の間に同値という橋を架けることが出来るからです。


・まとめ

 他にも、テトラちゃんの「いったい、何を何で納得しているのでしょうか、あたしは」という非常に高度な疑問を受けてのミルカさんの「三つの《数学的主張》の関係」の話(p.194)や、次のページでの表現論につながる「行列が描くもの」のテトラちゃんなりの暫定的な納得感(ゴール)のくだりなど、紹介したい、素晴らしいポイントはまだまだ書き足りませんが、流石に長くなりすぎるのでこの辺りで筆を置きます。

 それから、『秘密ノート』シリーズの褒めるべきポイントとして、章ごとに適切な練習問題が付いている、というのを忘れてはいけません。今回も、その章で数学ガールたちが対話の中で学んだことがらについて、"ちょうどいい"難易度と分量の問題が載せてあり、わたしたち読者の理解度を確かめることができます。解答も、これ以上ないくらい丁寧なものが載っています。

 数学ガールは新刊が出るたびに「超面白い!これまでで一番の傑作巻かも…」と感じる最高のシリーズですが、本作『数学ガールの秘密ノート/行列が描くもの』はなかでもいちばんの傑作だと胸を張れる、素晴らしい内容でした。(次作でも同じことを言ってそうですが…)

 はじめにも言いましたが、これは今すぐ全大学生に読んでほしいし、高校生や意欲的な中学生、もちろん大人にも、とにかく騙されたと思って買ってみろと薦めたくなる本です。数学が嫌いなひとも、好きな人も、自分は数学とは縁がないと思っている人も、みんなまとめて『数学ガールの秘密ノート/行列が描くもの』を読みましょう。そうすれば世界に平和が訪れ…るかは分かりませんが、読んで良かった!と心から思えることでしょう。



以前書いた、数学ガールシリーズ自体の布教記事も貼っておきます。

それではまた

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