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『フラ・フラダンス』(2021)感想


映画感想ポッドキャストに、二通目のおたよりが届きました! ありがとうございます!

レコメンドしてくださったのは、ここ1, 2年の日本映画『フラ・フラダンス』『やがて海へと届く』のふたつ。どちらも3.11の震災を扱った作品ということで、二週にわけてじっくり感想を語り合いました。

今週公開したのは『フラ・フラダンス』回です。

Spotify版もYouTube版も収録内容は同じです


『フラ・フラダンス』は、福島県いわき市にあるレジャーリゾート施設「スパリゾートハワイアンズ」に就職した新人フラダンサー5名の成長と絆を描いたオリジナルアニメ映画です。

ずっと、いつかは見てこのポッドキャストで取り上げようと思っていた作品なので、この度オススメされて即観ました。


来週は『やがて海へと届く』回を配信する予定です。

ポッドキャスト『映画館が遠い』では、わたしたち2人に見て感想を語り合ってほしい映画をいつでも募集しています!

おたよりが無いと、アマプラの配信作品を漫然と眺めて、めちゃくちゃテキトーにその場で目に付いたやつを見ることになるので、よろしくお願いします……(そういう選び方も悪いわけではありませんが、自分たちの意識の外から指針がふってくることの面白さには替えられません)



以下、わたしの『フラ・フラダンス』の感想を載せます。ポッドキャストでは敢えて相方に先に感想を喋らせて、以下の内容は後半で話しているため、先に文章で読んでからポッドキャストを聴いてもそれほど退屈しないかと思われます。もちろん、音声媒体のみで聴いてくれても(なんでも)構いません。


『フラ・フラダンス』感想


※15,000字以上あります。
見終わってPCの前でキーボードをカタカタやって書いていたらいつのまにか8時間以上が経過していました……。



2023/7/22土
ずっと観たいと思いながら観れていなかったが、このたびポッドキャストへのレコメンドを頂いたのでアマプラで視聴。

よかった! 「こういうのが好きなんだよこういうのが」枠の、自分好みのオリジナルアニメ映画だった。


・学園青春アニメと社会人労働アニメのあわいをフラついて

まず、もっともびっくりしたのは、主人公たちが学生(高校生や大学生)ではなく、福島県いわき市にあるリゾート施設「スパリゾートハワイアンズ」の新入社員であったこと。序盤数分で高校3年生から一気に新卒社会人に時系列が飛ぶので衝撃を受けた。観る前は、キービジュアルの印象などから、高校生がフラダンスに目覚めて頑張る話かな~となんとなく思っていたので……。(キャラデザも『アイカツ!』のやぐちさんだし……。)

しかし、本作が、まさに震災復興支援の企画「ずっとおうえん。プロジェクト 2011+10…」の一環として制作され、実在の施設スパリゾートハワイアンズを全面的に取り上げて作られた映画であることを思えば、主人公がそこの新人ダンサーに設定されているのはごくシンプルに理解できる。(ちなみに「高校生がフラダンスに目覚めて大会とかで頑張る話」は、メインキャラのひとり、鎌倉環奈さんの背景設定になっている。)

しかし、では当初イメージしていた学園青春アニメ感がなかったかといえば、そんなことはない。なぜなら、主人公:夏凪日羽(ひわ)たち5人は、スパリゾートハワイアンズに「入社」すると同時に、併設されている常磐音楽舞踊学院へと「入学」して、フラダンスを専門的に学ぶ学生にもなるからだ。

ふつう、入学と入社を同時に(かつ同時であることが必然的であるかたちで)経験することはない。労働せずに青春を謳歌できる学生と、働いてお金を稼ぐ社会人は異なる身分のはずだ。しかし、このふたつの属性を同時に付与できる、現代日本でごくわずかな(もしかすると唯一の)例が、スパリゾートハワイアンズに新人ダンサーとして採用されることなのだ。

この展開をみて、「なるほど、ようは宝塚みたいなものか!」と思った。じっさい、法律上では、常磐音楽舞踊学院は宝塚音楽学校と同じく「各種学校」に分類されている。宝塚音楽学校を舞台にしたアニメといえば、本作と同じく2021年に放映された『かげきしょうじょ!!』がまず思いつく。
(『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(TV版は2018年, 新作劇場版はやはり2021年)も似たようなものとはいえ、あれは卒業後にプロの歌劇役者になるための養成学校生活、という側面よりも、より抽象的でフィクショナルな決闘と人間関係を主眼に置いているため本質的にはかなり異なる。)
しかし、宝塚音楽学校の生徒は、入学と同時に宝塚歌劇団に入社(入団)するわけではない。彼女たちはあくまで学生であって、その教育課程を修了したあとに「卒業→入社」の段階を踏むのは普通のひとと同じだ。

したがって、スパリゾートハワイアンズの新人ダンサーという身分は、キャラクターに社会人(新入社員)と学生(新入生)という通常は相容れない属性を同時に付与することのできる、きわめて特殊なケースだと思われる。
いうまでもなく、これは『WORKING!!』や『花咲くいろは』などの、学生がお仕事もするアニメとは一線を画す。それらのアニメでは、学生の身分でありながら追加で(あとから)バイト等のかたちで仕事も経験しているのであって、入学と入社(バイト開始)が必然的に結びついてはいない。(もちろんアルバイトか正社員かはどうでもいい。)

また、現実でいえば社会人が学び直しとして何らかの学校に通うことで、社会人でありながら学生でもあることはあり得るが、それもただ異なる身分を偶然にふたつ持っているだけであり、入学と入社が "必然的に" 結びついているわけではない。スパリゾートハワイアンズで踊るためには、ハワイアンズの新入社員と舞踊学院の新入生という身分を必ず同時に取得する以外あり得ず、「社員ではあるが学生ではない」とか「学生ではあるが社員ではない」という状態はあり得ない。

もちろん、上述したような、本作の企画・制作過程を鑑みれば、「学園青春アニメと社会人労働アニメをミックスしたものをつくる」という目的のためにスパリゾートハワイアンズが選ばれたわけではなく、順序が逆なわけだが、そうして震災復興支援プロジェクトの一環として福島県いわき市のスパリゾートハワイアンズの新人ダンサーを主人公にしよう、と決まったことで、結果的に、偶然に、アニメ史上でもかなり特殊な作品に仕上がっている。じっさい、本作は主人公たち新人ダンサー同期5名をメインキャラクターとしており、個性的な2次元少女キャラ5人のわちゃわちゃとした生活や友情が描かれるさまは、アニメ的にとても安心感のある(≒凡庸な)学園青春アニメのようである一方で、リゾート施設の接客サービス業者かつプロのパフォーマーとしての自己研鑽・適応が求められるさまも描かれて、明確に「お仕事アニメ」でもある。

そして、主人公が学生でもあり社会人でもあるさま──学生青春アニメでもあり社会人お仕事アニメでもあるさま──は、そのまま本作の主題である「フラ・フラダンス」すなわち《フラフラすることの肯定》に接続されている。これは、物語的には、震災によって姉を亡くしたトラウマを克服するのではなく受け入れて、姉の記憶とともに生きていくことを主人公が決意する、というシリアスで現実的な筋書きに体現されているが、こうしたメインプロットの次元だけでなく、そもそもメインキャラが学生でありながら社会人でもあり、通常は相容れないふたつの属性のあわいをふらつきながら物語を紡いでいるというジャンル/属性横断的な佇まいにも表現されているのだ。

また、ふたつの属性のあわいをふらついているキャラクターといえば、主人公の高校時代の友人のひとりが予備校に通う浪人生であることも重要だろう。調べたところ、まさに予備校も常磐音楽舞踊学院と同じ「各種学校」に括られているらしい。彼女が志望校に落ちてしまったことには必然的な意義があるのだ。ちなみにもう一人の友人キャラは美容師を目指して専門学校に通っていると思われるが、法律上、専門学校は各種学校とは別の「専修学校」に区分されるらしい。ので、そこはやや惜しいが、ともかく、登場人物の多くがこうして中途的・両義的な身分であることで、作品のテーマをさまざまな方向から照射するのに成功しているといえよう。


・フラダンスのCG表現について

本作は、劇場アニメとしての見せどころのフラダンスシーンは3DCGで製作されている。わたしは一部のアニメオタクのような「2D手描き作画が至高! 3DCGは妥協、悪!」論者ではなく、むしろ3DCGアニメはわりと好きなほうだと思う。(MMDドラマとか大好きだし……。) また、そもそもダンスが好きなので、フラダンスはまったくわからないとはいえ、この映画のダンスシーンも楽しみにしていた。

ところが、この映画での最初の本格的な3DCGダンスシーンはフラダンスではない。初ステージ失敗で落ち込んでいる主人公が気晴らしのために親友ふたりと行った、(物語とは直接関係のない)人気アイドルグループ「いついろディライト!!」のパフォーマンスのシーンである。モーションキャプチャーを利用したのだと思われるリアルで繊細な動きや色彩・映像演出の華やかさに度肝を抜かれた。ここ最近、『キンプリ』や『プリティーリズム・レインボーライブ』の、当時としては最先端でもやや古い3DCGダンスを観ていたので……。『ドキドキ!プリキュア』EDのダンスに匹敵するクオリティだと思う。(あっちはモーキャプを全面的には使ってないと思われる)

このライブシーンだけ公式がYouTubeに上げていた。

しかし、幸か不幸か、終わってみれば、このいついろディライト!!のシーンが、この映画でもっとも感動したダンスシーンだった。フラダンス、3DCGで劇場アニメとして見せるには向いてなさすぎるのではないか。3DCGアニメでのダンスシーンで重要なのは、当たり前ながらダンスの切れの良さだと思う。だが、フラダンスはそもそも切れの良さを追求するダンスではない。ふらふら、ゆらゆらと、その流麗さや浮遊感が魅力なのだろう。これらは3DCGダンスがもっとも苦手としているために、どうしても今一つになってしまっていると感じた。ただ、これはわたしがフラダンスに疎いからで、フラダンスを見慣れてその良さを享受できるほどに目が肥えた状態でこの3DCGフラダンスを見直せば、もっと魅力がわかるのかもしれない。ストリートダンス畑の人間なので、動きのキレがよくないダンスをどう楽しんだらいいのかわからない、というのも大きな要因ではあるだろう。。

フラダンス映画で突然ぽっと出のアイドルグループの高クオリティの3DCGダンスシーンが始まったときには意味がわからなかったが、終盤でこのときのアイドルの曲を使って、主人公たち5人が汚名返上のためにフラダンス選手権に挑む、という形でいちおう物語に回収される。これは要するに、(CG映えしない)フラダンスに(CG映えする)アイドルダンスの要素を取り入れることでまさに「汚名返上」しようとしたのだと見做せるが、結果的には、それでも微妙だった。いくらアイドルソングに合わせてポップな動きを取り入れて踊っているといっても、さすがにフラダンスの大会でまったく違うジャンルのダンスばかりやるわけにはいかないので、あくまで基本はフラダンスの動きだった。つまり、1つのステップや腕の振り上げをとっても、キレをあえて殺してフラダンス的に再構築した3DCGダンスなので、相変わらずどこか見劣りがする。本来キレのいい動きに最適化されているアイドルソングを使っていることで、むしろフラダンスの違和感が増しており、けっきょくアイドルダンスとフラダンスのいいとこ取りをするどころか、互いに良さを打ち消し合っているとすら思えた。それを誤魔化すかのように、ダンスシーンの途中で観客席の(理想的すぎる)後輩たちのコールのカットが断続的に挿入され、ますますダンスシーンの魅力は失われていた。(逆にいえば、いついろディライト!!のライブシーンでは観客のコールを映すカットが最小限に抑えられていたことも、その完成度と魅力に貢献しているだろう。)

そんなわたしの印象もあながち間違っていなかったということなのか、選手権の結果は惨敗。あれだけ場を巻き込んでいたら観客賞は取れそうだと思ったがそれすら貰えなかった。ゲスト審査員をしていた学院のベテラン講師が講評していたように、あのようなジャンル横断的でポップなフラダンスは、実際のスパリゾートハワイアンズでは興行的に確実に有意義だろう。彼女らの仕事は顧客第一のサービス業なのだから。つまり、商業的・大衆的なフラダンスと競技的・専門的なフラダンスは目指す方向が異なるということなのだろうが、それに加えて、現実で見栄えが良いフラダンスと、3DCGアニメで見栄えが良いフラダンスの違いもまざまざと突き付けられたようだった。
この講評で「フラフラしてこそのフラダンスよ」という作品テーマの直接の表明がなされることを鑑みれば、彼女たちが自分たちのフラダンスの方向性に迷い模索するさまが肯定されているのと同様に、CG映えしないフラダンスをそれでもCGアニメのなかで魅力的に表現しようという製作陣のフラフラ具合が自己言及的に肯定されているとも読めるか。あるいは、2D手描き作画と3DCG作画のあわいをふらつきながら、ひとつのアニメ映画にまとめ上げている本作の存在じたいが、フラ・フラダンスの精神性を象徴しているのかもしれない。


・高台で踊るシーンについて

本予告動画よりスクショ

日羽さんが免許取り立てでみんなを乗せて地元を案内するドライブシーンが最高だった。こういう田舎の風景の見せ方、天才。全アニメでやってほしい。主人公がペーパードライバーのまま爆走(法定速度順守)していくつもの背景美術を矢継ぎ早に公開していくくだり。スリルを演出するためにハワイアンズの男性パフォーマー陣の「ファイヤー!」演技が差し挟まれるのも面白い。

そのドライブの目的地であるいわき回廊美術館の高台のシーンがこの映画でいちばん感動したかもしれない。田園風景を見渡せる高台、夕暮れ、ブランコというロケーションも最高だし、なによりステージでないところでなんとなくその場のノリで踊り出す描写に弱いので・・・。

本予告動画より

「能面女子」という不名誉なあだ名をつけられた、人前に出るのが苦手な白沢しおんさんが最初に何気なく踊り出すのがいいんだよな。あそこには観客はいない。ともに踊る仲間しかいない。踊りとはひとに見せるためだけにあるのではなく、自分が踊りたいときに踊っていい。自分のダンス観に完全に合致したシーン。

しかも、人前に出ると緊張してしまい、喋ったり笑ったりすることが大の苦手だが、ただ踊ることは愛していて自負がある、というしおんのキャラクター性にもめちゃくちゃ感情移入してしまう。

人前に出るのが苦手なのとダンスが好きなのって矛盾していると思われがちだけど、全然そんなことはないんだよ。わたしは吃音(難発)持ちなので、人前で言いたい言葉が喉元でつっかえてどうしても出てこないことがよくある。そういう不安・緊張感と常に隣り合わせで日常生活を送っている。でも、ダンスでは決して "どもらない" 。流れてくる音楽に、自分のからだの衝動に、どう乗ったらいいのかと逡巡したことなど一度もない。自然と、無意識にからだが動いてくれる。「乗る/乗っとられる」の両義性。自分の思い通りにならない自分を手放すと同時に受け入れるように。(このへんは最近読んだ伊藤亜紗『どもる体』の受け売りでもある。)

スムーズに自分語りしてしまって申し訳ないが、このシーンでのしおんはまさに、特に合理的な理由はなく、気付いたら踊っていた、という風であり、それを見た他の4人(ブランコに「乗って」いたオハナ達)も、何も言わずに一緒に踊り出す。しおんのダンスに乗っかって、夕暮れの光のなかでフラダンスに乗っとられる。この場面のなんと美しく尊いことか。

この広告動画より

※補足1:姉を亡くした日羽が地元のオススメスポットにいわき出身でない友達を連れてきて高台でフラダンスを踊るこのシーン、明らかに、日羽の姉および被災地いわきの土地の魂の鎮魂……のような意味合いを容易に読み込めるだろう。じっさい、踊っているシーンに、その場所に佇む地蔵様のカットが挟まれもする。この線では、そもそもフラ(ダンス)という、遠く海の向こうの伝統的な民族舞踊文化が、本来どんな宗教的・呪術的な行為だったのか、という検討も重要であろう。ただ、そういう興味深い解釈をいったん脇に置いて、自分のダンス観にドンピシャで合う名シーンでもあった、ということをわたしは書いておきたいのである。

※補足2:じぶんの都合の良い解釈の通り、白沢しおんが本来人前で踊るよりも、自分が踊りたいときにその場で誰に見せるでもなくただ踊ることが好きなのだとしたら、それはスパリゾートハワイアンズでの仕事には致命的に向いていないことを意味する。自分のダンス観はどこまでもアマチュアであり素人であり意識が低いものであり、興行的なパフォーマンスとしてのダンスとは正反対であるからだ。だとしたら、本作がお仕事アニメである限り、しおんのこの性質は明確に矯正すべき、成長すべき点として扱われるだろう。ただ、しおんにはフラ女将に憧れてハワイアンズに就職した、という設定も後半に明らかになる。フラ女将という概念をまったく知らなかったのでしおんさんに途端についていけなくなったが、女将、すなわち接客業のプロ中のプロにして、そこにフラダンサーというパフォーマー要素も加わった、究極の「人前で踊るプロ」に憧れているということは、やっぱりしおんさんとわたしは違う人間なんだろう・・・(それはそう)。自分とは正反対の存在だからこそ憧れているのかもしれないが、わたしは今のところフラ女将に憧れてないしな・・・。

上で、本作の3DCGフラダンスをかなり酷評したが、それでいうと、この高台での夕暮れのフラダンスシーンは(ダンスシーンの映像としても)いちばん良かった。上述の、ロケーションやしおんのキャラクター性などの要因で魅力的に見えている、というのももちろんあるが、ここでは2D手描きから3DCGへの遷移がきわめて滑らかに行われているから、とも思う。

高台から見渡せる風景に感動していたしおんが、ふと木製の簡易的な足場のようなものを見つけて、そこに上がり、日羽たちのほうを向いてお辞儀をしてからフラを踊り出す。足場に上がるカットやお辞儀をするカットのしおんは多分2D手描き作画だと思う。本格的にフラを踊っているシーンは明らかに3DCG作画だ。しかしそのあいだ、どこから手描きとCGが切り替わったのか、アニメ作画素人のじぶんにはしょうじき見分けがつかないのである。

踊り始めのシーンが手描きなのかCGなのかがわからないのだ。これは、さきほどから強調している「自然と、気付いたら、ふと」踊り出すダンスこそが好きだ、という自分のダンス観にまさに合致している。わたしにとって、ダンスとは、わざわざ意識的に取り繕ってするものではないから。「踊る」のではなく「踊っている」。まさに「ノる」と「ノられる」のどちらなのか判別がつかないような行為=状態こそが自分にとってのダンスである。

このアニメにおいて手描き作画とは、日常シーンであることを意味する。対して、3DCGが用いられるのは基本的にステージ上の、パフォーマンスとしてのダンスのシーンである。しかし、ここでのしおんの踊り始めは、手描きなのかCGなのかがわからない。その遷移がきわめて自然に、見分けがつかないほどスムーズにおこなわれている。理想的なダンスであり、アニメにおける理想的なダンスシーンである。
(お辞儀してクルっと1回転して踊り出すカットの次に、踊り出したしおんの足元を、後ろ側から(画面奥に日羽たちを)映す構図のカットがあり、ここでスカートをなびかせながら踊るしおんはおそらく手描きだと思われるが、これがこの映画でいちばん好きなカットだった。)

そして──もう薄々お気付きだろう──「手描きかCGか見分けがつかない」ということは、これもまた、ふたつの属性のあわいをフラつくことを肯定する本作の主題を体現しているシーンでもあるのだ。日羽たちが学生でもあり社会人でもあるように、このシーンのフラは手描きでもありCGでもある。そんな作画方法の次元でもフラフラしているフラこそが、アニメにおいてもっとも魅力的に映っているのである。


・着ぐるみフラダンスについて

白沢しおんのフラダンスシーンでいえば、高台シーンの少し前の、水族館近くの特設野外ステージで出張パフォーマンスをしたとき、彼女はCoCoネェさんの着ぐるみに入って踊っていた。このシーンでの日羽たちのCGモデリングは粗が目立つ。フラの衣装は両腕などを露出しているので、肘裏の関節部などのぎこちなさが目に付いて、すこし不気味とすら思える。(球体関節人形のような……。)

この動画よりスクショ

そんな4人に囲まれて中心で踊っているCoCoネェさん(しおん)は、たほうそれほどCGの違和感がない。これはおそらく、着ぐるみの時点で人が人ではない擬態を身に纏っているがゆえに、言ってしまえば「不気味」であるために、そこに3DCGの不気味さが加わったところで問題がないからだと思う。着ぐるみの3DCGとは、二重の不気味さ・ぎこちなさをその身に体現した存在なのだ。

人前で踊るのが苦手なしおんも、着ぐるみを着れば、めちゃくちゃダイナミックにはっちゃけて踊ることができる、という設定も、このシーンでの着ぐるみの「自然さ」と他4人の「不自然さ」の共存にマッチしていると感じる。

また、相変わらず3DCGのフラはキレがないために見栄えしないが、CoCoネェさんはアニメ的に、現実ではありえないほど高速で巨体を回転させていたり飛び跳ねて観客を魅了していて、その不自然さも結果的な違和感のなさに奉仕していると思う。すなわち、着ぐるみそのもののの不自然さと、3DCGの不自然さ、そしてアニメ的でフィクショナルな動きの不自然さも合わせれば、三重の不自然さ(違和感)が同居することで結果的に一重の不自然さしかない他の4人の普通のフラダンスよりも自然になっている、ということだ。


・各キャラの印象とかヘテロ恋愛要素とか

ハワイ出身で、日本でフラをやりたくてハワイアンズに応募したオハナ・カアイフエさん、キャラクターとして好き嫌い以前に、この設定があまりにも形骸的すぎて大丈夫か?と思った。ラブライブとかによくいるカタコト本場外国人キャラの危うさが凝縮している。しかも、いちおうメイン5人それぞれの成長が描かれるストーリーのなかで、オハナさんに与えられた問題系が「ホームシック」だけだというのも一本槍すぎるだろww と笑ってしまった。嫌いなのではなく、かわいそう。こんなに雑な設定と扱いで………。環奈さん(カンカン)とのカップリング描写も安直だな~~とおもいました!!

滝川蘭子さん、太っている体型を自らネタにしながらもまったく悲壮感がなく、なかなかパンチの効いたキャラで良かった。それだけに、初ステージで他人から付けられた不名誉なあだ名「どすこいダンサー どっしりむっちり」(不名誉どころか思い切り誹謗中傷だ)を払拭するために(?)、食事制限をしたり夜に走り込みをしたりとダイエットに励むのが「成長」として描かれていたのにはモヤモヤした。

例えば白沢しおんは表情の固さをプアラあやめ先輩からも観客からも指摘されていて、つまりプロと一般人から見た「悪いところ」が一致している。だから彼女の成長譚も「笑顔で踊れるようになる」というきわめてわかりやすいものになる。

しかし蘭子はちがう。
あやめ先輩は、蘭子に「全部の踊りが陽気すぎる! しっとりと表現するところもあるでしょう?」と指摘しており、のちの野外ステージ後には「表現の幅が広がった」と成長を褒めている。つまり、蘭子の体型じたいは本来改善すべき「悪いところ」ではないはずなのだ。それなのに、あたかも蘭子の成長譚のための努力描写として「痩せること」が雑に配置されていて気になった。まぁもちろん、現実ではああいうフラダンサーが太り過ぎているよりは「スタイルが良い」ほうが仕事上良いのだとは思うが、それはダンスパフォーマンスとはやや独立している問題なので、結果的に蘭子の物語がどっちつかずになっている印象をうけた。


新人フラダンサー同期5人のお仕事わちゃわちゃ青春モノ、として観ていたので、後半で主人公:日羽の恋愛・失恋要素がガッツリ描かれたことにびっくりした。しかも亡き姉との三角関係!!! あの設備係のイケメン先輩男(鈴懸涼太)がわきまえていたからよかったものの、一歩間違えれば『君たちはどう生きるか』のパッパになるところだった………。

というか、姉の真理は復興支援アニメ映画としての作品の根幹を担う重要キャラであり、真理を喪った事実を日羽が自分の中で消化するための物語なのだから、涼太が姉の恋人だったとわかって自動的に(無事に)失恋してあそこまでショックを受ける、という展開がピンとこなかった。あたかも、日羽のなかで、涼太への恋愛感情が、姉への想いより大切であるかのように見えたので。涼太が姉の元カレだったと発覚した瞬間に、「あっそうか」と日羽のなかで涼太への恋愛感情が冷めて、スッパリ諦めていたほうが解釈一致だった。あたかも、「姉の死」という震災映画としての根幹よりも、ベタな恋愛プロットのほうが優先されているような印象を受けてしまったので・・・。

まぁ、こういうじぶんの解釈はおそらく浅くて、死んだ姉という日羽にとって圧倒的に大きな存在の前に、ちょっと惹かれていた男への恋愛の可能性が瞬間的に粉々になるさまを描き、それでも確かに存在する、生きている他者への想いを消化して解消することまで描くことが、死んでしまった者への想いを抱えて生きていくという震災映画の主題にとっても必要だったのだろう。

失恋した日羽がバレンタインにチョコを泣きながら手作りしているのを見たほかのみんなが、事情を聞いてみんなで大泣きしながらチョコをかき混ぜる……という清算シーンはとても好きなのだけど、あそこで(アニメらしく)大泣きをして失恋をみんなで「弔う」のも、おそらくは姉の死のトラウマ(=話しかけてくるCoCoネェさんの幻覚)の清算の予行演習・事前準備として必要な儀式だったのだろう。

涼太への失恋⇔真理の死
生きている人への想いの弔い⇔死んでしまった人への想いの弔い
みんなで泣く⇔ひとりで泣く

日羽は(両親も)冒頭から一度も姉の死を悲しむような、引きずっているような表情をいっさい見せなかった。ましてや泣いているところなど。一見乗り越えられているかに見える喪失が、故人に貰ったぬいぐるみを依り代にして、シリアスではなくコメディというかたちで繰り返し襲ってくる。こうした被災者の造形は、ぬいぐるみが喋るというアニメ的なファンタジーを利用しているがゆえにいっそうリアルで、当事者にしっかり向き合った誠実な描写だと(非当事者として無責任に)思う。

CoCoネェさんのぬいぐるみが喋り出したときには、えっそんな非現実要素あるの!?と驚いたし、それが姉の真理を自称し始めたときには「アカン……」と不安になった。震災で亡くなった人をこういうかたちで「生き返らせる」というのは、震災で大切な人を亡くした人を主人公にして物語をつくるうえで最もやってはならないことのひとつだろうから。しかし、だからこそ、これは「生き返り」とか「魂」とかではなくて、ごく単純に、精神に傷を抱えた日羽の幻覚に過ぎないのだと腑に落ちて、安心した。


・自分ひとりの部屋

日羽がひとりで部屋にいるときしかあのぬいぐるみは動き出していないことも、姉=CoCoネェさんが日羽の幻覚であることを補強するが、そもそもこの映画のなかで、CoCoネェさんのぬいぐるみが置かれている日羽の部屋に日羽以外の人物が入るところは映されていない。

未だ昇華できない喪失の幻影=ぬいぐるみが置かれたあの部屋は、いわば巨大な棺桶であり、日羽はそこに姉の思い出と一緒に自分を閉じ込めている。日羽がその喪失をきちんと清算できていない理由は明白だ。他人の棺桶に自分が入ってしまっている状態で、きちんと弔えるはずがない。

冒頭、目覚まし時計が鳴っているのになかなかベッドから出ない日羽に、母親は1階から何度も呼びかけるが、決して二階の日羽の部屋まではやってこない。

また、ハワイアンズのダンサー募集チラシを見て、姉との思い出に浸りながら自室でフラを踊っていた日羽が机の角に腰をぶつけて「あたっ」と大声を出してすっ転んだときも、母親は二階には上がってくるものの、決して娘の部屋の敷居を跨がない。廊下から「大丈夫?どうしたの」と声をかけるだけだ。さらに、母親のあとから父親も階段を上って娘の部屋の前に立つ。このシーンは、自分がフラを踊ることで久しぶりに両親の笑顔を見れたことで、日羽がハワイアンズ出願を決意する前向きで重要な場面だが、不穏さが画面に満ち満ちてもいる。

娘がちょっと転んだだけで両親が部屋の前までやってきて、一家全員が(敷居を挟んで)集うこの場面は一見して異様である。初見では、なんで父さんまで来るんだよww と不自然さに笑っていたが、おそらくこれは意図的な不自然さだったのだ。二階の部屋にいる娘がちょっと大声を出しただけでわざわざ両親が見に来るのは、この家族の表面上の円満さをあらわすと同時に、それでも娘の部屋のなかには決して入らない(日羽は親でさえ自分の部屋に入らせない)という、この家族の抱える決定的な亀裂の記憶をも示している。なぜ両親は娘の部屋に入らないのか。なぜ日羽は自分以外を部屋に入らせないのか。それは、あのぬいぐるみがいるからだ。自分ひとりの部屋に、姉という喪失を閉じ込めているからだ。

姉の生前の記憶を回想するシーンでは、一階のリビングに家族4人が集って、姉が妹にフラを教える場面が映される。このとき、リビングにはCoCoネェさんのぬいぐるみも置かれている。つまり、姉が生きていた頃は、あのぬいぐるみは日羽の部屋に閉じ込められてはいなかったのだ。もういない姉から貰った、姉の職場のマスコットキャラクターのぬいぐるみ。否応なく喪失の匂いが染みついているそれを、日羽は自分ひとりの部屋に〈封印〉した。

ハワイアンズへの就職と同時に、日羽は実家を出て舞踊学院の寮に入る。しかし〈自分ひとりの部屋〉は変わらない。CoCoネェさんのぬいぐるみは変わらずにベッドのうえにある……。姉が載っているハワイアンズの冊子を当然のように持ってきていることからも、日羽がいかに姉の思い出を抱えながら生きているかが伺える。

半年に一回の査定で、ハワイアンズのフラダンサー40名中、最下位となって自室で落ち込む日羽に、再びぬいぐるみが話しかける。「頑張って~~笑顔よ~笑顔!」 どう考えてもヤバめの統合失調症的な幻覚症状なのだが、ともかく、深夜に驚き叫ぶ日羽の物音を聞いて、同期4人がそれぞれの部屋から一斉にやってくる──ただし、扉を開けて中の日羽の様子を覗うだけ。実家での両親とまったく同じように、日羽の部屋には入らないのだ。
『レヴュスタ』と『フラ・フラダンス』の本質的な違いは、決闘をするか否かではなく、寮がふたり部屋かひとり部屋か、という点にあるのだ。
こうして、たとえ家を引っ越して部屋を移り住んだとしても、日羽は〈自分ひとりの部屋〉に暮らしていることは変わらないのだと示される。そこから出るには、姉の喪失に向き合って、喪失と生きる覚悟をしなければならない。

査定最下位という絶望のすえに幻覚を見る醜態を仲間に晒してしまい、なかば発狂した日羽は、衝動的に次の行動に出る。CoCoネェさんのぬいぐるみの口をガムテープで塞ぎ、ゴミ袋にいれて、クローゼットにつっこむのだ。ついでにぬいぐるみが付けていたヒマワリの花冠はゴミ箱に投げ入れて。
これが対処法としては最悪なことは言うまでもない。死んだ姉の象徴たるぬいぐるみを、部屋から出すどころか、部屋のなかの〈クローゼット〉に押し込んで、何重にも覆って抑圧している。対処法どころか、ますます日羽の問題は根深くなるばかりだ。

では、日羽はどうすればよかったのだろう?
花かんむりだけでなく、ぬいぐるみごとゴミ箱に捨てて、部屋から出してさよならすれば〈自分ひとりの部屋〉から抜け出せる?

そうではない。そんなことはできないし、してはならない。あのぬいぐるみを捨てることは、姉の思い出を完全に捨てて忘却することだ。喪失と一緒に、生きて笑っていた頃の故人の記憶までも手放してしまうことだ。そんなことは出来るはずがない。だから日羽だって一度はゴミ箱につっこんだ花かんむりを取り出して棚の上に飾っていたではないか。

では、ぬいぐるみではなく日羽じしんが部屋から出ていけばいい?

それもまた不可能であることはわかりきっている。引っ越して部屋を変えても〈自分ひとりの部屋〉はついて回る、とさっき指摘したばかりだし、人間が自分の部屋を捨てて生きていくことが救いとして描かれるはずもない。それは、原発事故によって故郷を追われてしまっている人が多くいる、福島県いわき市を舞台にした物語ではなおさらあり得ない。

では、どうすれば〈自分ひとりの部屋〉という呪いが解かれたことになるのか。

答えは簡単だ。自分以外は誰も入ってこれない、閉じた(closed)棺桶のような部屋だから駄目なのだ。ましてやその中心である形見を何重ものclosetに閉じ込めて、うわべだけ目に入らないようにしていたって逆効果である。
だから、閉じこめて、密閉するのではなく、開ければいい。風通しを良くすればいいのだ。そうして、誰でも入ってきていいし、誰でも自由に出ていける、そんな空間にすればいいのだ。

※補足3:この「誰でも入ってきていいし、誰でも自由に出ていける空間」とは、象徴的にはスパリゾートハワイアンズそのものが当てはまるかもしれない。レジャー・リゾート施設であるという商業的な意味でももちろんそうだし、そこで働く日羽たちフラダンサー側からも言える。もしかしたらハワイ出身のオハナにはそんな国籍を越える風通しの良さが仮託されているのかもしれないし、「社内恋愛」によって結婚(そしておそらくは妊娠出産)するためにフラダンサーを引退して退社したあやめ先輩の存在もまた、出入りが激しい風通しのよい職場であるといえる。(まぁ、現実で社員の入退社が激しい職場なんて超絶ブラックなことがほとんどだろうけど・・・)
そもそも、福島県いわき市にハワイのフラ文化をテーマにしたリゾート施設を立ち上げて、いわきを「フラダンスの町」として有名にしてしまう、という時点で発想がぶっ飛んでいて、海外文化を貪欲に取り入れていく開かれた姿勢の賜物だといえるだろう。だからフラダンス選手権で日羽たちがアイドル文化を取り入れるのも「ハワイアンズ」の本質からして何も間違ってはいない。


・風通しのよい部屋

両親が美容室「おしゃれサロンなつなぎ」を営む日羽の家は、かつて一面のひまわり畑に面していた。しかし14年前の津波によって畑は失われ、今では切り立った斜面の崖になっている。二階の日羽の部屋には、海(太平洋)に面するように東向きの窓がある。冒頭の起床シーンでは、その窓は閉じている。カーテンの隙間から朝日が強く差し込む部屋のなか、日羽はなかなか布団から出ようとしない。ベッドでもぞもぞやっているうちにCoCoネェさんのぬいぐるみが地面に落ちる──あのぬいぐるみを抱いて寝ていたのだ!

ここで、なぜ日羽の部屋の窓は閉まっているのか?

それは、窓を開けたら海があるからである。姉を奪ったあの海が。

作中では姉:夏凪真理の死因は描かれない。
冒頭の回想シーンで、姉のハワイアンズのソロステージ中に地震が起こったかのような場面があるが、これは実際の記憶ではなく、日羽の記憶のなかで象徴的に再構成された映像だろう。「フラダンサーとして輝いていた大好きなお姉ちゃんをあの震災が奪った」という日羽の主観的な認識が生み出したイメージに過ぎない。

なぜなら、「日羽も見に来てくれるんでしょう? お姉ちゃん今日ね、ソロで踊るんだ」と姉が微笑んでいるのは一面のひまわり畑の前。つまり真夏である。件の震災は夏に起こったのではない。
(もっと慎重に考えれば、そもそもこのひまわり畑のシーンからして「姉=向日葵」と思っている日羽の再構成された記憶であり、実際のソロステージは真夏ではなく3月だった、だからやはりパフォーマンス中に地震が起こった……という可能性も無くはないが、今回は無視する。また、姉のダンスを観ている日羽の主観カットが地震のように揺さぶられているだけで、当の真理本人は平然と踊りを続けているようにも見えることからも、この主観カットのみがイメージ映像である、という解釈の妥当性がいえる。)

冒頭の回想で(象徴的に)描かれているものの、その地震が直接的な死因だとは考えにくい。設備係の鈴懸涼太が日羽に説明したように、ハワイアンズの設備があの地震によって被害を受けたことは確かだ(おそらく実際の被害をそのまま引用しているのだろう)が、かといって例えばステージ上部の照明機材の転落による事故死だとは思えない。スパリゾートハワイアンズに全面取材したこの映画で、現実の施設の営業にとって著しく風評被害を与えかねないそんな設定をわざわざ付けるはずがない。直接の死因が地震でないならば津波……と考えるのもそれはそれで短絡的ではある。じっさい、ハワイアンズは山の上にあり、津波の浸水想定区域ではない。だから、真理が津波で亡くなったとすれば、やはり冒頭の地震シーンはイメージであり、実際には真理は地震発生時にハワイアンズでステージに立ってはおらず、より海に近いところにいた可能性が高い。


どう推測するにしても、作中で明確に描かれていない以上、「津波によって真理は亡くなった」というのが予想の域をでることはない。しかし、上述した、家の前のひまわり畑が津波によって失われたことから、少なくとも象徴的・日羽の主観的には、姉の死に海が結びついていることは明白である。

家のすぐ近く、部屋のすぐ外にある〈海〉が、最愛の姉をじぶんから奪っていった。だから、海に面する東向きの窓は決して開けない。開けてしまったら、姉の死という、必死で抑え込んでいる事実がまた自分を呑み込んでしまうから。お姉ちゃん=ぬいぐるみをもう奪われるわけにはいかない。だから窓を閉じ、部屋の敷居は誰にも跨がせない。かくして自分ひとりの部屋は完成する。自分ひとりの部屋で、日羽はもういない姉の幻影を見続けている──「幻影を見ている」ということすら抑圧して。

窓を閉めているのは、実家を出て入ったハワイアンズの寮の部屋でも変わらない。終盤、日羽と真理の名前を合わせて「ひまわり」になるのだと知った日羽が、口をガムテープで塞いでゴミ袋にいれて〈クローゼット〉に閉じ込めていたぬいぐるみを解放してベッドの上に乗せて対話する夜のシーンでも、窓は閉じたままだ。

しかし、この映画の最後に、窓が大きく開け放たれ、風と桜の花びらが通り抜ける、誰もいない日羽の部屋のカットが映し出される。

──もう、〈自分ひとりの部屋〉ではないのだ! 日羽は、姉の喪失を受け入れて、自分ひとりの部屋から出ていくことができたのである。部屋を抜け出せた日羽は、象徴的な空間のなかで海に向かって高台を掛けてゆく。姉の喪失を受け入れたということは、海もまた、姉を奪った恐ろしくて憎い〈海〉ではなくなったということだ。

海=姉に向かって日羽は叫ぶ。「わたしは、ここにいるよ」。そうして朝日は太平洋から上り、太平洋沿岸の土地は一面に咲き誇るひまわりに覆われる。福島県いわき市の朝日は海から上るのだ。だからひまわりは海に向かって咲き、折れても、また力強く咲き直して、笑う。


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