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フリーランスを目指すきっかけの出来事。「推し」を推せるのはいつまで?

人生TOP3に入る挫折。それは大学の部活で、レギュラーになれなかったことだ。

私はその競技を10年間続けていた。多分、同期の中でも経験値はある方だったと思う。
レギュラーの中には大学からその競技を始めた「初心者」もいた。自分はよほど実力が無いのだなあと落ち込んだ。

レギュラーにはなれなかったが、なぜか部長には選ばれた。
その日から、ほとんど自分が競技をすることはなくなった。
やることといえば、練習場の割振り、合宿の準備、全国大会遠征に向けた段取り。いわゆる事務方の仕事ばかりしていた。
全てはレギュラーが、全国大会でいい賞を取るための準備だった。

8月のお盆過ぎ、東京で全国大会が行われた。
壇上でレギュラーの皆がする競技を、会場の一番前の席で見た。
お腹の底から応援の声を出した。声と一緒に、今まで感じたことのない熱い温度が身体の中から湧き出て、いつの間にかそれは涙になった。
レギュラーになれなかった悔しさは、もう身体のどこにも残っていなかった。
その時に気づいた。
私は、応援することが好きだ。
自分がスポットライトを浴びることも好きだ。でもそれよりも、自分が大好きな人たちが、最高の景色の中で立っているのを見るのが好きなのだ。

その出来事以来、私は数々の「推し」を応援してきた。
時にはアイドル。時にはアーティスト。時には起業家。時には身近な友人。
そんな私に、2021年の春、人生最強の推しができた。
娘だ。

10ヶ月もの間、まさに私の身体の一部だった娘は、産まれた瞬間から何にも代え難い私の推しとなった。
娘のためであれば、今まで推していた人達への応援を躊躇いなく諦められた。その存在は絶対的なものだった。

彼女が1歳を迎えて数日たった2022年の4月。
それまで1日24時間のうち23時間は手の届く距離で一緒にいた娘と、距離を置く時がきた。
仕事復帰に伴い、近所の保育園に預けることになったのだ。
その時から、私には少しずつ「何か、間違っている」という違和感が近づいていた気がする。
それでも、仕事はその違和感を周回遅れにするようなスピードで目の前に立ちはだかった。違和感を言語化する暇もなく、ひたすら目の前の仕事をパンチして倒していた。

その年の年末。
息切れしながらもなんとか繰り出し続けていたパンチが、ついに出せなくなってしまった。

通常なら3ヶ月ほどかけてやる分量を、1ヶ月半で終わらせる急な案件を任された。アメリカのとある市場の調査だった。
プロジェクトマネージャーと名乗りながらも他にメンバーはおらず、ほとんどひとりで作業をしていた。

日本のワーキングアワーは、ひたすらひとりで資料を作る。
夜になり、海の向こうのアメリカで上司が朝のコーヒーを淹れだす頃にレビューが行われる。沢山ついた上司からのコメントの処理を済ました頃には、いつも時計はてっぺんを大幅に過ぎていた。

娘との時間は、このサイクルの隙間にぎゅうぎゅうに押し込まれた。
朝の支度。服を着替えて、ご飯を食べさせ、荷物を詰めて保育園に連れて行く。
すっかり暗くなった時間に夫が娘を連れて帰宅する。ご飯を食べさせ、お風呂に入れ、髪の毛を乾かし、夫と共に寝室に入る娘の背中を見送る。そして仕事部屋に戻る。
やらなければいけないことを、抜けもれなく終わらせることにひたすら集中した。
自分のタスク処理能力って、大したもんだなとさえ思っていた。

その日は、深夜1時過ぎにようやく仕事を終えた。
最後に、今日中に(日付は変わっているので、今日、ではないけど)済ませるべきタスクを確認して気づいた。
あ、保育園の連絡帳、書いてない。
いつもは娘と夫が湯船に浸かっている時間に書く連絡帳を、その日はなぜか忘れてしまっていた。

連絡帳のアプリを立ち上げる。
夕方のうんちの回数、夕飯のメニュー、入眠した時刻、そして、その日の家庭内での出来事や様子を書く記述欄。
最後の項目で、スマホをタップする左手が止まった。
はっとした。

あれ?
今日、娘と何したっけ?
娘と何を話したっけ?

うんちが出たことも、夕飯を残さず食べたことも覚えている。
でも、そのとき娘がどんな顔をしていたのか覚えていない。
体調が悪くないことは確認した。
でも、娘とした会話のやりとりを覚えていない。

ざわつく心で、なんとなく保育園からの通信欄を最新のものから数カ月分ランダムに遡って読んでみた。
『はじめてのカレーライス、おかわりしました!』
『今日ははじめて、公園までカート無しで歩いていくことができました』
『英語のクラスでは、はじめての外国人の先生が怖くて少し泣いてしまいました』
そこには沢山の、娘の「はじめて」と「挑戦」が書かれていた。
そのはじめてと挑戦を娘のそばで応援してくれたのは、保育園の先生たちだった。

私の大好きな「推し」が最高の景色の中で立っているのを見ていたのは、私ではなかったことにようやく気づいたのだ。

それに気づいたとき、ちょうど閉じかけていた会社のパソコンからチャット音が鳴った。
それは、納品する資料に引用していたデータの重要なエラーを知らせる同僚からの連絡だった。ここ数日の作業が、白紙に戻ってしまった。

目の前の風景が涙で歪んだ。
娘の夜泣きに負けないくらいの声で、わんわん泣いた。
ずっとランナーズハイで走っていたマラソンで急に立ち止まり、ズキズキと脇腹が痛みだしたような感覚だった。
それまでいろんな感覚を麻痺させながらなんとか走っていたのに、一度痛みだすともう最後。それは無視できない痛みになった。

あまりにも頭がくちゃくちゃで今となっては覚えていないが、もう辞めたい。もう働きたくない。私はそう言って泣いていたらしい。
あまりの声にびっくりして、仕事部屋に入ってきた夫から後日聞いた。

この日の出来事が、私がいまの働き方を見直すきっかけになった。


「推しは推せるときに推せ。」
誰が何に対して言い出したのか分からないけど、そんな言葉がある。言い得て妙だと思う。
絶頂期に急に引退を決めた推しのアイドル。絶対的な人気があったにも関わらず、オーディション番組でデビューを逃した推しの練習生。活躍していた最中、精神を病んで行方がわからなくなった推しの起業家。
数々の推しを応援してきた中でいくつかの突然の終わりを経験してきた私は、この言葉の重みを十分理解していたつもりだった。

私が娘を推せるのは、いつまでだろうか。
娘にとって、私の応援が必要なのはいつまでだろうか。

例えば、たった5人しか集まらない会場で歌うアイドルにとって、そのうちの1人の応援はきっとかけがえのない価値がある。
でも、5万人が集まる東京ドームの中の1人の応援は、果たしてどこまで価値があるのだろうか。

娘はこれから成長していく。色んな場所に行き、色んな人に出会う。彼女を応援してくれる人はきっとどんどん増えていく。
母の応援が大きな価値を発揮する期間は、意外とかなり短いのかもしれない。
そうであれば、その限られた期間、後悔のないくらいに娘を推して推して推しまくりたい。
娘が母の応援を必要としてくれるとき、迷わずかけつけたい。
そのためには、自分で自分の仕事の量をコントロールできるようになりたい。

そして、娘がいつしか沢山の応援を得たとき、それでもやはり母の応援こそが1番彼女の背中を押せる存在でありたい。そのためには、ただお金のために与えられた仕事をへとへとでこなすのではなく、好きなことをして輝いていたい。

そんな思いを持って、私は今、フリーランスを目指しています。

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