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思いと重いと想い

 タイトル通りの話を今日はしたいと思います、っていうかこのような話をしたい気分になっちゃったからするんですけれどもね。

 私はnoteに関しては、自分が更新したいなぁって思う瞬間に更新するというスタンスを取っているので、非常に不定期更新になってるんですね。そういうこと。特に最近は更新したいなぁって思ってたんですけど、いまいちやること多くてできてなかったのが本音です。終わらんやることが。多すぎ。


 さて本題に移っていこうと思うのですが、「おもい」という言葉を聞いたときに、まず思いつくのは『思い・重い・想い』、どれでしょうか?

 私が「思い」つくのはやはり「重い」という文字である。いかんせん普通の文脈で多く登場するであろう『おもい』は、重量を表す『重い』であるとと考える。日本人はどうも熱い話をすることを控えがちであるために、「思い」や「想い」という話は出てきづらい。まぁ、会社の研修セミナーとかになるとまるで偽善者の如く「思い」や「想い」を語りだすものですが。

 今回なぜこんな話を持ち出してきたかというと、自分自身の「想い」が「重い」と感じてしまったから。そう。そう感じてしまった。総勘定元帳。

 わかってるんですよね。重いって。最近そう感じることばかり起きていて、本当に刷り込まれているとしか言いようがない。

 自分は一人っ子として生まれ、親の過剰ともいえる寵愛ちょうあいを受けて育ってきてしまったもので、人を過剰に愛することしかできない。裏切ることもできないし、期待以上を返してあげたいと思うのが私の根本にある。だからこそ、人に裏切られると非常にショックを受けてしまうし、過剰な愛で相手を疲弊させ、自分まで過労気味になるという悪循環を生みだしてしまう。
 しかも、期待以上に返してあげたい、見返りを求めないというスタンス(これに関しては、前に投稿した下記ポストを参照するとわかりやすいかもしれない。)

によって、自分を犠牲にすることを美学としているくせに、実際には少しは返してほしいと思ってしまう自分が居る。多分それは過剰に寵愛されてきたから生まれた、『自己憐憫ジコレンピン』であると考える。この言葉はいわゆる「かまってちゃん」と同意義であるとされるらしい。

 つまりかまちょな癖に人に尽くしたいという一番めんどくさい精神コンボなんですね。笑ってしまう。こんなめんどくさい人間になってしまいました。すまない。
 こういうことを言ってると、「君は気にしすぎだ」とよく声を掛けられるんですが、そんなことはわかってます。でも、気になっちゃうんですよ。至上命題と化してるんですよ。人生の。自分の存在意義が分からないっていうことに陥るんです。なんで生きてるのか分からない。人に尽くすために生きてるはずなのに、自分は人に尽くすほどの資格がない。だって構ってほしいがために自己顕示欲のために、人に尽くしているんだから。これじゃあお前、自分のために人を犠牲にしてるじゃねぇかと。それが怖いんですよ。

 「愛する」というコトの難しさにも最近たどり着いてしまった。さてここで愛するという言葉の定義についてでも確認しましょうか。愛用している『新選国語辞典第九版 二色刷』に準拠して定義しましょう。

—「愛する:①かわいがる。愛情をそそぐ。②異性に愛情を持つ。③すきこのむ。④たいせつにする。大事に思う。」
          —(新選国語辞典第九版〈二色刷〉第二刷/4頁/上段)

 ふむ。なるほど。さて、辞書でよくある「意味を引いたものの、そこの説明で用いられている単語の定義が自分の中で曖昧で理解が困難である」が発生しているわけだ。今回の該当単語は「愛情」である。愛情ってナンダ?、まぁこんな揚げ足取りしてると、さっきテメーが使っていた『寵愛ちょうあい』もわかりづらい言葉じゃねーか、という声が飛んできそうだ。
 ちなみに『寵愛』は、「身分の上の人が、特に愛すること。かわいがること」(新選国語辞典(以下略)/833頁/中段)と定義されている。
 おっと。「愛する」という言葉が登場してしまったので、より「愛する」という言葉を深堀りしなければならなくなったな。

 さて、先ほど議論の中心に呼び出した「愛情」を引いてみよう。
—「愛情:自分のみぢかにいる人や異性をたいせつにする心(原文ママ)」
                  —(新選国語辞典(以下略)/3頁/下段)

  なるほど、結局「大切にする」ということが、『愛』のキーとなっているのだなと推測できるわけだが、こういったひん曲がった人間としては、『愛』という言葉を引いて定義を参照し、整合性チェックを行いたくなるのが本音だ。めんどくさいけど。最近三浦しをん先生の「舟を編む」を再読したばかりだから辞書を引きたくなるのかもしれない。定義を調べたがるのは昔からだが。辞書を読むことを勉強の代わりに逃げとしていたおろかか者だから。

—「愛:①かわいがりいつくしむ心。愛情。②親しみしたう心。思いやり。③異性を恋しく思う心。恋。④物事をこのみ、それを大切におもう気持ち。」           —(新選国語辞典(以下略)/1~2頁/下・上段)

 辞書の定義についてひたすら引き続けていくと永遠に終わらないのでここらへんで終わりにしておきましょう。そもそもコトバを辞書上だけで説明するということは非常に難しいというか、無理なのだから。そうだったら、なぜ文章以外の表現技法写真や映像、音楽が存在しうるんだって話なのだから。

 さて、結局「愛する」ということは、『可愛かわいがり、いつくしみ、思いやり、親しんでしたい、大切にする気持ちを注ぐ』ということだ。

 だが、自分はあえてここに疑問をぶつけたい。というよりは自分の考えが誤っているのではないかと最近疑問で不安だから晒上さらしあげるだけということなのだが。

 「愛する」ということは、果たして大切にするあまり、はたまたかわいがって慈しむあまり、相手がしたことを全てゆるし、受け入れ、自分を犠牲にすることなのだろうか。自分はそういうモノなのだろう。と生きてきたのだが、ここの所二日ばかりで疑問と化してしまった。
 自分を捨てて、相手をおもんばかって、愛しむことが正解なんだろう?そうなんだろう?違うのかい?違ったら自分のアイデンティティはどこへ?一度でもそういう状況に陥ったらどうすりゃいいのさ?いつでもリスクは考えてなきゃダメだろう?それを君達は「キミは気にしすぎだ」という言葉で済ませるのか?自分がどれだけおろかだろうかと考えている人間に対して掛ける言葉かそれが?どうなんだい?

 そういえばこの前自分が一ミリも全く分かってないことを討議の質問の場で出しては、議論が崩壊するだけで全く建設的にならないから控えるべきだと注意されたばかりなのに早速守れてないや。自分が少しでも分かることを疑問として上げればよかったね。しかも最近指摘された、常用漢字以外を乱用する癖も抜けてない。どうしましょうか。



生きてて正解?キミも。ボクも。
ボクは少しわかる。自分のために生きてるじぶんをしめすためと思ってるから。
正解ひとりよがりだと思う。





その答えを人間は独りで出せないから、人を慈しみ、愛し、想い、見出そうとするんだろうね。ありがとうございました。



後半戦横浜の写真ばっかりで笑った。
・カバンのロゼリア:ポケセン横浜にて
・首都高の光筋:横浜マリンタワーから山下・本牧埠頭方
・プレゼントのイルミネーション:横浜大さん橋からみなとみらい地区
・最後の光筋:横浜高速鉄道みなとみらい線馬車道駅

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