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見えない湖 24

 僕は急ぐようにして家を出た。鍵を閉めることすら忘れて、扉を開け放った。外は寒く、ダンさんを意図的に隠しているように霧で覆われていた。街に出ていこうとする。しかし、ダンさんの手紙を思い出した。
『僕は自然に帰るべきなんだ』
 この一文から、ダンさんは街には行っていないと予想できる。探さないで、と言われても、探してしまうのが人間だ。
 結局僕はダンさんのことを何も知らなかったし、聞けなかった。怖い気がしていた。でも最後ぐらい一言でも話したかった。
街の方角に向かっていた足を裏山の方に向ける。白い靴に穴が開き、限界にきていることに気づいた。だが、そんなことを気にしている余裕などない。今までの人生で一番に入るぐらい走った。家屋と家屋の間の小道を抜けて行く。この街を探索したお陰で、地理は覚えることができた。それに、大体の匂いで何が近いかもわかるようになっている。肌寒くなってきているので、山に近づいていることもわかった。
 山の麓で、墓のような石が横一列に並んでいる場所を見つける。いくつかの石の下半分が、苔で覆われている。こんな場所が今まであったのかと疑問に思う。その場所に、一人の人間の姿が見えた。
横を通り過ぎながら見てみると、手を合わせているヤシロさんだった。表情はいつも以上に豊かだった。その眼差しのまま僕を見た。全てを知っているかのように走っている僕をヤシロさんは見ていた。僕は顔を山に戻し、走って行く。
 ダンさんを探すための感覚的情報は揃っている。だが、体力だけはどうしようもなかった。息を切らしながら森に入っていく。森に対しての恐怖感はあまりなかった。森が僕の見方のように思える。これまで、幾度となく入ってきた森だ。怖いものなどないように思えた。大体のことはできるような気がしてくる。葉の間から差し込む木漏れ日が僕を応援しているように思う。僕は軽快に走った。体力はないけど、どうすれば足に負担がなく走ることができるかは知っている。
 ダンさんはどんな状態なのだろうか。自ら地面に埋まってしまっているのではないか。自分を火炙りにしているのではないか。山の中の川に身を投じているのではないだろうか。様々なネガティブな考えが炭酸飲料を注いだ時に泡のように一気に溢れてきた。
 僕の頬には滴がついていた。木から滴り落ちたものなのか、自分の目からこぼれたものなのか、それとも額から出た汗なのか分からない。
 足元では、枯れ葉を潰す音や小枝が折れる音が響く。上の方では、葉と葉が体当たりしている音が聞こえる。大きな枝が足に引っかかり、こける。それでも立ち上がった。自分が勇者のように思えてきた。一人の大事な人を助けに行っている勇者だと。満身創痍になりながら足を必死に動かしている。しかし、ダンさんの姿は一向に見つけられなかった。どこにいるかの検討もつけられない。
 足が動かなくなる。後ろを振り向いた。そこにはもう、自分が歩いてきた道のりを見失っている。前を向いても真っ暗で、どこに向かっているかさえ分からない。聞こえる動物の声も大柄な動物の声のようだ。
 僕はシャツを脱いだ。上半身裸になる。そして靴を脱ぎ、ズボンも脱いだ。パンツ一丁だ。笑みも涙も出てこなかった。最後にゆっくりとパンツを脱ぐ。裸で立っている。生まれたままの姿だと思う。大人になった僕は、裸で森の真ん中で立ち尽くしている。
 直立二足歩行をする。そのまま、森の深くまで歩いていく。目の前に湖を見つけた。前、見つけた湖と同じようだ。やっと見つけたと安堵する。
 湖の側には、小人が何人かいて、釣りをしている。彼らは僕の存在に気づいたのか、手招きをして湖の中を指差す。そばまで行くと、湖の中では大きな魚が泳いでいるのが見えた。金色の背びれが鮮やかに見える。あれこそ僕が釣り上げようとしていた魚だ。しかし、今は釣り上げようとは思わない。
魚は、湖の中を優雅に泳いでいる。魚が通った後は、水が澄んだのが見える。浄化しながら泳いでいるようだ。
 僕は少し後退り、地面に腰掛けた。湖をゆっくり見たかった。ここからの光景は、立ってみるのとは違い、湖の水面は金色に見えた。このまま一生ここにいてもいいと思った。
 上半身を後ろに倒し、枯れ葉でできた大きな絨毯に寝転ぶ。横腹に小枝が刺さったのを感じる。顔面にも、足にも葉がまとわりつく。枯れ葉と小枝の弾力によって倒れたときの衝撃はなくなり、優しく包みこんでくれるようだった。空では大きな虹色の鳥が飛んでいる。
 仰向けで目を瞑る。森はずっと同じ音楽を奏で続けている。しかし、全く同じ音楽は流れていなかった。ダンさんとの楽しい日々を思い出そうとした。しかし、記憶の断片だけが浮かび上がる。細部が徐々に消え去っていくことを感じる。細部だけでなく、重要な部分までもが消えてなくなってしまっている。こぼれ落ちるように何もかもなくなってしまった。
 涙が溢れてきた。でも、悲しい涙ではないような気がした。涙は頬を伝って、髪を伝う。最後には葉にたどり着いた。土の匂いがしてくる。多くの死骸を含んだ、香ばしい土の匂い。僕もこの一部になりたいと思った。ここで何億年も築かれ、育ってきた森の一部に。僕の望みはそれしか残っていない。
 目を閉じる。鹿の甲高い鳴き声が聞こえる。猪の息遣いが聞こえる。熊の冬眠の寝息が聞こえる。蟻の足音が聞こえる。土の中から根が生える音が聞こえる。木の生命を終えた葉が落ちる音が聞こえる。様々な生命の営みが五感を通じて伝わってくる。
 僕はやっと動物になれたのかもしれない。この地球に生命を受けた意味が少しだけわかったかもしれない。上空を見上げると、太陽が本来の赤色を取り戻しつつある。少し経つと暗闇に包まれる。星が見えてきた。そして、宇宙が見えてきた。真っ黒な宇宙の中に、たくさんの星が無重力の中動いている。火星、木星、彗星。それを包み込む銀河系の輝きも見える。だが、それよりも大きな何かが見えた。宇宙の暗黒をも包み込む何かが。神々しく輝き、宇宙の星たちをも包み込んでいるものが。
 僕は包み込まれている。今もこの先、この肉体から離れたとしても。大きくて図ることのできない何かに包まれて生きていくのだろう。何にも遮られることのない大きな光。それを感じると体が温かくなってきた。


 僕はゆっくりと目を閉じた。

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