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見えない湖 16

 建物の中は無音ではなかった。無音で不気味な建物内を想像してしまっていた。二階や一階から何人かの人の声が聞こえてくる。比較的楽しそうな声だ。この声を聞くとなぜか安心した。
 玄関の正面には、大きな絵が飾ってあった。その絵は、浜辺の夕暮れを表すように、赤い太陽は左上に存在し、海のような地平線が見える。下の三分の一は砂浜のようだった。これだけなら感動したが、絵の下の方が黒色に、まるでウナギ漁のようにぐちゃぐちゃに塗られていた。それが何を表しているのかが分からなかった。何も知らない僕は、これが芸術作品なのだ、と考えた。しかし、違和感は拭えない。その場で立ち止まり、その絵をじっと見ていたが、ダンさんは先に進んでしまっていた。
 大きな夕日の絵を左に曲がる。薄暗い廊下をまっすぐ進んでいく。いったん廊下を出ると、そこには体育館のような場所があった。そこでは、先ほどよりも一層人の声がすることが分かる。重い扉を開け入ってみると、たくさんの人がひしめき合っていた。牧場で柵を設けられた家畜のように大勢の人がそこには収納されていた。
 何かの芸術作品のような物がパネルに飾られている。パネルに表示されているものだけでも相当な数があると分かった。芸術作品をこんなにもじっくりと見る機会もないので、作品のよさが分かるかどうか不安になった。
 どの絵も新鮮で、綺麗かつ不快だった。農村を映した風景画かと思うと、角にはひそかに人が死んでいる絵。透き通った水の下に、人間の臓器がある絵。写真にしても動物の死体や拷問など明るいものが一つもなかった。なんのメタファーなのかサッパリ分からない絵や写真が所狭しに並んでいる。このフロアは主に平面で表現されたものだった。一つ一つ見て回りたくないのに、どうしても見てしまうような不思議さがあった。周りの見て回っている人々は、誰も不快な顔をしていないように見える。その違和感も重なって、吐き気を催した。ダンさんも淡々と一つずつ作品を見て回っている。この場に耐えられなくなった。
「すみません。一回外の空気吸ってきます」と、ダンさんに言って外に出た。
外の空気を吸うと気持ちが晴れると思ったが、そうではなかった。何か触れてはいけないようなものが、内側からあふれてくるような気がした。嘔吐物は出なかった。しかし、吐き気は何度もした。
 深呼吸をしていったん落ち着いた。近くの階段に腰をおろす。そこには、一人の女が座っていた。歳は僕と同じぐらいだろうか。清潔感が全くなかった。顔が黒く焼けている。着ている長袖と長ズボンは上下とも汚れ、所々破れていた。風呂に長い間入ってないような匂いもする。しかし、鼻筋は綺麗な直線を描き、目もパッチリとしていた。清潔にすれば、損はない顔立ちの女だった。
「正しい世界って何なんですかね?」女は下を向きながら話す。
僕は、ただの独り言だと思って何も返さなかった。
「私は今どこにいるのか分かりません。場所はもちろん分からないし、時間も環境も分かりません。どうしたらよいでしょう?」言い終わった後に、悲壮感の漂う顔で僕を見てきた。こんなに女の人に見つめられることはあまりない。これには逃げ切れず、「僕も分かりません」と答えるしかなかった。
「ですよね。ここに来てからずっと考えてます。なぜ私はこの世界に存在しなければならないのか。誰がどこにいてもいいはずなのに、そういうわけにもいかない。生きろと言われるのに、本当に生き辛い。でも、死にも出来ないんですよ。生き辛いと言いながら、死ぬのは怖いんです。今私は、何をもって息をしているのか分からないんです」
 そんなこと僕にも分からない。そして、なぜあんなくらい絵や写真を見せつけられるのか。この女の悩みが痛いほど分かった。しかし、今の僕は困惑と不快感で覆われている。なぜ僕に話しかけてくるのかが分からなかった。
「私はここの絵を何枚か担当したものです。絵を描くのは好きなんです。色んな嫌なことも忘れられて。でもどうしても、綺麗な絵で終わらせられないんです。綺麗な絵は私にとっての暴力なんです。こんなに汚い自分がいるのにと思ってしまう。でも、自分の描いた絵の強烈な印象は、頭の中に生き残り続けてしまうんです。あんな絵を描いていると、自分自身の精神もむしばまれてしまんじゃないかって、不安で、不安で。私はゴッホみたいに、自分の命を懸けてまで綺麗な絵を描けないんです。短命でもいいから絵にすべてを掛けたいとは思えない。だから、あの『楽園』で住むことはできないんです。もっとみんなを魅了する絵を描かないといけないんです。すみません、何言ってるか分からないですよね」
「らくえん?」僕は我慢できずに聞いた。
「知らないんですか?もしかして、あなたは絵描きでも写真家でもない人か。ということは芸術家でもない。あの『楽園』こそ、私たち皆が目指すべきで最終地点なんですよ」女は言った。「楽園かもしれないし、地獄かもしれない。それは、主観的な次元になるんだと思いますけど、そこには必ず何かがある。私はそう信じたいですね」女はズボンのポケットから、皺で形を無くしているたばこを懐から取り出し、吸い始めた。そして煙草の煙を天に向かって吹く。その煙は空中に吸い込まれるように消えていく。加湿器からでる水蒸気のように、空気の一部になった。
「どんな場所なんですか?」僕は食い気味で聞いた。
「それは自分で行ってみるのが一番早いと思いますよ。言葉で説明し切れません。今日は誰かに連れてきてもらってるんでしょう?」
「はい」
「じゃあ連れて行ってもらうといいですよ。あなたの感じだと、あんまりおすすめはしないですけどね」
僕はすぐに『楽園』という言葉に捕らわれた。本当にそんな場所は存在するのだろうか。だが、そこには必ず何が存在している。自分の目で確かめるしかない。しかし、ダンさんは連れて行ってくれるのだろうか。
 ダンさんを待たせていることを思い出して、階段から腰を持ち上げる。女に頑張ってください、とだけ言って建物の中に戻った。先ほどの青年の話を聞いた上で絵を見てみた。そこには、男に会うまでとは違った見方で絵を見ることが出来た。この絵や写真たちには、想像もできないような苦悩や楽しさがあるということが想像できた。主観が少し揺らいだ瞬間だった。
 ダンさんは表情を変えることなく作品を見つめていた。そこには誰も話しかけてはいけないオーラを放っている。僕は、ダンさんの見ている作品を後ろから見てみた。その絵は、ただの家の中を描いているものだった。しかし、その家の中は僕が今住んでいるところとそっくりだった。居間の囲炉裏、箪笥、襖、棚、玄関の配置など同じだった。それを見た瞬間、鳥肌が立ってきた。色々な想像ができる。誰かもう一人の人が家にいるのか、昔に誰か住んでいたのか、もしかしてダンさんが描いたものなのではないか。
 ダンさんは振り返り僕の存在に気付く。
「気分は良くなったかい?」ダンさんは言った。
「外の空気吸ってだいぶんマシになりました」
「まあ仕方ないよ。ここにある作品たちは、一般的には受け入れられないかもしれない。けど、付加価値がついた作品よりもよっぽど価値があるように僕は思う。魂というか、脳を越えたところで描いていると思うんだ。詳しくは知らないんだけど」ダンさんはそう言いながら次の作品を眺めに行く。どの作品も余すところなく見ている。受験で自分の番号を探すぐらい丁寧に、上から下まで見逃さないように見る。
「疲れてるなら外にいてもいいよ。待たせちゃうかもしれないけど」
「いや、大丈夫です。まだ見れます」
 僕は強がったが、心の中ではこの空間は一種の狂気だと感じていた。どうすればこのような陰鬱で、暗い写真や絵を正常な精神で見ることが出来るのだろうか。先ほどの青年が言っていたように、書き手にも暗い感情が存在しているのに、読み取り手の感情はどこに置いておけばいいのかが分からない。しかし、僕は楽しんでいるダンさんの邪魔をすることは出来なかった。下向きがちにチラチラと絵を見ていく。
 最後の絵を見終わると、ダンさんは嬉しそうな顔をした。
「あー、だいぶん疲れた。いつも頭がぐるぐるになって吐きそうになる」ダンさんは、体育館のような建物を出てから言った。その一言で僕は一気に安心感を取りもどす。ずっと背負っていた重い荷物で痛くなった腰が少し楽になるようだ。ダンさんはもしかしたら何か芸術で大成した人なのかも知れない。農業をしているところはしか見たことがないが、隠れて何かをしているのかも知れない、と思った。


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