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見えない湖 20

 ダンさんは大きく深呼吸をしてから、また歩き出した。僕は、「もう帰りませんか?」と言いたかった。でも、言い出せなかった。僕は知らない間に欲していた。生と死が入り混じった芸術の真の姿を見ることを。自分の身の危険など、どうでも良くなってきていた。好奇心と恐怖心を併せ持ったものが、人間にとって重要である。そんな錯覚さえ覚える。
 煙が街の上空を覆っている。田舎特有の野焼きだと思った。煙の匂いがマスクをすり抜けて入ってくる。しかし、草や木を焼いている匂いとは違う。鼻に入るのは、肉を焼いた時のような香ばしい匂いと何かが腐ったような異臭だった。民家と民家の間から炎の出所が見える。
 荒地の真ん中で大きな山になったものが燃えている。目を凝らして見てみると、人間の頭部や腕、足のように見える。激しく燃え盛る炎の中、生という仕事を終えた人々が死という仕事の最後を担っていた。
 僕は火葬の現場を見て、これまでに見た血や人骨を思い出した。あれのために生命を落とした人がいるのだろうか。自分たちで志願してあんな形でこの世に残ったのだろうか。想像は行き場をなくした迷路のように立ち止まっている。
「僕は、人間が一番いい生命の終わり方だと思うのは火葬だと思うんだ。燃やすと煙になるだろう。煙は空気になる。骨や皮膚の灰は土に帰る。地球に生まれたものが地球に帰って、また生まれ変わるんだ。これは、物質的な問題だけどね」ダンさんは、僕が立ち止まり火を見ていることに気付き、声をかけてきた。
「じゃあ、魂はどこにいくんですかね?」
「自分の行きたいところに行くんだよ。キリスト教、仏教、イスラム教とか自分が信じた宗教の行くべき場所に行くんだと思うよ。生まれてくる場所も違えば、死後も人それぞれなんだよ。でも、死後の世界は選べるからいいよね」
「何も信じていない僕はどこにいけばいいんですか?」
「今から考えればいいよ。遅くない。それが生きることと向き合うことなんじゃないかな」
「なるほど。ダンさんはどこに行く予定なんですか?」
「それは秘密。教えるとカイくんに僕のものを押し付けるみたいになっても嫌だからね」
「ケチですね」
「お、言うねえ。強いて言うなら、感情が無くなる世界かな」
 ダンさんは、煙に向かって手を合わせていた。僕もそれにつられて手を合わせる。
 目を瞑りながら、死後の世界について考える。しかし、想像などできなかった。死後の世界で会いたい人も、会いたくない人もいなかった。僕に与えられているのは、『無』なような気がした。真っ暗で孤独だった。誰にも必要とされず、命を全うすることなく死んでいくような気がした。自分の体が、芸術作品や音楽に使われることが少し羨ましく思えた。
 もう一度、火葬場を見てみると、何か生き物が肉片を啄んでいた。しかし、鳥にしては大きすぎる。人間の身長ほどの大きさをしている。体躯は黒く、茶色の布のようなものを纏っている。見間違えかと思って目を瞑りもう一度見てみたが、見間違いでなさそうだった。その鳥は、一度食べるのをやめ、僕の方を見た。心臓が一瞬止まった。しかしまた、すぐに死体を貪り始めた。生命から生命につながっている瞬間なのかも知れない。
また歩き出す。足取りは重かった。ここにきて何時間ぐらい経ったのだろうか。情報量が多すぎて、パンクしそうだ。僕の脳は、まるで堰き止められたダムが轟音を立てて氾濫しているようだ。目も疲れている。
 次に入った家は静かだった。ここは、僕の心に波を立てないことを祈った。頭も体も疲労困憊していた。中に入ると一階には何もなく、ただ人が生活している民家のようだった。ダンさんはスタスタ歩き二階に向かう階段をのぼる。僕は内観を見て回ったが、特に変わったことがない。二階に上がる。廊下を挟んで左右に二つしか部屋がなかった。右側でカリカリと音が聞こえたのでそっちのフスマを開ける。その部屋の中は、一面に木の人形が並んでいる。大きさもそれぞれ違い、立っている人形もいれば、座っている人形もいる。男もいれば女もいる。その真ん中で一人の男が彫刻刀を使い人形を掘っている。
 彫刻の人形だけでは、今までのものよりは衝撃を受けなかった。しかし、何か違和感を感じた。これだけの木があるなら、森にいるような気のいい香りがしてもおかしくない。だが、木の香りはほんのりしかせず、異臭の方が強いように感じる。鼻を抑えるような異臭が襲ってくるのを感じた。後退りながら静かに部屋を出る。一度呼吸を整える。そしてもう一度部屋に入ろうとすると、ダンさんが彫刻師と話している声が聞こえてきた。
「ものすごい綺麗な形ですね。まるで生きてるようですね」
「ありがとうございます」彫刻師は穏やかな声でした。
「今作っている人形は中が空洞なんですね。中に魂が入るんですかねえ」
「いえ、全部空洞なんです」
「それには何か意味があるんですか?マトリョーシカみたいなものですか」
「そうではないんです。この中に亡くなった人の内臓の一部を入れるんです。悪かった部位や残しておきたい器官を。そうすることであっちの世界では仏となって、自分の痛いところなど関係なく暮らせるんです」
「なるほどそうなんですね。それは素晴らしいですね」
 僕は想像して嘔吐感を抑えきれなくなった。もうすでに限界が来ていた。自分を誤魔化すように、ここの住人の気分になっていたが甘かった。走って一階に降りる。外に出て、大木の近くで嘔吐した。
 ここの島は行き過ぎている。常軌を逸した無法地帯だ。ご飯を食べてから何時間も経っているため、出てくるものはほぼ胃液だった。黄色い液体が地面にへばりつく。四つん這いになりながら何度も戻した。内臓が出てくるほどだった。呼吸が荒くなっているのに気付く。暗闇が追いかけてくる。僕には、暗闇が接近してくることはないと思い込んでいた。暗闇は容赦無く近寄り、僕を追い抜いていく。いつの間にか光さえ見えない。意識が遠くなっている。

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