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見えない湖 11

 人が光に集まる虫のように群れを成している。その中を僕も歩く。交差点には信号待ちをした人々がひしめき合っている。その中に僕もいる。何をしに行くかも分からないが、ただ前を眺めながら、信号がスムーズに進む色に変わるのを待っている。進んでいくと、群れが獲物を押さえつけるように一斉にまえに進みだす。僕もその流れに乗って体をただ前に押していく。自分の意思など無く前に。川沿いの枯れた桜の花びらが落ちて、川に流されていくように進んでいる。進んでいるうちに、ドン、ドンと心臓が何者かによって叩かれる。その音が大きくなっていく。一人ではなく、大勢の人が僕の心臓だけを叩いていく。周りの動きがゆっくりになる。なぜか身動きが取れない。心臓だけが群集によってとらわれている感覚がある。汗が額に流れてきた。足が空中に持ち上がる。抵抗することができない。どんどんと空に上がっていく。エンジンのように心臓がどんどんなっている。気が遠くなっていくのが分かった。
 パッと目が覚めた。玄関が誰かによって、ドンドンと叩かれる音が聞こえている。
 僕は、汗をかいた体のまま玄関に向かう。
「ダンさん、ダンさん。ええのん持ってきましたぞ」
 借金とりか何かだと思っていたが、近所のヤシロさんだった。いつも野菜をあげる代わりに、何かの料理を持ってきてくれる人だった。僕は扉の鍵を開け、ヤシロさんと対面する。ヤシロさんは、大きな小麦色の麦わら帽子にジャケットを羽織り、パンツはジャージを履いている。この格好で玄関の前に立っているので、僕はいつも驚かされる。畑仕事で焼けた黒い肌を見せ、笑顔で立っている。
「ダンさんはもう畑に行ってます」僕は言った。
「そうか。んなら、兄ちゃんこれあげる。二人で食べてや」
「ありがとうございます」
「今回は高級品やからね。食べへんと損する」ヤシロさんは毎回これを言う。ヤシロさんは関西弁だった。
 紙袋の中にタッパに入れられた煮物や漬物が入っている。これで料理がまずければ笑えるのだが、本当に美味しい。
 ヤシロさんは笑顔のまま、じゃあ、と言って帰っていった。ヤシロさんの顔は、彫刻で掘られた木のように、笑顔を留めている。あの笑顔はどこからくるのかが不思議でたまらなかった。それにもう一つ気になることがある。ヤシロさんには足音がしないということだ。この家は、壁は薄いので人がきたら足音で大体わかるのだが、ヤシロさんが来た時は、いつも分からない。帰っていく時も、足音がしていないようだった。


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