見出し画像

見えない湖 18

 虫の鳴き声が耳元で膨張してくる。胸の鼓動とともに、耳から聞こえる虫の鳴き声が大きくなる。ダンさんの足取りは重いように見えた。
 二十分ぐらい歩いたところに、小さな小屋が見えてきた。手入れをしている様子もなく、木も朽ちかけている。近寄っていくと、その汚さが目に見えて分かる。ダンさんは、素通りしていくと思っていたが、近寄って行った。「ちょっと待ってて」と言って、ダンさんだけ入って行く。その間に周りを見渡して見たが、山と小道と小屋しかなかった。木々が擦れ合う音が耳に入ってくる。いつも家で聞いている音なのだが、今日の音は違っていた。鉄と鉄がぶつかり合うように聞こえる。落ち着かせるために息を大きく吸い込む。自然の匂いを取り込めると思っていたが、異様な匂いがした。何かが腐ったような匂いが微かにした。明らかに自然からは逸脱していた。
 ダンさんが笑顔で戻ってきた。「じゃあ行こうか」と言ってまたさらに小道を歩き始める。
「誰かいたんですか?」僕は言った。
「いや、この山に登るのには許可がいるからね。名前を書いてきただけだよ」
山が少し急になってくる。木や枝を支えに山を登っていく。日頃、運動とは無縁な生活なので、息が上がる。手に枝や竹の感触を握りしめながら足を前に進める。山奥まで来ると小鳥ではなく、鳥の鳴き声も大きくなってきた。一時間ぐらい経っただろうか、山の出口のような光が見えてきた。新しい道と不安でとてつもなく長い時間に感じた。この光の先に『楽園』があるのだろう。これだけ人里離れた場所にあるということは、それだけ人の目から離さないといけないわけがあるのだろう。色々な想像が頭の中を駆け巡る。
「よく頑張ったよ。流石だね」
「いや、まだ若いんで大丈夫です」そうは言ったが、足は震えていた。もう歩けないとまではいかないが、足が山を登ることを拒否している。
 山を出るとそこには小さな村があった。村を分断する道の両側に何軒かの家が建っている。最初に入ってきたところのようだった。すべてが木造で、二階建ての家も数件しか見当たらなかった。
「ここがいわゆる『楽園』だよ」ダンさんは意気揚々と言った。
「この村がですか?」
「何もかも外見では判断できないんだよ。中を見てみないことには」
 村には人の姿が見当たらなかった。聞こえるのは近くで流れている水の音と山から聞こえる小鳥の囀りだけだった。それに、山の中で匂った匂いの発生源はここであることが明らかになった。鼻を塞ぎたくなるような腐乱臭が空中から襲ってくる。僕の想像していた『楽園』は、人が村の外でも笑顔で笑い合い、共同作業をして楽しそうに暮らし、ラベンダーや柑橘系の香りを放っているイメージだった。だが、村に入っていきなり、僕の楽園像が崩壊した。しかしなぜか、想像していた『楽園』ではなくホッとした。
 ダンさんは毅然とした態度をしているのかと思ったが、そうでもなさそうだった。苦虫を潰したような顔をしながら、マスクを取り出した。僕にもマスクを渡してくる。
「さすがに僕もこれは耐えられない。食べ物だったら胃に入れるまでだから大丈夫だけどね」ダンさんは鼻声で言った。
 何軒か入って見るつもりだ、とダンさんは言った。一軒目は、玄関が木の引き戸だったが、半開きになっている。失礼します、と言って中に入った。玄関から靴を脱いで居間に上がる。鉄臭い匂いが鼻に入ってきた。吐き気を催す。
目に飛び込んできたものは『赤』だった。木造建築の中には違和感があるほど、部屋一面が『赤』だった。目を凝らして見てみると、キャンバスが赤色で塗られているようだった。その赤色の中に君臨するように、髪の長い人が背を曲げて机に向かって何かをしている。じっくり見てみると、絵を書いているようだった。その机の横には、2リットルのペットボトルの中に赤い液体が入ったものが並べられていた。
「あの人は、血で絵を書いているんだ」ダンさんは声を潜めて言ってきた。
「ちってあの『血』ですか?」
「それ以外に血はないよ。以外と落ちないから消しにくいらしいよ」
 ここにある絵が全部血で書かれているとは想像できなかったが、鮮やかで綺麗だった。赤で染色された世界は、人を心から沸き立たせるように思えた。特に僕が圧倒されたのが、描き手の正面にある絵だ。大人の身長ほどあるキャンバスに血で大きな円が描かれ、真ん中だけ白が残っている。大きな筆で書いたような円は、僕を見通しているように思った。その円も目を凝らしてみると、人が細かく描かれていた。
 ダンさんと眺めていると、部屋の中心にいる人物が顔を横に向けて、こちらを目だけで眺めてきた。その顔は、髭を何週間も剃っていないように毛で顔が覆われていた。男であると分かった。その男はこちらを見たもののすぐに顔を戻し、作業にまた没頭し始めた。行きましょう、とダンさんが言って外に出た。
 外に出ると、詰まっていた空気が出るように呼吸がこぼれた。冷静に考えるとあの状況はおかしい。人の『血』を使って絵を描くことが許されるのか。それにあれを書いて生活ができるのだろうか。ポップコーンのように疑問が溢れて止まらなかった。僕はあのペットボトルの中に入っているのが血だと思い出すと、気分が悪くなってきた。
そんなことを考える隙も与えてくれず、ダンさんはスタスタと足を進めていく。ダンさんの足取りはなぜか機械的だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?