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見えない湖 9


 この村に慣れてきたつもりだったが、それは『つもり』であったことに気づく。見慣れない小道、見慣れない用水路、見慣れない家屋が広がっている。遠くで見たつもりの景色も違った立ち位置から見ると、違う世界に来たように感じる。用水路はいつ整備されたのか分からないぐらい古く、コンクリートの部分が見えないほど苔の緑で覆われている。用水路の脇には雑草が生えている。春になると、たんぽぽがいっぱい咲くのだろうか。用水路のそばの小道は途中からコンクリートで途中まで土だ。コンクリートも整備がされていないように所々にヒビが入っている。
 ダンさんが周りを見ながらゆっくりと歩いているので、僕も同じように周りを見たのかもしれない。日頃気にしないところに目がいく。
「夏前には蛍がたくさん飛んでたんだよ。来年が楽しみだね」ダンさんが用水路を見ながら言った。
「僕、生で蛍見たことがありません」僕は言った。
「じゃあ来年は見ると良いよ。こんなに綺麗に蛍が見えるところなんて珍しいからね。人工的ではない光っていうのは良いよね。なんで良いのかわからないけど」
 前方から賑やかな声が聞こえてくる。進んでいくと、少し広めの駐車場に、テントがいくつか張ってある。その下で、机の上に商品を並べている。テントの中ではなく、地面にブルーシートを敷いて、そのまま商品を売っている人たちもいた。
 公民館だろうか。駐車場の奥に小さい建物が一つあった。一階建ての平家で、玄関は開け放たれていた。建物自体白かったが、新築のようではなかった。この村の建物は基本的に新しいものはない。いつかの時代に時が止まっているようだ。
 駐車場の中は、色とりどりだった。草木や動物の骨で作ったアクセサリー、自作の絵本や小説、畑で取れた新鮮な食材、自分たちで編んだ織物、カーテンなどのゴミで作った服など、多種多様なものが色んな方法で売られていた。僕はこの新鮮な空間に胸をワクワクさせる。売っている人も買いに来ている人々も少し浮かれているように見えた。
「ここは物々交換だからね」
「え、そうなんですか」
「だからほら」、と言ってダンさんは鞄の中から、いっぱいの小物を出した。「僕が持ってきてあげたから。結構色々なもの入ってるから欲しいものと交換しておいで」
 ダンさんは、小物を幾つか僕用にビニール袋に詰めてくれた。ギッシリ詰まった袋を持って辺りを回る。
 人が賑わった空間に身をおいたのは久しぶりな気がする。体が強張ってしまう。
「お兄さん似合いそうだよ、これ」と、アクセサリーを見ている僕に、売っている男が声をかけてきた。それは、小さな動物の頭蓋骨をアクセントにしたネックレスだった。さすがにこれは似合わないだろうと思う。
「そうですかねえ」僕は苦笑いしながら言った。
「絶対似合うと思うよ」
 僕は、逃げるようにしてその店を後にした。ダンさん以外の人と話すことはないので、戸惑いを隠し切れなかった。
 次に見た店は、派手な布で小物や服が作られている店だった。この駐車場内では一際浮いているように感じられる。少し眺めて見ていた。顔を上げて、店員の顔を見た瞬間「あっ」と声が出てしまった。この前、家に来た女の人だった。だが、女の人は不思議そうに僕を見ている。似ている人なのかな、と思ったが確実に顔が同じだった。ダンさんが危ないと思って見渡してみたが、ダンさんは遠くで織物を眺めていた。もう一度女の顔を見る。同じ顔だったが明らかに雰囲気が違っていた。
「あの、この前、僕の家に来られましたよね?」僕は恐る恐る聞いた。
「え?なんの話ですか?お会いしたの初めてですよね」女は恐る恐る言った。女の顔は赤らみ、下を向いていた。
「え、あ、僕の間違いかもしれないです」そう言って、僕は立ち去った。
 どう見ても同一人物なのに、どう見ても同一人物ではないようだった。その場から少し離れる。遠くに行ってから、もう一度あの女を見てみた。やはり、前家に来た人と同じ顔だった。首を傾げてみていると、ダンさんが女の店に立ち寄る。あんなに嫌がっていたのに、普通に喋っている。何を喋っているのかは聞き取れないが、楽しそうに話しているのが見てわかる。初対面の雰囲気ではなく、親しいような雰囲気だった。また後で聞こうと思った。が、他の店を見て回っている時にもやはり気になった。
 この村だけで採れる野菜で作ったオニオンスープを飲む。髭を生やした粋のいい若い男が売っていた。売っている人は、僕が苦手としているタイプの人だったが、香ばしく、脳を刺激する匂いに誘われて買ってしまった。僕はダンさんからもらった袋から、懐中電灯を取り出して渡す。店主は嬉しそうにしていた。
 会場内でも人がいないベンチを見つけて、座ってスープを飲んでいた。口の中で玉ねぎとトマトの味が絶妙にマッチしていた。外で飲むスープはこんなにも美味しのか、と感嘆する。味を楽しんでいる束の間、僕はダンさんが今どうしているのかが気になった。ダンさんを目で探してみたが、見当たらない。ダンさんも僕を探しているかもしれないと思い、心配になった。ダンさんを探すか、スープを飲んでしまうか迷う。迷いながら立ち止まっていると、ダンさんはあの女と二人で歩いていた。さすがに僕は、その中に割って入ることができなかった。
 諦めてまたベンチに座り込む。少しぬるくなったスープを一気に飲み干した。カップの中に玉ねぎが少しだけ残ってしまった。スプーンでかき回し、最後の玉ねぎを食べる。カップを顔の前から下ろした瞬間、ダンさんが目の前に立っていた。心臓が飛び跳ねる。ダンさんの後ろには、さっきの女もいた。
「こんにちは」女が言った。僕は状況がわからず、目を伏せる。
「カイくん、ちょっとの間一人で楽しんでて。落ち着いたら戻ってくるから」ダンさんが言った。
「あ、はい」
「この子がカイくん?可愛いね。ダン本当に自由な人でしょ。まあでもいいとこたくさんあるからよくしてあげてね」女は僕の額にキスをした。僕は身動きが取れず、ただ立ち止まるしかできなかった。
 ダンさんは、「分かったからもういこ」、と言って女を引きずって行った。僕はまた取り残される。やはり前見た人に、間違いはなかった。しかし、雰囲気といい服装といい、全く違う印象をうける。さっきとも違う人に見えた。謎はますます深まった。
 ダンさんが行ってしまうと、僕は一人で会場を回った。ここには一人として同じ人はいなかった。いいことか悪いことかの判断はできないが、みんな楽しそうにしていた。ダンさんが帰ってくるまで楽しむことができた。だが、疲れもどっときた。家に帰るとすぐに寝てしまった。

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