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見えない湖 8


 カラスの鳴き声が聞こえる。ここでは、聞こえるという表現が正しいとは思わない。カラスがうるさく鳴いている。外に出て、鳴き声のする方向を眺めてみた。葉を落とし、春に向けて栄養を蓄えている大木に、蕾のようにカラスたちが集まっている。争っているようにも戯れているようにも見える。絵のようにも見える。
 カラスは単独で行動する生物だと思っていた。あんなに集まって何をしているのだろうか。自分で作った木の椅子に座りながらカラスの群衆を眺める。僕の存在なんか見ていない。百匹近くいる中で、観衆は僕だけだった。でも、カラスたちは僕の存在なんか気づかない。気づいたところで逃げもしないだろう。また、何処かからきた大軍が木に止まる。猿には階級があるように、あのカラスの集団にも階級があるのだろうか。注目して見てみたが、木のテッペンで鳴きわめくカラスはいなかった。一匹一匹が、お腹の中からカラスくらい大声で喚いている。
 空の色が青から、暖色に変わっていく。空は橙色と青色が混じっている。カラスの集った葉のない木の枝は、切り絵を見ているようだった。カラスの呻き声とともに迎える夜も悪くない。家に帰ったら、緑茶を飲もう。葉をいっぱいふやかした、濃い、濃い緑茶を飲もうと思った。

 鼻と耳が、血管が通っていないと思うほど冷たかった。体は布団の中に収められているのに、顔だけが部屋に飛び出している。氷河の上に取り残されたペンギンのように、顔だけが暖かい世界から隔離されている。ストーブも夜中中つけると、乾燥してしまうのでつけられない。冬はこの寒さを乗り越えなければならない。
 僕は目を覚ました。覚まそうとして覚ましたのではない。体が今日はもう寝させてくれないようだ。
 体を立ち上げ、居間に向かう。いかにも外れそうな襖をゆっくり開けた。
「カイ君、今日は何するんだい?」ダンさんが言った。「また森に行くのかい?」
「何も考えてないです」僕は閉まっている声帯を振り絞って言った。
「じゃあ今日は、お祭りにいこう」
「お祭り?」
「みんなが出し合うんだよ。自分の得意なものや、作ったものを。そういう行事が実は定期的にあるんだけど、最近全然行けてないから行ってみてはどうかなと思って」
「ちょっと考えてみます」
「分かった。明日までは考えないでね」
「それは大丈夫です」
 ダンさんはいつにもまして陽気だった。台所で料理をしながら、鼻歌を歌いそうな雰囲気で笑っていた。味噌の良い匂いが部屋中に蔓延する。鼻腔を通り抜けた時、胃にまでいい香りが到達した。胃が大きな音が鳴らした。
「カイ君のお腹はいつにも増して元気だねえ」ダンさん言った。お玉を持って、顔だけがこちらに向いていた。
「すみません」僕は、机の前に正座しながら言った。
「それは日本人特有の病気だよ」
「え?」
「謝り病って言うんだ。カイくんは重傷だ」
「すみません」
「ほらね。でも、僕の作った調理が美味いと思ってくれただけで、僕は誇らしいよ。さ、今日も美味しく出来た。お腹無くなるまで食べて」
 ダンさんは屈託のない笑みを浮かべている。手には、自分の分と僕の分の味噌汁を持っている。木でできたお碗は、味噌汁の湯気を引き立てていた。

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