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見えない湖 6

 心臓が高鳴っていた。まだ少し暗いのに目が覚める。久しぶりに怖い夢を見た。身体中にべったりとした汗が染み付いている。
 襖の隙間から明かりが見えた。ダンさんはいつも僕より早く起きている。早く起きて体操をしていることが多い。僕が遅く起きてきても何も文句など言わず、体操に力を入れてやっている。音楽はラジオ体操だったが、僕が知っているラジオ体操とは異なっていた。
「いつもやっている体操って何なんですか?」と、僕は一度ダンさんに尋ねたことがある。
「ラジオ体操ヴァージョン48だよ」
「そんなのあるんですか?」
「あるも何も僕がやってるからこの世には存在するんだよ」
「そこまでヴァージョンがあったんですね」
「いや、それは僕が改良した」ダンさんは言う、「それぞれの体操には意味があって、伸ばす部位や動かす部位が違う。でも、やっぱり人によって伸ばさなくていい部位やそれぞれの仕事で酷使する部位は違う。だから僕なりに改良を加えてやってるんだ。毎日同じ習慣を繰り返すということは少なからず大事だと思うんだけど、やっぱりその中にも遊びを加えないと続かない時もあるからね」
 ダンさんは笑顔で体操をしていた。その姿がかっこよかった。こういうところに惹かれて僕はここにずっと滞在しているのかもしれない、と思った。ダンさんの後ろでいつも知っているラジオ体操を踊る。ダンさんの体操とはまるで違い、吹き出しそうになった。笑いを必死にこらえながら体を動かした。
 今日は昼まで畑を耕した。新しい畑を開拓するために。ここにきて半年で、ダンさんは僕にも一つ畑を作ることを提案した。僕は少し渋ったがせっかくの経験なので同意した。一から何かを作ってみるのも面白そうだ、と思った。
 農作業に本格的に従事することは初めてだった。そのため、しんどいのではないかと思っていたが、単にしんどい、で片付けられるものではなかった。荒地から畑を作り、そこに種を植え、食物が育っていく。何もないところから、自分の手で新しい命を育んでいくことのワクワクを日々感じることができた。もちろん、力仕事はしんどかった。体全体が痛むし、果てしないと思うこともあった。ダンさんの的確なアドバイスでなんとか日々を乗り越えることができた。
「君にはフロンティアスピリッツが生まれつき備わっているのかもしれない」と、ダンさんは言ってくれた。よく分からなかったが嬉しかった。
 現状はまだ、荒れ地を半分耕したぐらいだ。この家にはトラクターなど無く、鍬で少しずつ荒地の範囲を狭くしていくしかなかった。この作業は楽しいものだと勝手に想像していたが、僕の勝手な想像で完結した。体制は上半身が地面と平行になるため、腰にはかなりの負担がかかる。腕は固い土をかき混ぜるのでパンパンになってしまう。ダンさんはこの作業には少しも手を貸してくれなかった。最初にどのようにするか、だけ説明をしてくれただけで、あとは自分の作業に没頭していた。同じ作業の繰り返しで、手のひらには豆ができて、潰れての繰り返しでだいぶん固くなっていた。だが、慣れは強かった。筋肉も引き締まった気分になった。
 作業は午前中しか行わない。午後からは自分のしたいことをするように言われた。「江戸時代までの人も作業は午前中しかしないから」と、ダンさんは言っていた。午後から僕は、これといってしたいことがなかった。そのため、あの湖の魚の捕獲について考えた。釣竿をどのように改良するのか、どんな網を持っていくのか、竹で作るのか、鉄で作るのか。夢中になって考えた。こんなに夢中になったことがあっただろうか。お金のことは考えず、ここにある自然物で何かを作り出す。こんなにも難しく、楽しいことはなかった。

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