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見えない湖 14

 朝の日差しが窓の隙間から迷い込んでくる。その光によって、舞っている砂埃が見える。いつもと同じ朝だが、いつもと違う朝だ。
「今日は何かしたいことはある?」ダンさんは編み物をしながら聞いてくる。
「特にありません」
「じゃあ行きたいところあるから一緒に行こう」
 ダンさんはこうやって色んな所に連れて行ってくれる。
「今日は少し遠出だからね」そう言って、編み物をいつもの箱にしまった。いつも編み物をしているが、完成形をみたことがない。
「ちょっと着替えてくる」と言ってダンさんは自分の部屋に戻っていく。
 今まで連れて行ってくれた場所は、牛小屋や牧場、革製品を作る場所などそれほど遠い場所ではなかった。しかし、今回はどこに行くのだろうか。不安と緊張が体を張り巡らせるが、新しいことを学ぶことは間違いない。
 部屋から出てきたダンさんは、上は赤いマウンテンパーカーで、下がポケットの多い黒のチノパンを履いて出てきた。そんな恰好を見ると、自分は何か着替えないといけないのではないか、という無駄な責任感にかられる。しかし、ダンさんが黒のマウンテンパーカーを貸してくれた。ダンさんにもらったり借りたりする服は、いつも自分にぴったりだ。まるで、僕の身長や身の幅を知っているみたいに感じる。しかし、それは偶然なことだろうと思う。
 ダンさんは僕に、リュックにいるものは詰めたから何も持たなくていい、と説得した。歩いて漁港に向かう。歩いて三十分ほどかかった。秋とはいえ、流石に汗をかいた。
漁港には、何人かの人と生き物が集まっていた。空でカモメが鳴き、港には多くの船がコンクリートに沿って並んでいる。規則的に並んだ船は、会社で毎日働く人間のようで気持ちが悪かった。漁師と思われる人物も何人かいる。だが、スーツをきた人も何人か見られる。すごく、不自然に感じた。
ダンさんは、一人の漁師に声を掛けて、船を借りられるか交渉していた。僕は、少し遠くからその様子を見ていた。
「ちょっと遅く・・・か」
「まあ・・・てこずってます。すんません」
 ダンさんと船の前にいる男の人物が何かを話しているが、あまり聞き取れない。船の手配をしてくれているのだろう。だが、なぜか不穏な空気が漂っているようにも感じた。
 僕は、カモメを眺めていた。落ち着きがないように、あたりをうろうろとしている。何かを見つけては、口を下に持っていくが食べられないと気づくと、途端にその場に捨てる。それを幾度も繰り返していた。僕はカモメになったらどんな気分で毎日過ごせるのだろうという空想を繰り広げた。こんなじっくりとカモメを見たのは初めてだった。
 ダンさんが戻ってきた。先ほどの苦悶の表情から一変し、笑顔で話しかけてきた。
「じゃあ、行こうか」
「大丈夫でしたか?」
「うん、大丈夫大丈夫。ここにもケチな人は何人もいるからね」ダンさんはそう言って、僕に荷物を持ち上げるように促した。
僕はカモメを見るのをやめ、ダンさんに付いていく。港に止まっている船に向かう。小型船がいくつも並んでいる。その一台をダンさんが選んで、乗り込んだ。僕もついていき、乗り込む。
 定員は二人か三人ほどの小型船だった。海の波を体でじかに感じる。さっき飛んでいたカモメが空中で鳴き声を上げている。潮風が僕らを後押しするように穏やかに吹いてくる。
 どこに行くかはダンさんには聞いていないのだが、心配せずに船に乗っていれた。目的地を知ったところでどうしようもない。ダンさんも航海を楽しむように波の音を感じていた。船は音を立てながらどんどん進んでいく。
「今からどんなところに行くのか聞かないの?」ダンさんは目じりに皺を寄せながら聞いてくる。
「流れに身を任すのも大事なのかな、と思いまして」
「なかなかいいマインドになってきたじゃないか。その調子だね。それに、この航海自体も楽しまないとね。酔いはない?」
「今のところ大丈夫です。波に揺られながら乗る船もいいですね」
 陸を離れ三十分ほど進んでいくと、出てきた島を離れ、遠くに島がポツンと見え始めた。どこを見渡しても陸続きの島はなく、ただ一つだけ海に取り残された島が、海面に浮かんでいるのが見えてくるのみである。直観を働かせなくとも、あそこに行くのだろうと分かる。
 船などめったに乗らず、海にも触れることが無い僕にとって、海の上は新鮮だった。磯の匂いも聞こえる波の音も、船の上の感覚も全く山とは異なっていた。最初は新鮮さに体を任せていたが、体は正直だ。気分が悪くなってきた。
頭が永遠に周り、内臓が色んなものに犯されている感覚に陥る。海に向かって嘔吐する。体の中に異物はないはずなのに、異物を体外へと無理やり押し出す。玉子スープのような色味をもった吐しゃ物は、一瞬にして海の養分に変わっていく。
海の水は僕の吐瀉物などもろともしないように透き通っている。水面にはクラゲが何匹か漂っている。そのまま水面を見ていると、大きなかげが船の下に来たように見える。少しずつその何かは水面に近寄ってくる。ゴツゴツした岩のようなものが船の下にある。驚いて顔をあげた。少し後ずさったが、その岩のような物体は何事もなかったように通り過ぎていった。もう一度、水面を見てみると、尻尾のような部分が見えた。ワニが巨大化した生物のようだった。
「もうちょっとで着くから、頑張って。あんまり下覗いてたら、落っこちて田舎帰れなくなるよ。ま、帰らなくても大丈夫か」
 ダンさんの方を眺めると、気持ちよさそうに空を眺めている。何かが飛んでいるのを眺めているのかと確認してみたが、ただビニールシートのような青さをした空が全面にしかれているだけだった。どこに行ってもぶれることのないダンさんの存在を改めて確認し、安心感を覚えた。ダンさんはすでに、さっきの生物のことを知っているように思えた。
 島に近づいてくると、島の中身が見えてくるような気がした。しかし、近づくにつれて家があるのも、人がいるのも確認できなかった。ジェットの音だけが、島に反響して帰って来る。

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